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項目 内容
ID J3200690
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(一八〇四・七・一〇)〔羽前・羽後〕
書名 〔改訂ふるさと講座 吹浦〕大西賢治編纂H5・11・20 発行
本文
[未校訂]二、文化元年の大地震(一八〇四年)
 この大地震は、六月四日(陽暦七月一〇日)夜十二時こ
ろ(酒田鐙谷文書では十時すぎ)に、庄内北部から秋田
県にかて、日本海沿岸で起こった激震であった。横町の
岡田家に、この大地震の被害について大組頭から遊佐郷
の大庄屋に報告された「御用留(控)」が残っている。岡
田家の祖先直右衛門は、当時横町の肝煎であった。
 吹浦組の村々は、横町・宿町・鳥崎・滝野浦・女鹿の
五か村である。坊中は入っていない。坊中は寺社奉行の
管轄で、町方の支配になかったからである。この報告の
控えによると、激震は二回で、六月四日夜九ッ時(十二
時)と翌五日夜五ッ時(八時)に多くの被害をうけてい
る。当時の吹浦組の戸数は一八九戸、その被害は潰家(つ
ぶれ家・全壊)一一八戸、居住不能六四戸、無難四戸、
死人七人、死馬九疋、鎮守と寺潰四、田畑の不毛や痛み
多く、浦通りの道路は大破、余震が続き、家と食糧を失
い、不安な日々を重ねたようである。
 次に岡田家文書を読み易く記し、震災の実情を見るこ
とにする。
御用留
御注進申し上げ候事
当月四日夜以来の地震につき、吹浦組の村々の御田地
は不毛の体で、畑地も所々痛み、民家潰れ、その家の
内から出火・類焼、その外痛家・死人・死馬等、大変
な次第。別紙を以て申し上げ致し、其の為御注進申し
上げ候 以上
子六月(文化元年六月) 大組頭津右衛門
今野喜七殿(江地組大庄屋)
吹浦横町村
一家数 五〇軒程
内 二軒 六月四日夜九ッ時(十二時)頃、地震
にて潰家
同三七軒 同月五日夜五ッ時(八時)頃、右同断
(右に同じ)
小計 三九軒
同 七軒 これ迄潰れ申さず候へ共、当時住居相
成り申さず候痛家
残 四軒 横町村の内、上苗無難に御座候へども、
未だ地震厳しきにつき、始終□なく存
じ奉り候
外に
一上御番所御役家は大破つかまつり候
一下御番人衆御役家は潰家に相成り申し候
一大組頭津右衛門居宅は、六月六日六ッ半時(七
時)頃潰家
但 上御座敷少し痛み、かたがり申し候
一人々の物置・蔵の類は、残らず潰れに相成り申
し候
一御田地は残らず黒砂盛り出し、当時は稲毛(稲
の姿)一切見え申さず候猶また畑地は所々痛み
申し候。未だ地震厳しく、村中地面一体は水が
湧き出し、屋敷は住居相成り申さず、山方へ散
乱いたし申し候
同宿町村
一家数 五〇軒程
内四四軒 六月四日夜九ッ時頃に、地震にて潰家
内一一軒 右同断。潰れの後久作家よりの出火に
て類焼つかまつり候
同 三軒 六月五日夜五ッ時頃、地震にて潰家
残 三軒 足(ママ)まで潰れ申さず候へども、当時住居
相成り申さず候
外に
一鎮守堂 潰れに相成り申し候
一人々の物置・蔵の類は、残らず潰れに相成り申
し候
一御田畑 前同断
但 上河原御田地の内、これにより稲毛見え申
さず候
一男女六人 潰家の下に相成り、急死つかまつり

内男二人 類焼の死人
同女四人 潰家下の死人
一馬三疋 潰家の下に相成り候死馬
内一疋 類焼の死馬
一村中の地面は横町村と同断にて、屋敷は住居相
成りかね、山方へ散乱いたし候
鳥崎村
一家数 一九軒程
内一三軒 六月四日夜九ッ時頃潰家
同 五軒 足まで潰れ申さず候へ共、当時住居相
成り申さず候
残 一軒 (上と同文)
外に
一鎮守堂 大破つかまつり候
一馬三疋 潰家の下に相成り候死馬
一御田畑 前同断
滝野浦村
一家数 二三軒
内一五軒 六月四日夜九ッ時頃 右同断
内 右潰家の伝兵衛家より出火につき類焼
同 二軒 同五日夜五ッ時頃 右同断
残 六軒 足まで潰れ申さず候へ共、当時住居相
成り申さず候
外に
一鎮守堂 潰れに相成り申し候
一龍泉寺 右同断
一御田畑 前同断
一女一人 潰家の下で類焼の死人
一馬三疋 同断死馬
女鹿村
一家数 四七軒程
内 二軒 六月四日夜九ッ時頃 右同断
残四五軒 足まで潰れ申さず候へ共、始終□□□
致し奉り候
外に
一御田畑 前同断
小以
一三崎より吹浦までの道筋は、これにより大破つかま
つり、馬足相立ち申さず候。勿論往来の諸伝馬仕送
り等つかまつる人夫相勤めかね候仕儀に御座候
一組中一統は、かねて夫食ゆき足りかね候ところ、今
度の大変につき、及び消命候者共多く相見え、猶又
他所へ引越したき趣等、申し聞かせ候者もこれ在り
候。左候へば始終亡村の墓□と察し奉り、迷惑至極
に存じ奉り、それ等の儀について色々申し含めて誓
わせ候へども、未だ寸暇これなき地震にて、人気は
治定つかまつらず候様に相見え候。嘆かわしく存じ
奉り候。成るだけ申し含めたく存じ奉り候。以後進々
申し上げべく候
一地震以来、毎日一丈余位い汐さし引き怠りなくにつ
き、一統怪しみ申し候
一吹浦両村の郷蔵は半潰に成り申し候
右は当月四日夜よりの地震にて、組中大変に至り候に
つき、別紙で御注進申し上げ候 以上
子六月
肝煎 直右衛門
同 市右衛門
同 与右衛門
同 又右衛門
同 藤助
大組頭津右衛門
今野喜七殿
外に書状一通相したため、御地役所へ出す
右飛脚は孫十郎 六月七日に差し登らせ申し候
一六月八日より二夜三日 御祈禱 両所山へ御願い申
し入れ申し候
一売米これ無く、村中迷惑の者共多くこれ在るにつき、
内なる又左衛門 市右衛門 善吉 右三人より米十
五俵差し出させ、一升につき三十八文づゝ相払い、
難渋を凌がせ申し候。相応なく右米払方世話人は善
五郎 佐平小老ども両人に申し付け、一同限改方直
右衛門が見届け申し候。尤も□極難渋の者へは貸し
付け結ばせ候
(貸し付けを受けた人の名前は略す)
合 三一軒
三、文化の大地震における近隣地域の被災
 次の記録は、遊佐町史年表および酒田市史に基づき、
まとめたものである。
① 遊佐郷
潰家屋一四四七 大破家屋六四四 焼失家屋一九
潰土蔵六四 大破土蔵五二 潰郷倉二三 大破郷
倉二八 稲倉六六 大破稲倉一五 全潰鎮守四三
大破鎮守五二 圧死人一〇九 怪我人七〇 死馬
一四九
② 亀ケ崎城内 大痛み
大手橋は途中から二つに折れる 大手門は左右に
傾く
城代宅、長屋ともに潰れる 家中屋敷一三軒潰れ

町奉行所潰れ、他に役家五か所潰れる 御米蔵二
か所潰れ、残りは痛み 足軽屋敷など九三軒潰れ
る 町筋にひび割れ生じ、土砂や水を吹き出す
③ 酒田町
潰家三七三 大痛家四一四 潰蔵一七八 大痛蔵
四一二
寺院大痛み 林昌寺・善導寺・正徳寺・海晏寺・
泉流寺・妙法寺・龍厳寺なお持地院と海向寺は痛
まず
社家潰一 修験潰三 焼失家屋二三 焼失蔵五
死亡者一六
④ 荒瀬郷
潰家三九七 死亡者四五 死馬一八
⑤ 平田郷
潰家五三一 死亡者一六
⑥ 塩越(象潟)
全半壊五五〇 死亡者八五
⑦ 小砂川
全半壊六〇 死亡者七
なお、遊佐では代官諏訪部権三郎が、その惨状を見
て郷倉数か所開き、藩の米四〇二〇余俵を農民に貸与
したと伝えられている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 315
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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