[未校訂]「酒田大じしんの次第」(国立歴史民俗博物館蔵)
―文化象潟地震のかわら版―
白石睦弥
長谷川成一
はじめに
(前略)
本稿では、従来ほとんど知られていなかった地震史料
を紹介して、近世後期の出羽国に甚大な被害を与えた文
化元(一八〇四)年の象潟地震に関して新たな知見を加
えることにしたい。翻刻文は本稿末に掲げた。
一、史料の概要
「酒田大じしんの次第」と題された本史料は、国立歴史
民俗博物館の所蔵にかかり、摺物として制作された所謂
かわら版である。題目の刷られた表紙【図1】を含めて、
袋綴五丁の分量で、多くが一枚物で構成されているかわ
ら版の中では少々珍しい形態である。表紙には版元と推
定される「板本(元)新六」の名が記されており、そのほかに
も印刷ではない後筆の文言が見える。
表紙を開いた初めのページ(二丁目)には、ルビが細
かく付されているが、訂正などの書き込みがなされてお
り、ルビ自体にも多少の読み違いが見られる。後掲の翻
刻文中のルビは史料表記に従い、そのまま翻刻した。史
料中には変体仮名も多いが、筆者は適宜これを平仮名に
改め、読点を付すこととし、校訂に際しては概ね『新青
森市史』編纂の校訂要領に従った。
本史料の「酒田大じしん」とは、発生日に鑑みると文
化元年の出羽国象潟地震のことであるが、内容の大半は
象潟(現秋田県仁賀保市)ではなく、酒田町(山形県酒
田市)の被害状況を克明に記録している。そのため「酒
田大じしんの次第(傍点著者)」と題されたものであろう。
以下、同地震を文化象潟地震と称し、簡単に触れておく
こととする。
二、文化象潟地震
象潟は松尾芭蕉(1)が『奥の細道』の中で「松島は笑うが
如く、象潟はうらむが如し」と日本三景の一つ松島とな
らべ評した景勝地である。「伊能図」をはじめとした多く
の絵図類にもその存在を確認することができ、また絵画
や屛風などにその美しい姿を描かれることも多かった。
しかし、文化元年六月四日(一八〇四年七月
十日)夜四ツ時(午後十時頃)に発生した直
下型の大地震は、浅い湖に多くの小島が浮か
ぶその優美な景観を一瞬にして破壊した。こ
の地震によって浅い湖であった象潟は一八
〇センチメートル以上も隆起したと推定さ
れており、たたえていた湖水は流出し泥沼と
化したのである。その後、象潟蚶満寺の和尚
覚林が景観保存をめぐり領主の六郷氏と対
峙し、象潟は現在にその名勝としての面影を
残すこととなった(2)。
この地震では北は松前まで有感であった
らしく、松前藩の『松前蝦夷記(3)』には「先年
羽州秋田能代湊大地震之時(中略)少々ゆり
申候由」とあり、地震の少ない蝦夷地では珍しいことと
記されている。また弘前藩の官撰史書「封内事実苑(4)」に
は「昨夜強地震致、夫より今日(六月五日、筆者註)迄
時々地震」のように本震だけでなく余震についても記録
している。南は越後・佐渡まで揺れた事が『佐渡国略記』
などから確認でき、「(六月)四日、夜四時過地震、越後
筋所々損所有之、別而羽州象潟大痛、蚶満寺等破壊之由(5)」
と見える。象潟のある「塩越村」(現秋田県仁賀保市)の
被害は、潰家三八九棟・死者六九人という壊滅的なもの
であった。被害の概要については、【表1】をご覧いただ
きたい。
宇佐美龍夫氏は、当該地震の震源を鳥海山と遊左・吹
浦の中央あたりにあると推定している(6)。一方、萩原尊礼
氏によれば、土地の隆起分布や津波の波高分布などの調
査により、推定震央は象潟付近の海底と考えられており(7)、
ほとんど象潟直下型の地震であった。マグニチュードは
六・九~七・一と推定されている。
なお、象潟を中心とした地域で歴史時代に発生したと
考えられる地震は近世以降のものだけでも数度あり(8)、そ
れらを区別する意味で当地震を文化象潟地震と表記し
た。
三、史料の内容について
本節では、本史料により文化象潟地震の諸相について
見ていきたい。特に断らない限りは「酒田大じしんの次
第」を典拠としている。
さて、地震発生の日時は「文化元子六月四日夜四ツ過」
とあり、他の多くの史料と同時であるが、「俄」に地震が
発生したという記述は前震があったとする史料などと比
較すると、少々異なっている。また、近世期の多くの史
料では、この地震が当時噴煙をあげていた鳥海山による
ものであるとその関連性が記されており、本史料でも「海
ケ山」の地が鳴り響き、地震が発生したとしている。し
かし、現在ではこのような火山性の地震であるという考
え方は否定されている(9)。
地震発生時の様子はさほど具体的ではなく、老若男女
が泣き叫ぶ様子など、その惨状を記している。地震後、
崩れた家々から出火し酒田町の青戸小路・片町など三〇
〇軒余が一日にして焼け上がったという。
「七八間の山」が酒田の城内(亀ヶ崎城カ)に出現し、
橋や土蔵も全て痛み、地割れからは水が噴き出すなど城
内の被害も大きく、寺々でも寺門や御堂などの建物が痛
んだり崩れたりし、やはり水が噴出している。「いなり山」
などの山々も崩れ、町々は「内町・新片町・つきぬき・
八間町・青戸小路・米屋町・浜の町・舟場町・かしはた
通り・秋田町・六間小路」などで一五〇〇軒が潰れ、一
軒たりとも被害を受けない家はなかったという。土蔵は
三三五七ヶ所が痛み、三五九人が死亡した。前述の塩越
での被害については「塩越の町、死人五百四人有之」と
記されている。
余震は本震後八〇日間で「七十八ど」発生し、そのう
ち大きな余震は「十五ど」程度と記されている。酒田町
中では六月十日の夜までは家を開け放して外に小屋がけ
をして過ごしていたらしく、これは多くの災害、特に地
震に際して見られる対応策の一つで、現在の避難所生活
といったところであろうか。余震が打ち続く中で崩れか
けた家屋の中で生活するよりは、外に小屋をかけた方が
安全と言えるし、象潟地震は夏場に発生したため、戸外
での生活は気候的にさほど厳しくなかったはずである。
本史料で注目される事象に、「ひゞ」と記された地割れ
現象が挙げられよう。繰り返し、地割れとそれに飲み込
まれた人や水の噴出などについて記されており、当時の
人々にとって足元の地面が揺れることやひび割れが生じ
ることは、心理的にも物理的にも大きなダメージを与え
る現象だったに違いない。また、多くの場所でこのよう
な地割れから水や泥などを噴出しているのが文化象潟地
震の一つの特徴でもあった。町々の井戸からは砂や泥が
吹き上げ、その高さは壱丈五尺(約四・五メートル)に
も及んだという。
地変に関しては、先述の象潟湖の隆起現象の他に、鶴
岡街道でも海岸から三四里(九~一二キロメートル)離
れた場所で貝まじりの「ざり(砂利カ)」が見られ、不思
議なことだと記されている。さらに、吹き上げた砂から
は「いわう(硫黄、筆者註)」の匂いがしていたとされ、
七年前に鳥海山が噴火した際に噴出した砂と同じもの
で、前兆現象として「ごと〳〵〳〵」という音がすると
地震が発生するとしている。
また、被害にあった人々の中でも注目すべきは、秋田
の女性二人が抜け参りの帰りに象潟の塩越に宿泊してい
ることである。伊勢などへの参宮は当時の女性が旅行を
する格好の理由であり、参宮を目的としてはいるものの
物見遊山の色彩が濃い旅となることも多かった。二人は
秋田までの帰り道ついでに、北国街道沿いの景勝地象潟
を見物しようと考えたのではなかろうか。運悪く震災に
遭遇し、彼女らは宿の梁が落下し敷居に挟まれてそのま
ま「うミへと引れ」て行ってしまったという。旅人が亡
くなったという話は他の史料でも確認することができ、
特に「参宮下向」の際に塩越(象潟)を訪れる旅人は珍
しくなかったようだ。他にも家族の救出がうまくいかず、
共々に死亡してしまった様子や、折角戸外へ避難しても
地割れにつかまって亡くなった者の話なども、やや教訓
めいたニュアンスで記されている。
おわりに
本稿で紹介した「酒田大じしんの次第」は、文化象潟
地震のかわら版であり、不特定多数の人々に読まれるこ
とを期待して作成したものである。したがって脚色や誇
張があるのは当然のこととして、また、被害や余震の数
値などについても疑問が残るものの、当時の人々が災害
に際してどのような情報を共有しようとしていたのか、
また彼らの災害観についても知ることのできる貴重な史
料といえよう。
前兆現象などから見える地震予知の知識や、被害情報
の流布など、さらに避難に際しての教訓めいた記述は、
現在の防災や減災に対する心構えにも共通するものがあ
るように思われる。今後、本史料が文化象潟地震の災害
像を検討する素材として、有効に活用されることを期待
している。
註
(1) 松尾芭蕉(一六四四~九四)江戸前期の俳人。紀行文
『奥の細道』には「象潟や雨に西施が合歓の花」の句が
収められている。なお、『奥の細道』は『日本古典文学
大系四六 芭蕉文集』(岩波書店・一九五六年)所収。
(2) 長谷川成一『失われた景観 名所が語る江戸時代』
(吉川弘文館・一九九六年)。
(3) 『松前町史』史料編一(松前町・一九七四年)所収。
(4) 弘前市立弘前図書館蔵津軽家文書。目録に示される
タイトルは「封内事実秘苑」であるが、本文中では史料
表記に従った。
(5) 東京大学地震研究所『新収 日本地震史料』第四巻
(日本電気協会・一九八四年)二七六頁。
(6) 宇佐美龍夫『新編 日本被害地震総覧[増補改訂版]』
(東京大学出版会・一九九六年)九七~九九頁。
(7) 萩原尊礼編『続古地震』(東京大学出版会・一九八九
年)五二頁。
(8) 文化元(一八〇四)年の文化象潟地震の他にも、寛永
二十一(一六四四)年九月十八日、天保四(一八三三)
年十月二十六日、明治二十七(一八九四)年十月二十二
日などに地震が発生している。前掲註(6)の宇佐美『新
編 日本被害地震総覧[増補改訂版]』に依る。
(9) 長谷川成一「歴史の中の地震その四 象潟地震(一八
〇四年)風光明媚な景観が一瞬のうちに崩壊」(『SEIS-
MO』第八巻四号(通巻八七号)二〇〇四年)本稿はそ
の他の部分についても、多くをこの論稿に依っている。
また、この論稿には本史料についても触れられている。
(表紙)酒田大じしんの次第
(後筆)「板本(元) 新六」
文化元子六月四日夜四ツ過、[俄海ヶ|にハかにうみ]山か地[鳴|なり]ひゞき、そ
れより大じしんゆ(り脱カ)[来|きた]りて、[其|その]すさまじき[事|こと]、
[寺|てら]々[家|いえ〳〵][土蔵崩|どぞうくつ]れ、又町々ろうにやくなんによなきさけ
ぶこい地ひゞく、又[間|ま]もなくゆり[返|かへ]り、[酒田|さかた]中こゝハ命
[終|かきり]ぞと[板戸|いたと]ほす[木角|きかくの]ものほし取合[其上|ミなそのうへ]に[居|いあかる]ミな一[同|とう]に
なきさけぶ[間|ま]もなく[崩る家|くするいへ〳〵]より[出火|やけいたし]おこり、[青戸小路|あおとかうじ]・
[片町|かたまち]一円ニやけ上り、じしんたへる[間|ま]なくゆり[候|そうらえ]へバ、
たゞやけ次第[也|なり]、又[家主|いへぬし]もとほうにくれ[小浜|おばま]・[吹|ふき]うら・
[小砂川|こずなかハ]三百[軒余|けんあまり]やける[也|なり]、[其火事|そのかじ]のうち、
(行間に次の文あり、後筆)「弥五兵衛 定番
助五郎 酒田大地震」
かセなく[御城代|ごじやうたい]・御[役所|やくしよ]・町[奉行|ぶぎやう]、御[家中合|かちうあハせ]て廿七けんく
つれ候、御[城|しろ]之内へ、七八[間|けん]の山[出|いて]たり、大はしやふれ
重り、七ツ土蔵ミないたミ大[橋|はし]のまひに一[丈計|じやうばかり]のわれ
水をふきいたす[事|こと]大川のことし、[寺|てら]々にてハ[本経寺|ほんしやうじ]二
[尺余|しやくあまり]りしつミ、[大信寺|たいしんじ]二尺五寸うき上り、[経堂|きやうとう]いたミ、
御門くつれ、[安浄寺|あんじやうじ]かり[御堂|ミとう]くつれ、御[材木小|さいもくこ]やつふれ、
かねつきとうかひり、[其地より|そのあとへ]水わきいて、たきのこと
くなかれ、じゆうふく[寺門|じもん]いたみ、[石|いし]ばしくつれ、[孝称寺|かうねんじ]
御とうしつミたる、
(丁数)「二」
寺町御門より二丁余有之所三尺通り[真直に|まつすくニ]三尺計りう
き、下を大地なり共通り候様にひびわれ、林称寺どそう
作、大くつれ、妙法寺御堂いたます、御門二ツ共ニ崩れ、
蔵言寺いたミ、海安寺ねしやかどうくつれ、山王どうい
たミ、神明山くつれ、いなり山ひゞわれ崩れ、町々ハ内
町・新片町つきぬき、八間町・青戸小路・米屋町・浜の
町・舟場町・かしはた通り・秋田町・六間小路、家数千
五百計つぶれ、其外家々壁崩レ、なけしはづれ、板戸は
ミじんとなり、一軒成とも万ぞくの家なし、又土蔵のい
たミ三千三百五十七ケ所、死人三百五十九人、其外て足
をひしぎ、こしをうち、尻をうたれ候者かずしれず、又
川北ゆさわの分、死人何ほどと云ことしれず、田地本田
少し残り、新田の分苗代のことく、みや門外の村百五十
軒余り有之候所、一軒もくづれさる家なし、死人五十壱
人、馬廿七疋、寺三ヶ寺是に応すへし、舟場町家片付段、
くヤんわんニよらす、尋候へハ一向見へす、ひゞより地
へ引入たりと見へ候、又舟場町真中へ八尺計のひゞ出、
川のことし、
(丁数)「三」
泥水ながれ、又町々井戸より砂どろを吹上候事壱丈五尺
よ、立よる者めはなへ砂どろ入候而立待相果候様ニ成候、
ひゞより泥を吹キ出し候事のきはもとまて上、其内にゆ
る気有、大宮と申つるがおかかいどうにほとぎり有、立
より見れは貝まじりものざり也、いそはた迄ハ三・四里
計有、ふしぎの事共也、井戸地あらまし悪くなり、おけ
かわ吹上候処も有之也、又本庄領に塩越と申、酒たより
十二り有、家数六百計有、じしんニ付三軒残惣つふれ、
海引出して家も有、かんまん寺[厩|ムマヤ]共[底|そこ]しづミ見へなく成
り、[象潟|キサカタ]からほりと成、四十八かた名所平地となり候、
かんまん寺おしやう、やくそう・うんすい、納所・下男
ニ至る迄行方今にしれざる也、塩越の町死人五百四人、
こゝニ秋田の女二人抜さんぐうの下向ニ此所へ宿付、夜
のぢしんニうろたき(え)、うら口より逃出んとうろつく内、
上よりはりをち、しきゐニはさまれ、大こい上てのうの
うたすけ給へといふうちニ、家ハうミへと引れ行、むざ
んなることとも也、酒田ニよらず、夫ハ女房引出しとも
に死する者モ有、親ヲ出し子を出し、ひゞニはさまれ三
人共ニ死するも有、妻子こわきニはさミ
*四丁の上欄に「(後筆)南沢」の文言あり 「(丁数)四」
いづる処ニ、家つふれ三人死たる者も有、又父母さいし
をいだし我の死たる者あまた有、内ハようよう出たれと、
ひゞに入て死も有、あわれといふもおろかなり、さかた
町中六月四日の夜より同十日迄ハ町中へ小やをかけ、家
明はなして外にねてゐる事はか〴〵しき事也、吹上し砂
いわうの匂ひいたし也、これ正しく鳥海山七ヶ年いゼん
より今にやける所の砂吹出すと見得たり、ごと〳〵〳〵
といふことおそろしき音也、其音するとじしんと成也、
地しん数ハ、十日までニ七十八ど、其内大ししんハ十五
ど也、六日迄ハ透間なくゆる也、本庄あらましいたミ、
亀田ハ少し、川南高声浦あらましつふれ、黒森泊の浜十
里余カミなつぶれ、舟一そういつくへ行よりつな切、沖へ
吹出され、いまだしれず、かもニて八十二そう大セんい
たミ申と咄候、