[未校訂]寛延四年の地震「越後大地震記録」
寛文五年の高田地震の後、越後・
佐渡に起こった地震には、現在分
かっているものでは次のようなものがある(『新潟県史通
史編3~5』)。
・寛文九年(一六六九) 五月五日、新発田大地震、新
発田城石垣崩壊。
・寛文一〇年(一六七〇) 三月五日、村上領・佐渡に
大地震、村上領百姓家五三
三軒倒壊。
・延宝三年(一六七五) 十二月二日、佐渡で大地震。
・宝永三年(一七〇六) 十一月四日、佐渡で大地震。
・宝永七年(一七一〇) 八月四~六日佐渡に地震。
寛延四年(一七五一)四月二十五日(厳密には二十六
日未明)、頸城郡を中心とする大地震が起こり、当地にも
多くの被害をもたらした。この地震では、名立小泊村(名
立町)で海に面した絶壁が崩落し、民家の多くを海へ押
し出し埋没させる激甚な被害が出たところから「名立崩
れ」ともよばれ、この年十月二十七日に改元して、年号
が「宝暦」と称されるようになったところから「宝暦地
震」ともよばれている。
この地震に関する記録は当地でもかなり残っている。
その一つに土尻村庄屋長谷川傳兵衛が記した「越後大地
震記録」(土尻 長谷川家文書、以下「記録」・写真5―
83)がある。これによりこの震災のありさまをたどって
みよう。
「記録」は、まず震災前からのさまざまな異変を記して
いる。
正月二十九日の朝「赤雪」が降った。諸人が驚き、そ
の雪を[茶碗|ちゃわん]に入れ溶かしてみると茶碗の底に「赤め」の
泥のようなものが沈殿した。松之山辺(東頸城郡)では
これより早く正月十七、八日に同様な雪が降ったという。
なお、この「記録」に、
前年、高田中将様御つぶれの前相に赤雪ふり、大地
震にて御家中・町家もつぶれ候えども、在々は居宅
つぶれ候ほどのこともなく、凡そ八十年余程にも候
や、むかしのためしもあり奇異の思いをなし候
とある。前記の寛文地震のことである。「赤雪」は早春に
みられる黄砂を含んだ降雪のことと思われるが、当時の
人々にとっては異変前の凶兆と思われていたようで、後
述の「弘化地震」でも同様な記録が見える。
ところで、寛延三~四年のこの冬も大雪、高田城の定
杭で「丈五尺(約四・五㍍)」だった。
・三月下旬、大瀁郷の天ケ崎村の[田圃|たんぼ]におびただしい
数の[蛙|かえる]が集まり、食い合いをする奇怪な「かわず合戦」
がみられ、前年の春にも高田辺でこれがみられた。
・四月十五日と二十二日の朝と夜半、「ひつ(南西)じ申」の方
向から「卯辰(南東)の方」方向にあやしげな雲がたなびき、
殊に二十二日の夜半に多くみられ、朝、日の出までに
は消えた。
・四月二十五日、いよいよ地震の当日である。
「記録」には次のように記されている。
その日は、朝より日天の光輝もなく、うとうとしく
致し候けしきにて、そら(空)もちかくみえ候所に、その
夜の(二十六日午前一~三時)丑の刻時分、妙光(高)山の方より米山へ大なるひか
り物出、それより大なる地鳴致し、そく(即時)じに大地を
上げ、大地震言語にのべがたく、
この地震で庄屋長谷川家は各所で壁が崩れ落ち、土台
石がずれて家が五、六寸傾き、いわゆる「半潰れ」の状
態となったが倒壊は免れている。土尻村では半兵衛と源
兵衛の家二軒が全壊した。そのほか「大痛(傷)」「半潰れ」は
二〇軒余り、「少々の痛み」が三、四軒、ただ清次右衛門・
長兵衛・重右衛門の三軒は、ここ二、三年の間に建てた
家のためほとんど被害がなく「無難」であった。
当日、「明(午前六時ごろ)け六つまで」に三度強い余震があった。その
後は九月まで小地震が頻繁に続き、十月には間隔が遠く
なったが十一月六日と八日に強震があり、外へ走り出る
ほどで本郷辺(三和村本郷か)ではつぶれた家もあった。
・四月二十六日、各所で家の外に小屋を建て、五月中
旬ころまでそこに仮居し、炊事も屋外でした。余震も
小規模になって本屋へ移ったが、仮小屋は秋中まで残
しておいた。
村々では六月まで村内に数か所番小屋を掛け、夜間二
人ずつ二組、半夜替わりで夜番を置いた。余震の恐怖と
ともに盗難などのうわさもしきりで世間は殊更物騒だっ
た。
土尻村では、篠井[堰|せき]が大破し、川原通りが割れ田畑の
損耗は甚大だった。平等寺川へ架かる橋も揺れ落ちた。
吉川に架かる鳥越村と川崎村の間の橋は近郷が共同で維
持する「[余荷|よない]橋」だったが、この橋も橋の両詰めが割れ、
[橋桁|はしげた]が三間余も西の方へずれて通行できなくなり、仮橋
を架けて通行した。
土尻村庄屋傅兵衛の「越後大地震記録」は近郷や高田
町・今町(上越市直江津)、西浜(頸城郡西部)方面の惨
状について伝聞を記しているが、ここでは省略する。
各地の被害と対策
国田村では、四月二十九日に幕府代官
設楽長兵衛川浦役所へ被害状況を次のよ
うに報告している。
恐れながら書付を以て御注進申し上げ候
一 家六軒 但し当二六日地震にて潰れ申し候
一 用水堰江通り損シ申し候
一 川はた通り田地の内、川より一〇間・一五間ツ
ツ引き込みいきれ申し候
一 な(苗)い水ニよ(汚ごれ)これ引きのき(引き抜きカ)申し候
右は当四月二五日晩より、今以て大地震にて書面通
り段々痛み申し候、今にしかと見届け成り兼ね候え
ども、先ず御注進として此の如くに御座候、以上
(国田 善徳寺文書)
また天林寺でも、五月六日に高田藩役所へ次のように
報告している。
恐れながら書付を以て御注進申し上げ候
一 田五反歩余
一 畑三町歩余
是ハ片田境より鳥越境迄河原通り田畑是の如
く、此度の地震に付き右場所ぬけ、大割れにて
田畑殊の外損失仕り候、尤もいまだしかとは
ゆ(揺れ)り止まず候故、反別明細に書上げ難く候、ゆ
りしづ(鎮まり)まり次第百姓手分に及ばざる場所は委細
改め、書上げ申すべく候
一 苗、村中にて三分一位もゆり出し用立ち申さず、
押し付け仕付け前の儀故別して当惑仕り候
一 溜弐ケ所
内
壱ケ所は土手拾八間
壱ケ所は土手拾八間
是ハ両所共ニ右間数の通りゆり割れ、水面へ抜
け下がり、其上壱ケ所は山ぬけかかり申し候故、
先ず村中にて土手割れ目水入らざる様に手入れ
繕い仕り候えども、この上いか様の痛みに罷り
成り申すべくも計り難く存じ奉り候
右は去る二五日の大地震にて当村に於いて書面の通
り損失仕り候、此の後満水など仕り候えばいか様の
痛みに罷り成り申すべくも計り難く候えども、先ず
御注進申し上げ候、以上
(天林寺 金子家文書)
やはり高田藩領の竹直村では、五月六日に、家数六〇
軒のうち、家四軒と土蔵三軒が倒壊、家二〇軒と馬屋八
棟が半潰れとなり、苗代五反歩が泥に浸かっていると報
告している(竹直小田家文書)。
このほかの村々の被害状況は明らかではない。しかし、
これまでの記録に伝聞の記載もないところから、この地
域では大きな死傷事故や火災は起こってはいないものと
思われるが、それぞれの村では前掲の史料と同程度の家
屋の倒壊や破損、耕地や用水施設、また道橋の損壊など
大きな被害が生じていたものと考えられる。
前記の土尻村庄屋傅兵衛の「記録」に、「大痛みは馬正
面・下条・河(川)井・角鳥(取)・行法、但し川井村居屋敷割れぬ
き、田中へ屋敷替えいたし五十軒出申し候、右村方人馬
も大分死に申し候」と記され、隣接の柿崎町地区の被害
は当地より甚大だったことが分かる。
このほかの頸城地方の被害を伝える資料が『新潟県史
資料編6』や『中頸城郡誌四』などにみえる。必ずしも
厳密な数値とは言いがたいが、各資料を集計してみると、
この震災による死者の数の合計は一六七一人にのぼる。
やはり、頸城地方の近世史上特筆すべき災害だったとい
うべきであろう。
この震災に対しての支配層の救済策を若干見ておく。
まず家屋の倒壊に関する援助であるが、土尻村庄屋傳
兵衛の「記録」によると、「此の儀一体の儀御座候、御公
儀様よりつぶれ家一軒に付き丁銭四百文ツツ下し置かれ
候、大小百姓有り難く悦び申し候」とあり、幕府領では、
倒壊家屋一軒につき銭四〇〇文を支給したことが分か
る。
高田藩領の竹直村では、この年十一月に金四両二分と
銀一七匁八分八厘五毛の貸し付けを受けている。「江戸表
より拝借金仰せ出され候につき、村々御手宛てとして書
面の通り御貸付下し置かれ、有り難く頂戴仕り候処実正
に御座候」とし、翌宝暦二申年(一七五二)から巳年ま
での一〇年賦で返済することとされた。「江戸表より拝借
金仰せ出され候につき」というのは、高田藩が地震の直
後幕府へ救済を求め、それが十一月の段階でようやく金
一万両の貸し付けが認可されたことによる。
これに関するに幕府の決定は十一月四日に飛脚で伝え
られ、実際には同月十七日ごろに現金が藩へ届いた。そ
のうち一〇〇〇両を城下の高田町へ、二〇〇〇両がその
他の六万石の領内へ一〇年賦で貸し付けられた(『新潟県
史資料編6』)。竹直村への貸付金四両余はこの二〇〇〇
両の一部だった。今町(上越市)の記録(前掲書)によ
る、本潰れ三二一軒、一軒につき金一分と銀六匁二分五
毛、半潰れ三八四軒、一軒につき銀七匁三分の計算で一
五〇両の貸し付けを受け、実際には複雑な形で分割し、
しかもこれを才覚金として財政の[逼迫|ひつぱく]していた藩へ差し
出している。竹直村では、半潰れ家二〇軒が各銀八匁二
分三厘五毛の貸し付けを受けた形となっている。本潰れ
家の額は分からない。いずれにしても、複雑な端数から
みて現銀が手渡されたのではなく、年貢の延伸などの操
作による救済だったものと思われる。
頸城郡南部の幕府領桶海村(妙高村)では、「家居震潰
され、諸道具等迄悉く損失仕り、作夫食無御座」と大き
な被害が出て、三九軒の百姓が金一両三分と銀一一匁四
分一厘を拝借した。この金額は米で二石七斗九升に当た
り、一〇年賦で宝暦二年から同八年まで七年間返還を続
けたが、八年目の宝暦九年以降の三か年分は[棄捐|きえん]されて
いる(前掲書)。当地でもこのような棄捐措置がとられた
かどうか、これに関する史料は伝わっていない。
損壊した用水施設の復旧では、土尻村の場合、幕府か
ら勘定所の役人上下五人が実況検分に来村、その後復旧
費用の一部が支給され、宝暦三年までに復旧している。
それぞれの村も同様な状態だったと思われる。特に[溜池|ためいけ]
[潅漑|かんがい]の多い当地では被害が大きく、その復旧に多大な労
力と費用を要したはずである。またこの地震で大潟新田
の悪水吐(排水)の潟川七〇〇〇間のうち三〇〇〇間の
岸壁が崩壊して埋まり、四八〇〇石といわれる耕地の七
分通りが[湛水|たんすい]して不毛の地となった。この復旧は国役普
請などの対策が施されたが、完全な復旧には至らず、こ
の地域は恒常的な湛水のため長く苦しむこととなった
(前掲書)。
このように、この災害は農民だけではなく領主層にも
税収減や施設復旧のための財政支出などで大きな打撃を
与えた。高田城では城地や城郭の損壊も甚大だった。高
田藩榊原家にとって、入封後一〇年目にして遭遇したこ
の災禍は殊更大きな痛手だったにちがいない。