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項目 内容
ID J3200336
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月廿六日(一七五一・五・二一)〔越後高田・越後西部〕
書名 〔長岡市史資料編2 古代・中世・近世〕H5・3・31長岡市編・発行
本文
[未校訂]三四七 専福寺の地震見聞記録
寛延四年(一七五一)~享和二年(一八〇二)
地 震
 同(寛延)四未年四月二十五日、夜八ツ時より大地震入、二十
七日夜迄入申候、高(上越市)田町四千間(軒)程潰レ、寺方も大方潰レ
申由、人死事千七百人余と申事、上ハナタ(名立)チ山崩レ五百
人余死ス、夫より一里通りぬけ有間川、是も一宿不残潰
レ、其外高田在家潰申候事其数を不知
 同(安永八年)年十一月十日、夜四ツ半時大地震入、二十九年以前
未年之地震よりも少しかるく、当村七蔵家を潰ス
 同(寛政)五丑年正月七日地震入申候、入返し共六度、亦八日
暮六ツ時、中位之地震入申候
 十(享和二年)一月十四日四ツ時分、中位之地震入申候、亦七ツ半
時分地震、八ツ時分少々、十六日地震、十七日明六ツ頃
少々、十八日夜八ツ頃三度入申候
(十日町 専福寺蔵「諸事見聞雑記」天)
 寛延四年四月の地震は、高田地震ともいわれ、上越方
面の被害は甚大であった。長岡領でも全壊七三軒、半壊
五六二軒、死者二名を出した。預り地の頸城・刈羽郡内
では全壊三五五軒、半壊四三二軒、死者一六名、そのほ
かにも寺院・土蔵などの被害が大きかった。安永八年(一
七七九)、寛政五年(一七九三)、享和二年(一八〇二)
にも地震があった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 169
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 長岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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