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項目 内容
ID J3200335
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月廿六日(一七五一・五・二一)〔越後高田・越後西部〕
書名 〔名立町史〕名立町史編さん専門委員会編H9・3・30 名立町発行
本文
[未校訂]第四節 江戸時代後期の世相
―災害の克服と変革への動き―
一 天災・凶作の克服
[寛延|かんえん]の地震からの復興
江戸時代を通して、名立谷で最も被害の
大きかった天災は、[延亨|えんきよう]四(一七四七)
年の「[卯年|うどし]の満水」と呼ばれる大水害と、寛延四(一七
五一)年の大地震による「名立崩れ」であった(「名立崩
れ」については、各論編第七章災害第一節参照。「卯年の
満水」については後述)。
 寛延四(改元して宝暦元)年の大地震では、名立小泊
村の九一戸中八一戸が埋没し、四二八名もの死者を出す
大災害となったが、名立谷のほかの村々でも大きな被害
を受けた。能生谷・大沢の滝川善兵衛の記録などには、
名立谷の被害状況が次のように書かれている(『新収日本
地震史料』『能生町史』による。)。
名立谷は、小田島村より平谷村まで、後辺高山一面
に抜け崩れ、東蒲生田村の下岸まで[突付|とつつ]きしにより、
川水[湛|たた]えて一時に海をなし、[依|よ]って小田島村人家残
らず[潰|つぶ]れて、男女即死三十八人。[怪我|けが]人[尚|なお]多し。ま
た平谷村民家皆潰れ、半潰れて無難の家更になし。
殊に寺二ヶ寺抜け底に消滅す。また東蒲生田村の内、
字足崩にても後なる高峰崩れて人家皆潰れ、即死・
怪我人数多し。池田村も後なる山峰切れ落ち、漸く
家数五軒残り、外[悉|ことごと]く消亡す。この外村々震動のた
めに皆潰れ、或いは人馬の即死怪我人数えるにいと
まなし
 小田島村・平谷村・東蒲生田村・池田村でも後ろの山
が抜け崩れ、大きな被害を出したのである。
 小田島村では、全壊家屋一二戸中、与右衛門・治左衛
門・治郎右衛門・市郎右衛門・喜右衛門・平三郎・惣三
郎・六右衛門の八戸は、家族が全員死亡し、また村内に
身寄りの者が一人も残らなかった。このため、生き残っ
た小田島村の人々は、この悲劇を語り継ぎ、[埋絶|まいぜつ]した[八|はつ]
[家|け]の供養を続けてきた。そして昭和二十九(一九五四)
年に、小田島の共同墓地に、次ページに写真で示した供
ふるさと名立
[宗龍寺|そうりゆうじ]の[竜宮|りゆうぐう]の鐘
 村松実は『名立の歴史』の中で、竜宮の鐘について、
概略次のように書いている。
 この震災後、数十年も経てから、小泊沖合に怪音が
聞こえるという噂が起こった。大地震で四百余人の人
命を失った[字|あざ]民は、「亡霊の迷いである」ともいい、ま
た、「再び天災のある[報|しら]せではないか」などと話し合い、
恐怖におののき、近づく者もなかった。
 明治初年ころ、勇敢な漁師がいて、この怪音に近づ
いてみると、海中深くの岩石に[梵鐘|ぼんしよう]がはさまれている
のを発見した。これが潮流の緩急で異様な音を発して
いることがわかり、やっ
とこれを引き上げた。こ
の梵鐘は宗龍寺の鐘で、
無銘ではあるが、[名鐘|めいしよう]と
伝えられる。名立小泊で
は、この後、これを竜宮
の鐘と称している。
 第二次世界大戦中の銅
鉄類の[供出|きようしゆつ]の際にも笠
原町長のはからいで供出
を[免|まぬが]れた。
名立小泊・宗龍寺の竜宮の鐘
養塔を建立した(「小田島大震災の沿革」小田島『小林務
家文書』)。
 この供養塔の表面には、次のように書かれている。
寛延四年四月二十四日夜半大震
震災埋絶八家供養之塔
小田島区民一同協賛
昭和二十九年春月建之
 毎年八月十三日、お盆のお墓参りの日に、小田島の浄
念寺が読経供養を続けており、写真の撮影に訪れた日に
も線香と花が供えられていた。
 ところで小田島村では、地震で一家全員が死亡した実
家の再興を考え離婚を願いでた妻に、「高三斗五升」の土
地を分けて援助した夫がいた(新井市「寺島恒一所蔵文
書」)。
書付を以って願い上げ奉り候
一小田島村佐七女房、同村久左衛門の娘に御座候処、
久左衛門義、三拾年以前地震大変に家内残らず死
絶申し候処、今度佐七女房、夫に願い候様は、右
久左衛門[跡式相続仕|あとしきそうぞくつかまつ]りたき旨願い候えば、女房願
いに任せ、[暇遣|いとまつかわ]し、高三斗五升分け下し、久左衛
門跡式相続仕らせ候処、これにより新棟願い上げ
奉り候 以上
一([檀那寺|だんなでら]に関する記述省略)
安永十丑三月小田島村 願人 佐七
庄屋 孫左衛門
 前書の趣、相違御座無く候、御上様へ御取
り継ぎ成し下し置かれ候はば、有難く存じ奉
り候
[大肝煎|おおぎもいり]所
 [安永|あんえい]十(一七八一)年は、大地震が発生した寛延四年
からちょうど三〇年後であった。佐七の女房は婚家が地
震の被害から立ち直るまで、夫とともに働き続け、婚家
の経済状況がある程度よくなってから、夫の佐七に実家
の再興のために、離婚を願ったのである。佐七の女房は
小田島の「震災埋絶八家供養之塔」
五〇歳を超えていたであろう。おそらく佐七との間の子
供を一人連れて実家を相続したのであろう。佐七は、女
房のそれまでの働きに感謝し、女房の願いを聞いて離婚
するとともに、「高三斗五升」の土地を譲り、「新棟」の
建築を庄屋とともに大肝煎所へ願い出たのである。この
ような村人たちの支え合いにより、小田島村をはじめ名
立谷の村々は、地震の被害を克服し復興したのであった。
 名立崩れで、文字どおり壊滅的な打撃を受けた名立小
泊村では、梶屋敷の陣屋へ出かけていて助かった庄屋の
右八を中心に、地震の直後から精力的に復興への努力が
始められた。各論編第七章 名立崩れと災害の数々 で
詳述されているが、ここでは生き残った一三軒の家長た
ちが庄屋右八あてに出した「急難御救い[夫食|ふじき]御拝借米代
金」と「農具代金」の扱いについての一札を紹介したい
(糸魚川市「中村秋夫家文書」)。
一札の事
一名立小泊村、当四月大変に付、急難御救い[夫食|ふじき]御
拝借米代金拾三両壱分永百弐拾五文五分御拝借仰
せ付けられ候に付、その節庄屋右八右の[趣|おもむき]申し渡
し、委細承知仕り、私共立会い相談の上割り渡し、
[銘々|めいめい]請け取り申し候。[尤|もつと]も右の下され金の内、少々
割り渡し残し、庄屋右八方に預け置き候えども、
[是|これ]は去る[午|うま]、御廻米買い納め不足並びに納め諸入
用金その外大変に付村方諸入用これ有り、庄屋百
姓御用に方々へ[罷|まか]り[出|いで]候諸[雑用等|ぞうようとう]の当てに引き残
し申し候、この儀に付、右八へ村方より申し分少
しも御座無く候
一当村当四月大変に付、農具代金拾両弐分御拝借仰
せ付けられ、その節庄屋右八右の趣申し渡し、承
知仕り候、尤も右の金子の儀、その節割り渡し候
えば、暮らし方難儀に付、[遣|つか]い込み、夏中に至り、
農具相もとめ候儀成り申さざる[躰|てい]に[罷|まか]り成り候て
は、御公儀にたいし[不埓|ふらち]と存じ奉り、来る夏相成
り耕作に取り懸り候時節、銘々入用の農具品をも
とめ候て成りとも、又は金子にても、所相談の上、
勝手次第割り渡し申すべくつもりに相談致し置
き、それまでは大町村庄屋加四右衛門身元[宜|よろ]しき
もの上預け置き申し候
右の儀に付、貴殿に拙者共少しも申し分御座無く候
以上
宝暦元年
[未|ひつじ]十二月
庄屋
右八殿
名立小泊村
清左衛門印
(一二名省略)
 大地震直後の混乱の中で、庄屋の右八は五月には、早
くも荒井(新井市)の代官所へ、北陸道の復旧や、名立
小泊村の屋敷地の整地などとともに、漁船の建造費や農
具代の貸し付けを願い出た。この文書は、その結果幕府
から貸与された「急難御救い[夫食|ふじき]御拝米代金」の一三両
余りの金を、苦しい生活の中でも全部分けてしまわずに、
一部を名立小泊村の「村方諸入用」などのために残して、
庄屋の右八へ預けたことと、農具代金として貸与された
一二両余りの金を、これもすぐに分配すれば、生活費と
して使ってしまう心配があるということで、来年の耕作
に取りかかるときまで、名立大町村の庄屋に預けたこと
などを記している。
 庄屋右八が、名立小泊村の存続のために、領主である
幕府の援助を引き出すとともに、村人たちに的確な指針
を示したことや、村人たちもまた、非常事態の中でよく
右八に従い、村の復旧に努めようとしていたことが分か
る。
 ところで、居多村(上越市)から名立までの北陸道の
復旧工事に、幕府が二〇〇〇両もの大金を出したという、
次のような記録が残っている。
四月廿五日、地震前に妙高山大いに鳴り響き、光り
物[出|いで]、五智の方へ飛ぶ、虫生郷津山崩れ、海へ五拾
丁余り押出し、六月九日まで地震百弐拾八度[震|ふる]う。
それより八月三日、中くらいの地震、九月廿六日ま
で数度震う、それより地震相止め
西浜の内、居多村より名立まで、往来御普請仰せ付
けられ、四月廿六日より十一月まで馬足相[留|とど]まり、
江戸表より御普請御役人八人御越し、十一月まで御
[逗留|とうりゆう]、御入用金弐千両、西浜道御普請に下し置かれ

(「直江津今町笘屋文書」上越市・市川信夫所蔵)
 当時も重要な街道であった北陸道・西浜道の復旧のた
めに、幕府は直接江戸から普請担当の役人を八人も派遣
し、二〇〇〇両の大金を出し、余震の続く地震直後から
工事を急ぎ、十一月末には、馬が通れるように修復した。
名立小泊村の庄屋右八が、嘆願書の第一に書いた、北陸
道の復旧工事は、地震の発生した年のうちに完工したの
である。
 名立小泊村では、村から奉公に出ていた者らを呼び戻
すなどして、地震後二〇年余り後の、安永二年には、戸
数が三二軒となり、震災前の約三分の一にまで回復した。
そこで名立小泊村の村人たちは、翌安永三年に地震で死
亡した人々の供養のために、宗龍寺へ「田高壱斗弐合七
夕、この反別廿八歩」の水田を寄進した(名立小泊「小
林瀬左衛門家文書」)。
田地寄附証文の事
一田高 壱斗弐合七勺 名所小平 久左衛門名請
この反別 廿八歩
右は、宝暦元[未|ひつじ]年一村退転[仕|つかまつ]り候に付、[有縁無縁仏|うえんむえんぶつ]
[果菩提|かぼだい]のため、この度村中惣百姓相談の上、書面の
田地、月[牌|はい]料として御当寺へ永代寄附[仕|つかまつ]る、[然|しか]る上
は寺[在|あ]りし限り、[御回向|ごえこう]願うべくため也、これに依
り、当[午|うま]年より、右この田地寄附証文を以って末々
御支配成られるべく候、御年貢米諸役等の儀は、村
並みに御当寺より御勤め成されるべく候、この田地
に付、村中[縁類|えんるい]等少しも[構|かま]え御座無く候、もし後年
なにかと申す者御座候はば、[加判|かはん]の面々[罷|まか]り出、[急|きつ]
[度埒明|とらちあけ]申すべく候、後年のため、寄附証文[仍|よ]って[件|くだん]
の如し
名立小泊村
安永三午年二月
宗龍寺様
村惣百姓代 四郎兵衛
組頭 六右衛門
庄屋 清左衛門
 名立崩れの犠牲者・[有縁無縁|うえんむえん]の[仏果菩提|ぶつかぼだい]のため、宗龍
寺があるかぎり、[御回向|ごえこう]願いたいと、村中の惣百姓が相
談をして、面積二八[歩|ぶ]([坪|つぼ])の水田を寄進したのである。
 上の写真は、名立小泊の無縁塚である。この塚の背面
には、「□〔不明〕主村中」「早川猿倉、石工源四郎」と刻まれて
いる。建立年は不明であるが、名立小泊村の惣百姓が施
主となり、早川谷猿倉(糸魚川市)の石工源四郎に造ら
せたもので、火災で焼け、一部欠けているが、大変立派
な供養塔である。
 なお、近年は名立小泊区の主催で、毎年八月二十七日
に、この無縁塚の前で宗龍寺・正光寺・浄福寺の三か寺
の住職による読経供養が行われている。
[宿役|しゆくやく]をめぐる争いと和解
北陸道の名立駅の宿役は、名立崩れの
前までは、名立大町村と名立小泊村の
両村で勤めていた。能生方面からの旅人は名立大町村の
問屋で継ぎ立て、有間川方面からの旅人は名立小泊村の
問屋で継ぎ立てていた。継ぎ送りで使用する人馬は、名
名立小泊の無縁塚 後ろの山の断層は名立崩れの跡
立大町村が三分の二、名立小泊村が三分の一を出すこと
になっていた。
 ところが、名立小泊村が名立崩れで、壊滅状態となっ
たために、荒井代官所から「小泊[村立|むらだち]でき候まで、大町
村において宿役相勤めよ」と命じられ、名立大町村では
「[是非|ぜひ]無く」勤めていたのであるが、前述のように、名
立小泊村が次第に復旧し、戸数も増加してきたというこ
とで名立大町村は、[安永|あんえい]五(一七七六)年に、その時の
支配代官所の川浦御役所へ、次のように願い出た(「差し
上げ申す済み口証文の事」名立大町『高橋文雄家文書』)。
(荒井代官所の支配の節)御入用を以って屋敷引き
御普請仰せ付けられ、段々村立[仕|つかまつ]り候に付、数度三
分一宿役引き請け候ようにと挨拶仕り候えども、先
方[彼是|かれこれ]と申し、一円承引致さず、当村の儀、近年度々
類焼仕り、殊の外貧窮に[罷|まか]り成り候えば、往来諸御
用持送り人馬不足仕り候に付、当駅問屋場[日々|ひび]混雑
仕り、これに依り村役人ども罷り出、[漸々|ようよう]相送り申
し候、既に問屋役勤めかね候に付、年々退役仕りた
き由村方へ相談に及び候えども、当年まで是非に相
頼み申し候、[依|よ]って村方[悉|ことごと]く難渋仕り候間、御慈悲
に何[卒|とぞ]小泊村三分一宿役引き受け相勤め候よう仰せ
付けられたき旨願い上げ候
 名立大町村の言い分は、名立小泊村は、幕府による御
普請で、屋敷の整地も済み、「段々村立仕り候に付」とい
うことと、名立大町村自身が、「近年度々類焼」して貧窮
となったことや名立[宿|しゆく]の問屋場が「日々混雑」し、村役
人が公用の継ぎ送りをしなければならない状況で、問屋
役の退役まで相談されているので、名立小泊村に、三分
の一の宿役を勤めるように命じてほしいというのであ
る。
 これに対して、名立小泊村は、次のように返答した。
弐拾六年以前、宝暦元[未|ひつじ]年四月廿五日夜、大地震に
て大山崩れ出、当村家数九拾軒余の内、拾軒は半[潰|かい]、
残り八拾軒余り海中へ押し埋まり、その節冨永喜右
衛門様御代官所にて、[則|そく]御見分、人別御改め成し下
され候処、[漸々|ようよう]海中より助け出し候者男女九人なら
では御座無く候、その外所々へ稼ぎに[出|いで]、或いは奉
公に[罷|まか]り出候ものを呼び返し、小泊村取り立ち候よ
う仰せ付けられ、[出精|しゆつしよう]仕り候えども、その節御田地
多分荒れ所に罷り成り、当時起き返し候ても、不定
地同前故、渡世[宜|よろ]しからずいまだ人少なに罷り在り
候処、この度大町村より先年の通り、小泊村へ三分
一宿役相勤め候よう御願い申し上げ候えども、今以
って一向宿役相勤め候程の人馬決して御座無く候、
[尤|もつと]も[只|ただ]今居住仕り候家数三拾軒御座候えども、右の
内、後家女、独身もの等もこれ有り、漁船稼ぎに出
候外は、男女とも農業相働き、漸々[渡世|とせい]仕り候処、
歴然に御座候、宿役仰せ付けられ候ては、魚漁稼ぎ
も相成り申さず、その上田畑開作も出来申さず、第
一御収納相勤り申さず、一村飢えに及び申し候外御
座無く候、[左|さ]候えば[弥|いよいよ]以って小泊村退転仕るべく
と、迷惑至極に存じ奉り候、且つ又、大町村申し上
げ候は、近年打続き火難に[逢|あ]い、貧窮に罷り成り、
往来諸御用人馬不足致し、問屋場日々混雑仕り候旨
申し上げ候えども、この段何分難渋の趣は相違有る
まじくにや存じ奉り候えども、大町村は当時家数百
三拾軒余もこれ有り、殊に宿役勤め[馴|な]れ候てさえ、
何かと難義申し立て候程の義、当村は前書に申し上
げ候通り、後家、独身ものを加え、漸々三拾軒なら
では御座無く、人少なの村方、殊に少々も[力業|ちからわざ]相成
り候ものは魚漁稼ぎに海上[遙|はるか]に罷り出、その外男女
農業に罷り出、漸々老人子供ばかり宅に相残り申し
候処、宿役相勤め、往来御用人馬即時に継ぎ立て申
すべくよう御座無く候間、[幾重|いくえ]にもこの段御考弁願
い上げ奉り候、何分これまでの通り、当村御免成し
下され候よう願い上げ奉り候
然る上は、この末随分出精仕り、村方立直り候はば、
前々の通り三分一宿役相勤め申し候よう仕るべく候
間、右の段大町村へ仰せ渡させられ、時節を見合わ
せくれ候よう仰せ付けられ下し置かれたく願い奉り
候、御慈悲に右願いの通り仰せ付け下し置かれ候は
ば有難く存じ奉り候
 古文書の引用が長くなったが、地震の際の名立小泊村
の被害状況や、その後の復旧と暮らしぶりがよく分かる。
要するに、地震後二六年たち、家数も三〇軒にまで回復
したが、後家や独身の家もあり、漁業や農作業で手いっ
ぱいで、まだ宿役を勤められるほどには回復していない。
大町村の方は、火災で貧窮になったとはいえ、家数が一
三〇軒余りもあり、これまで宿役を勤めてきたのである
から、名立小泊村が立ち直るまで、時節を待つよう大町
村に命じていただきたいと返答したのである。
 川浦代官所では、「大町村、小泊村の儀は一村同様の村
方にて、[彼是|かれこれ]出入に及び候ては難渋の筋もこれ有るべく
候」と、筒石村と藤崎村、能生町の三人の庄屋を[曖人|あつかいにん](仲
裁者)として、次のような条件で和解させた。
小泊村の儀は、去る[未|ひつじ]年地震大変にて、今もって難
渋の村方に御座候に付、当分宿役相勤め難く候故、
小泊村より馬[余荷|よない]として金子拾両宛、当[申|さる]年より
年々極月廿日限り大町村へ相済ませ、持ち送りの儀
は、是までの通り大町村にて相勤め申すべく[極|きめ]に御
座候、尤も人足多分入用の節は、小泊村より有り合
せの人足、是までの通り指し出し申すべく候、[勿論|もちろん]
大町村とても難渋の儀は近年打ち続き類焼かたがた
小泊村同様に御座候えども、とても小泊村の儀は、
未だ人少なの村方にて、相勤め難く、この末村方家
数相応にもいき立ち候へば、和談を以って前々の通
り、宿役三分一引き請け、相勤め申すべく定めに御
座候
 名立大町村も近年は火災続きで大変だが、名立小泊村
は、またまだ人数が少なく、とても宿役は勤められない。
そこで、特別に人足が多く必要なときは、名立小泊村か
らも人足を出すが、そのほかは、これまでどおり名立大
町村で宿役を全部勤めることとし、その代償として、名
立小泊村は名立大町村に、「[馬余荷|うまよない](分担金)として金子
拾両」を、毎年十二月二十日までに支払うということに
なった。
 名立小泊村は、宿役を勤めるまでには、まだ回復して
いなかったが、それでも毎年金一〇両を馬余荷として、
名立大町村に支払うことができるほど、経済力をつけて
きていたのである。名立小泊村が、宿役の三分の一を再
び勤めることができたのは、幕末の[慶応|けいおう]三(一八六七)
年の正月からであった。そのころは、戸数も五〇軒余り
になっていた(『新収日本地震史料』)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 161
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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