[未校訂] また、享保十年七月七日と同十八日、大地震で高島城
が大破、城内城外が破損した。八月二十六日には諏訪忠
虎は、在所の地震で一か年分の[上米|あげまい]を幕府から免除され、
十二月十日には幕府から願いのとおり三〇〇〇両を拝借
することを許可された。この拝借金は、一か年金三〇〇
両ずつ、一〇か年で返納するということであった。
なお、同十年十一月二十七日、本丸二二か所、二之丸
四か所、三之丸六か所、大手門ほか九か所、計四一か所
が、崩れたり孕んだ石垣の箇所として、朱引した「高島
城修復絵図」をそえて被害の修補を願い出て、同年十二
月十五日幕府から許可された。
享保九年「大地震留」巻末資料参照には、享保十年七月七日、
大地震があって、大祝の御屋敷がたいへん破損し、その
ほか在郷で多くの家が潰れたり破損したとあり、宮田渡
の大祝家や在郷方にも被害があったことがわかる。この
時の地震は、理科年表によると、上伊那郡の高遠を震源
とする「高遠地震」と呼ばれ、マグニチュード6・1の
地震で、高遠城にも大きな被害を与えた。