[未校訂]寛文九年地震と石垣復旧
城全焼という大惨事の翌年、寛文九年
(一六六九)五月五日には大地震がお
きて城の石垣が崩壊した。前年の火災のあとの復興工事
が糸口についたところでこの打撃である。「泣き面に蜂」
とはこのことであろう。この地震は余震が長く、三〇日
間もつづいたと言う(『横越島旧記』)。
かくて復旧工事は寛文十年、本丸の辰巳櫓台石垣普請
から始められた。この時、石垣は乱積み法から現在の切
端積みに積み直された。また完全石垣部分を南櫓下から
[戌亥|いぬい]櫓下まで延長した(『新発田城旧二の丸隅櫓表門修理工事報告書』)。諏訪社石灯
篭に「寛文十年九月武州住、渡瀬利兵衛」の寄進銘があ
る。安田蕉鹿はこれによって、江戸石工により石切りが
行われたと推察している。また貞享四年(一六八七)、本
丸の折掛櫓裏門西方の石垣崩れの修理が行われた時、こ
れに従事した石切りの中に大坂生まれの五兵衛がいた
(『市史資料』巻四上)。復旧工事には江戸、大坂などの最新の石切り
技術が用いられたことが推察できる。
宣直は城の復旧に日々思いをかけていたろうが、寛文
十二年復旧の日を待たずにこの世を去った。城内御殿の
復旧は重雄時代を待たねばならない。