[未校訂]1 地震
寛文五年の高田地震「座敷半つぶれ」
慶長十九年(一六一四)十月二
十五日、高田領に大地震が起こ
り、津波が発生して多数の死者を出したとの記録がある
が(『新潟県史通史遍3』所収「異塔寺長帳六」、『日本震
災飢饉攷』所収「談海後篇」)、くわしいことは分からな
い。寛文五年(一六六五)十二月二十七日の夕刻、高田
地方に大地震が起こり、域と城下町を壊滅させる大きな
被害を出している(『新潟県史3』『高田市史一』『中頸城
郡誌四』ほか、以下これによる)。当時の歳末だが、現在
の暦では二月二日である。この冬は豪雪で積雪が一丈四
尺(約四・二㍍)もあったために震災の被害を大きくし
たといわれる。高田城の各所が崩壊し、家臣の屋敷七百
余、町家の大半が倒壊・炎上し、多数の死者(家臣三五、
その家族ら一二〇、町人一五〇〇人)が出た。このとき
高田藩の家老小栗五郎左衛門正高・荻田隼人がともに犠
牲になったと伝えられる。
これらの震災に当地が無関係であったはずはなく、何
らかの被害を受けていることはまちがいないものと推測
されるが、全般的にこのころの記録で遺存しているもの
は少なく、これらの震災の被害状況を具体的に知ること
は困難である。ただ一点だけだが、この寛文の地震に関
係する史料を見ることができる。
それは、この地震から七年後の寛文十二年(一六七二)、
下美守郷大[肝煎|きもいり]であった国田村の八木平左衛門が藩の郡
奉行に提出した建築用材の伐採許可を求める願書であ
る。それによると、平左衛門は真木(槙)九本と杉四本
の伐採許可を求め、それにつき次のように述べている。
右の御用木御訴詔申し上げ候、当八(実際には七年前)年以前地震にて、拙者
座敷半つぶれに罷りなり、何とも致す可きようござなく
候故、恐れながら申し上げ候、御慈悲に仰せ上げさせら
れ、御意に懸けられ下され候はば有り難く存じ奉るべく
候
伐採許可を求めた用木は目通り五尺から三尺ぐらいの
木一三本で、岩沢村から一本、山直海村から四本、大賀
村から八本で、それぞれ、木主岩沢村喜三郎・山直海村
与兵衛・大賀村厳右衛門などと他の農民所有の木が七本
と自分所有のものが六本で、藩有林ではなく領民のもの
である。当時は、領民所有の用材でも相当以上の大木は
藩に登録され統制下にあった。高田藩は復興対策のため、
幕府から金五万両を拝借して城下の復興、町人の救恤に
充てたといわれるが、右のように統制下にある用材の放
出を許したのも藩としての対策の一つであった。
ところで、前期のように、寛文地震にかかわる当地の
史料はこの一点のほかはみられないが、「座敷半つぶれ」
といい、七年後になってから修築にとりかかっていると
ころなどからみて、あるいはこの地震はいわば局地的に
激甚な被害をもたらし、当地の被害は比較的軽微であっ
たものかとも思われる。