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項目 内容
ID J3200046
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕
書名 〔吉川町史第一巻〕○新潟県中頸城郡吉川町史編さん委員会編H8・3・18 吉川町発行
本文
[未校訂]1 地震
寛文五年の高田地震「座敷半つぶれ」
慶長十九年(一六一四)十月二
十五日、高田領に大地震が起こ
り、津波が発生して多数の死者を出したとの記録がある
が(『新潟県史通史遍3』所収「異塔寺長帳六」、『日本震
災飢饉攷』所収「談海後篇」)、くわしいことは分からな
い。寛文五年(一六六五)十二月二十七日の夕刻、高田
地方に大地震が起こり、域と城下町を壊滅させる大きな
被害を出している(『新潟県史3』『高田市史一』『中頸城
郡誌四』ほか、以下これによる)。当時の歳末だが、現在
の暦では二月二日である。この冬は豪雪で積雪が一丈四
尺(約四・二㍍)もあったために震災の被害を大きくし
たといわれる。高田城の各所が崩壊し、家臣の屋敷七百
余、町家の大半が倒壊・炎上し、多数の死者(家臣三五、
その家族ら一二〇、町人一五〇〇人)が出た。このとき
高田藩の家老小栗五郎左衛門正高・荻田隼人がともに犠
牲になったと伝えられる。
 これらの震災に当地が無関係であったはずはなく、何
らかの被害を受けていることはまちがいないものと推測
されるが、全般的にこのころの記録で遺存しているもの
は少なく、これらの震災の被害状況を具体的に知ること
は困難である。ただ一点だけだが、この寛文の地震に関
係する史料を見ることができる。
 それは、この地震から七年後の寛文十二年(一六七二)、
下美守郷大[肝煎|きもいり]であった国田村の八木平左衛門が藩の郡
奉行に提出した建築用材の伐採許可を求める願書であ
る。それによると、平左衛門は真木(槙)九本と杉四本
の伐採許可を求め、それにつき次のように述べている。
右の御用木御訴詔申し上げ候、当八(実際には七年前)年以前地震にて、拙者
座敷半つぶれに罷りなり、何とも致す可きようござなく
候故、恐れながら申し上げ候、御慈悲に仰せ上げさせら
れ、御意に懸けられ下され候はば有り難く存じ奉るべく

 伐採許可を求めた用木は目通り五尺から三尺ぐらいの
木一三本で、岩沢村から一本、山直海村から四本、大賀
村から八本で、それぞれ、木主岩沢村喜三郎・山直海村
与兵衛・大賀村厳右衛門などと他の農民所有の木が七本
と自分所有のものが六本で、藩有林ではなく領民のもの
である。当時は、領民所有の用材でも相当以上の大木は
藩に登録され統制下にあった。高田藩は復興対策のため、
幕府から金五万両を拝借して城下の復興、町人の救恤に
充てたといわれるが、右のように統制下にある用材の放
出を許したのも藩としての対策の一つであった。
 ところで、前期のように、寛文地震にかかわる当地の
史料はこの一点のほかはみられないが、「座敷半つぶれ」
といい、七年後になってから修築にとりかかっていると
ころなどからみて、あるいはこの地震はいわば局地的に
激甚な被害をもたらし、当地の被害は比較的軽微であっ
たものかとも思われる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 25
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 吉川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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