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項目 内容
ID J3200037
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1647/06/16
和暦 正保四年五月十四日
綱文 正保四年五月十四日(一六四七・六・一六)〔武蔵・相模〕
書名 〔小田原市史 史料編 近世Ⅱ藩領Ⅰ〕H1・3・31小田原市編・発行
本文
[未校訂]92 正保四年五月 小田原地震起こる
十四日 雨天折々晴ル
一寅ノ下刻大地震、即刻堀田加賀殿江御見廻、追付御帰、
山田左兵衛殿御出御逢、夜明御越三人衆ちし(地震)ん之御機
嫌御伺ニ御文被遣、卯ノ上刻小田原へ地震飛脚参。
一申ノ上刻小田原より地震ノ注進申来、江戸より強震候而御
城内石垣崩、家中之家十間(軒)つふれ、門塀四拾間計倒候
ニ付、御書付を以 御(江戸城)城江被仰上、申ノ下刻天沢寺江御
参、日暮御帰、追付堀田加賀殿江被成御座、戌ノ上刻
御帰。
十五日 雨天
一午ノ上刻堀田加賀守殿より御状来ル。小田原地震之様子
御老中江御断候間、御立被成候へと申参、即刻毛利甲
斐守殿江御暇乞ニ御立寄、か(神奈)な川ニ而御休、毛利甲斐守殿
より御飛脚来ル。 夜道被成御座高仁部ニ而夜明ル。
(永代日記抜書)
※ 「永代日記」には地震の記事が多い、この記事は江戸
でかなりの地震があり、さらに小田原から、武家屋敷
一〇軒のほか城内の石垣などの崩壊を伝えている。「永
代日記」中では最大級のものであるが、稲葉氏は入部
直後の寛永一〇年(一六三三)に小田原大地震に見舞
われている。正則は即刻小田原へ帰城を命ぜられてい
る。
(注、「新収」第二巻一五五頁と重複する部分もあるがこ
こに掲げる)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 21
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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