[未校訂]慶長地震
慶長元年[丙申閏|ひのえさるうるう]七月十二日に大地震が起り、海水は
陸地に溢れ、豊府[沖濱|おきのはま](現大分市春日浦の対岸あたりか)
の民家が没し、十余町の人の多くが溺死した。この時、
潮水は臼杵原山の[麓|ふもと](二王座)の川崎藤八重昌宅前の坂
口まで来た。又、佐賀関神社の鳥井が流された。これは
貞通公(臼杵初代藩主)が臼杵に移封されて以来百九年
におよんだが、まだこんなこと(地震と津波)は聞いた
ことがなかった。(稲葉家譜)
註 「地学」の本によると、七月三日より前震、[閏|うるう]七月十
一日[未刻|ひつじのこく](十三時~十五時)より十二日[申刻|さるのこく]十五
時~十七時)までに地震多数、夕刻大地震、高崎山な
どくずれる。大津波襲来、別府湾岸に被害、大分と付
近の[邑里|ゆうり]みな流失。佐賀関で崖くずれ、家屋倒れ、六
十余町歩流没。瓜生島八割陥没、死者七〇八人。