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項目 内容
ID J3100243
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・能登・加賀・越前〕
書名 〔富山県史 通史編Ⅳ 近世下〕S58・3・30○富山県編・発行
本文
[未校訂]安政の大地震と常願寺川洪水
安政五年(一八五八)二月二十六日、
富山地方を襲った地震は、富山町を
はじめ平野部にも相当な被害を与えたが、それ以上に被
害を大きくしたのは立山山中の大鳶崩れである。立山の
弥陀ケ原の南、立山カルデラの火口壁が[大鳶|おおとんび]山・[小鳶|ことんび]山
もろとも崩れ落ち、常願寺川上流の湯川と真川を各所で
堰き止めた。三月十日、再度の地震でこれが流出し、岩
石土砂流となって常願寺川を埋め尽くし、沿岸へも流出
した。更に四月二十六日、再び大洪水を起こし、両岸堤
防のほとんどを破って下流両域を奔流した。
 この地震は跡津有峰断層によって引き起こされた烈震
で、越中・飛驒を中心に、被害は加賀・越前にも及んだ。
推定震度は富山で六、推定規模はマグニチュード六・八
(『資料日本被害地震総覧』)、崩壊土砂は四億一〇〇〇万立方メートルと推定
されている。
 この地震については、『越中資料』第二巻をはじめ、記
録や史料が多い。それらの中から重要史料を集大成した
『越中安政大地震見聞録』が富山県郷土史会によってま
とめられている。それらによってもう少し概観してみよ
う。
 地震の起きたのは二月二十六日午前二時少し前。陽暦
に換算すると四月九日。春とはいえ、明け方には霜の降
りた寒い夜であった。深夜の眠りを覚まされた人たちが
外へ飛び出ると、更に大きく揺れて立って居れないほど
で、以後、余震の続く中を明け方まで外で過ごした。
 夜が明けると次第に被害が明らかになってきた。富山
城は[鉄御|くろがね]門石垣が崩れ、同所の土橋も下積石が崩れてへ
こみ、左右の柵は堀へふるい落されていた。二ノ丸二階
御門の土塀や出狭間がふるい落され、同所の西にあった
土塀も堀へ崩れ落ちた。土手の松杉の大樹も根返りして
堀へ倒れた。しかし、藩主のいた千歳御殿は無事であっ
た。
 城下の方々では大地が割れ、水や砂が噴き出し、特に
平吹町・千石町・大工町・角(南カ)田町の蓮照寺前などがひど
かった。家屋は壁が落ち、潰家はなかったが、諏訪河原
の裏通りの家々は居住もできないほど大破した。二十六
日の昼も余震が続いたので、街路へ簞笥や長持を並べ、
夜はその間に家族が寄り集まって夜を明かした。
 細入から飛驒へ向かう道は所々で山崩れがあって神通
川へなだれ落ち、そのため舟橋の辺りは二十六日暁ごろ
急に水が少なくなり、夜一〇時過ぎになって七~八尺ば
かりの水が押し寄せた。八尾では潰家もあり、また丸山
焼の甚左衛門方では、焼物蔵と火入れ直前の焼窯が潰れ
て、製品・半製品が大損害を受けた。
 水橋から東は東へ行くほど、被害は小さかったが、富
山から西は被害の範囲が広かった。高岡・伏木でも所々
で大地が裂けて水を吹き出し、高岡城の大木が根こそぎ
倒れて堀に落ち、利長廟の石柵や石灯籠がみな倒れた。
今石動では潰家九二軒あり、北陸道の松の木が五二本も
倒れたという。被害は更に西へ、金沢から大聖寺、越前
の金津や丸岡から勝山・大野地方に及んでいる。
 各所で山崩れが起ったが、最大のものは立山の大鳶崩
れである。立山カルデラ壁の南東から南側部分が大鳶・
小鳶両山ともに崩壊したもので、折から立山は最深積雪
時であり、雪の底なだれも伴って、湯川谷や真川谷を何
箇所でも堰き止めた。カルデラの底にあった立山温泉は
「五十間共百間共」埋まり、浴客は無かったが、夏の薪
作りや湯小屋の修繕のために雇われて四日前から入って
いた原村の四人、本宮村の二六人、柿沢村の六人、計三
六人がその下になった。また、中地山村の一〇人、榎村
一人、計一一人の狩人が、和田川の奥へ熊狩りに入って
いて一宿中、山崩れにあって死亡し、芦峅寺村の者二人
がコウタキ山で炭焼きをしていて同じく死亡している。
 富山町や本宮村・芦峅寺村の者が次々と状況視察に出
向しているが、その報告を総合すると次のようであった。
大鳶山・小鳶山は根こそぎ崩れて湯川谷を埋め、立山温
泉の辺りは野原のように平らになっている。大鳶山の崩
れ跡と狩込池のわきから浅間山のような煙が立ち登り
(この煙は富山からも望見された)、山々は鳴動して硫黄
の匂いが立ちこめている。真川谷は落合橋から上流四半
道(一キロメートル)ばかりの間が両側から岩が崩れ込みその上流
一里半ばかりにわたって水が淀み、海のようになってい
る。水は岩の間を浸透しているが、水量は平生の半分ほ
どである。原村より上流は水底が大雪、その上へ大木が
重なり、平生一〇間ほどの谷は幅五〇間ほどになってお
り、その上を泥水や大石が流れ出てぶつかるたびに煙が
上り、夜は火花で明るくなるほどである。原村から下流、
千垣村から岡田村にかけての常願寺川は大石・大木・泥
土で埋まり、平一面の有様となっている。
 富山町ではこの滞水が一挙に流出すると、鼬川を伝わ
って大水害になる恐れがあるとして、二月二十八日、触
れを出して町民や藩士の家族を呉羽山近辺へ避難させ
た。藩主[利声|としたか]、前藩主利保もこの辺りへ避難している。
しばらくは何事もなかったので、徐々に帰宅したが、二
次災害の常願寺川大洪水はその後、三月十日(陽暦換算
四月二十三日)と四月二十六日(陽暦換算六月七日)の
二回にわたって起こり、下流の扇状地一帯を襲った。
 三月十日午前一一時ごろ地震があり、それと同時に常
願寺川の奥が鳴動し、真川の大橋より上に一里ほど堰き
止まっていた水をはじめ、湯川谷や原村上流の水が先の
崩壊土砂を押し出した。正午ごろ岩峅寺村へ押し寄せ、
二四坊のうち下段にあった九坊が潰された。
 馬瀬口からの注進によると、「二丈余の水[重|かさ]」「見上げ
候程之洪水」が一時に押し寄せたといい、それは「大岩・
小岩・大木、堅き粥之如くなる泥砂」(朽木奴水の報告)
であった。平野部へ出ると、まず馬瀬口へ向かったが、
大岩が口をふさぎ、それに大木が重なって五尺ほど高く
なり、かえって堤防の役目を果たしたので、瀬は対岸へ
向かった。三塚村で少し切れ込み、右岸沿いに北流した
瀬先は、利田村へ七分ばかり切れ込んだ。粟原・西芦原
で二分し、一部は田添・入江・二杉から本流へもどった
が、本流は曽我・上鉾木・浅生・稲荷・塚越・竹内・新
堀と進んで白岩川へ落ち合い、水橋で海へ出た。このた
め、白岩川沿岸の田地も被害を受けた。
 瀬先が水橋へ着いたのは午後二時ごろである。奥山が
鳴動したのが午前一一時、岩峅寺・馬瀬口が十二時ごろ
であるから、この間一時間、そのあと水橋まで達するの
に二時間ほどかかったことになる。洪水の続いた時間は
いずれも一時間ほどであった。岩石・泥砂・大木・朽木
などで、常願寺川は上流から下流一帯が埋まったように
なり、中には川除より高い所もできた。千垣村は川より
二丈高みの所へ泥砂が流入して、七、八〇軒のうち五軒
が流れ、三〇軒が損じている。
 四月二十六日正午ごろ、山中が鳴動して再び大洪水が
起こった。前よりは山鳴りは小さく泥や流木は少なかっ
たが、水量は岩峅寺で一丈五尺、日置・利田で七尺、白
岩川で五尺も多かった。右岸では前に切り込んだ利田村
の普請場が決壊して、元の流路を通って白岩川へ落ちた。
しかし、今回はそれよりも左岸の被害が大きかった。各
用水の取入口はことごとく決壊して堤防は寸断され、常
願寺川から鼬川までの間、東西二里、南北五~六里にわ
たって一面泥海となった。新庄は四〇〇軒のうち二〇〇
軒が流失、そのうち、新庄新町は一三〇軒のうち残った
のは三軒という有様であった。富山は鼬川の橋がことご
とく落ち、水は稲荷町の民家を没して柳町天満宮の境内
へ入った。左岸の決壊個所および流路は次のようであっ
た。
①横内用水三室荒谷―太田本郷―清水村―鼬川↓神
通川
②大場前、上の普請場―西番―大場―天正寺―東長
江―富山柳町―稲荷町―綾田―奥井↓神通川
③中川口―金代―荒川―新庄新町―上富居―鍋田―
粟島―中島↓神通川
④朝日村普請場―藤木―中間島―新庄―一本木―手
第6図 安政5年大鳶崩れによる水付箇所
富山県立図書館蔵」立山大鳶山抜絵図「により作成
屋↓常願寺川
 川東の状況は入江村肝煎伝右衛門(『富山県史』史料編Ⅳ一〇六九頁)によ
ると、「川上の方から黒い小山のようなものが見えてき
て、近づいてみると夥しい川木で、それは山崩の土が押
してきたものだった」とある。先の洪水が川東へ入って
いるので泥流も川東がひどかったようで、「入川筋は一面
の泥で、土居も道も田畑も区別がつかない。川の中は泥
中ながら舟を押して行くことができるが、田や村中は泥
が固くて舟を押すことができない。もちろん歩くことも
できない」とある。そして「どこの者か泥流に流される
家の棟にすがって泣き叫んでいたが、助けることもでき
ず、やがて家が覆って泥の中に沈んで行った」「田鋤馬だ
ろうか、首だけ出して泥に押されて行った」と、生々し
く報告している。
 洪水の被害は第6図のようであり、加賀藩領だけでも
第10表のように、村数一三九か村、変地高二万五五八四
石、流失家・泥込家など一五七六軒、死者・行方不明一
六一人であった。この中には、広田針原用水の取入口へ
水仕込みに行っていて、行方不明になった村役人や人足
三七人も含まれている。
 富山藩領の水付村は三三か村で、一万三八七石。富山
町の水損は、第11表のとおり、流失家・潰家一二軒・半
潰家三三軒(以上稲荷町)、床上浸水二三九軒、床下浸水
第10表 安政5年4月26日常願寺川洪水の被害(加賀藩領分)
組名
太田組
島組
高野組
上条組
広田組
合計
村数

28
44
42
22
3
139
変地高

10,217
注①
10,113
4,177
1,049
28
25,584
流失家・潰


132
174
12
50
注③

368
半潰家・泥
込家

453
603
152


1,208
死者・行方
不明

54
82
注②
6

19
注④
161
流馬

8




8
注①変地高は、石未満切捨
②うち37人は、広田針原用水江口へ水取入に行っていて、行方不明になった人足・村役人
③うち49軒は、西水橋流失家など
④うち14人は、注②に同じ
・『富山県史』史料欄Ⅳ1073頁~により作成
五五四軒であった。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1514
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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