[未校訂] 一八五七年(安政四)八月二五日午前九時、在所はま
たもや大地震に見舞われた。前回よりはやや小さかった
が、翌日夜明けまでに三〇余度、二六日も六度ほど余震
があり、二八日午後二時また激震があった。人々は前と
同様に八月中は小屋住いであった。大洲城内の被害は大
きく、西の門辺は道が裂け御門台は二尺余下がり、石垣
は過半くずれた。倒れた土蔵もあり、城門廻り御櫓・高
欄櫓・台所櫓は大破し、千間塀のくずれもひどかった(『加
藤家年譜』・『大地震荒増記』)。
城中の大破につき、家中・御家人・組付等が総出動し
て石持ちなどの使役に従事し、領中村々からも加勢夫を
さし出した。経費がかさむので、藩は村々富裕者に[借上|かりあげ]
[銀|ぎん]を命じたがなお不足なので庄屋中の発企として、庄
屋・加勢夫三〇人以上の銀納負担が募られた。五百木村・
城廻村からは一七〇人役賃銀札一貫二九五匁(一人役三
匁五分)が納入され、郡中からは庄屋分五〇〇人役賃二
貫五〇〇目(一人役五匁)、村方分一、〇〇〇人役賃四貫
目(一人役四匁)がさし出された(『五百木村永代記録』・
『郡中役用控』)。
この地震で大破した台所櫓は一八五七年(安政六)三
月から修築にかかり六月中旬上棟され、高欄櫓は翌年一
月下旬から建て替えが始められ、一八六一年(文久元)
一二月完成した(『荷持柱ほぞ銘文』・『縁板裏記銘』)。な
お本丸の[廻|まわ]り櫓は大破して取りのけたまま、経費の関係
でながく放置されたが、ようやく一八六六年(慶応二)
一月から修理にかかった。藩は村々に一、六〇〇人の出
夫を命じた(『平岡村庄屋文書』)。