[未校訂]安政大地震の被害
安政二年(一八五五)十月二日の夜四つ
時(一〇時)ごろ、江戸東方を中心に大
地震が起き、関東各地に大きな被害を与えた。震源地は、
亀有・亀戸・本所・深川から下総国市川の辺りで、いわ
ゆる直下型の地震だった。その規模はマグニチュード
六・九と推定され、この地震のために水戸藩尊皇派の儒
者藤田東湖が命を落としたことでも知られている。『新編
埼玉県史 通史編4』の記述によれば、江戸での倒壊家
屋一万四千数百戸、推定死者七千~一万人に及び、地震
後に起きた火災により約一四町(一・五キロメートル)
四方が焼失し、江戸は[惨憺|さんたん]たる様相を呈したという。
この地震による県内の被害は、蕨宿と幸手宿で各一人
の死者が記録され、各宿場を中心に建造物の被害が出て
いるものの、江戸と比べれば軽微なものだった。地域的
には幸手領が県域で最も大きな被害を受けたことが知ら
れており、領内各地で地割れがしてそこから土砂・泥水
等を吹き出すなど、液化現象があったことが幸手宿文書
に記されている。
当町域の被害については、間口の田村家に残された文
書によってその一端を知ることができる。それによれば、
被害状況を報告するために取り調べた結果、「数百ヶ所大
破」が確認されたほか、「小石砂水等一同に吹出し」畑が
海同様になってしまったという。その後、水は自然と引
いたものの、その土地は「砂所」になってしまったよう
である(資料編上巻近世122)。また、別の文書では「古
昔より申し伝え」もない「稀なる大地震」と表現してお
り、この地震が当地のの人々に与えた影響の大きさを知
ることができる。なお、この地震のために諸国川々の堤
にも被害が生じたが、特に武州葛飾郡幸手領権現堂堤の
損傷を放置した場合は御府内(江戸)へ悪水が押し入り、
堤の下手村々数拾万石の水腐はもちろん、多くの人命も
脅かされるとして、権現堂堤を早期に修復し保持に努め
ることが確認されたようである(資料編上巻 近世123)。