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項目 内容
ID J3100103
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及関東一円〕
書名 〔大利根町史通史編〕○埼玉県大利根町教育委員会編H16・3・30 大利根町発行
本文
[未校訂]安政大地震の被害
安政二年(一八五五)十月二日の夜四つ
時(一〇時)ごろ、江戸東方を中心に大
地震が起き、関東各地に大きな被害を与えた。震源地は、
亀有・亀戸・本所・深川から下総国市川の辺りで、いわ
ゆる直下型の地震だった。その規模はマグニチュード
六・九と推定され、この地震のために水戸藩尊皇派の儒
者藤田東湖が命を落としたことでも知られている。『新編
埼玉県史 通史編4』の記述によれば、江戸での倒壊家
屋一万四千数百戸、推定死者七千~一万人に及び、地震
後に起きた火災により約一四町(一・五キロメートル)
四方が焼失し、江戸は[惨憺|さんたん]たる様相を呈したという。
 この地震による県内の被害は、蕨宿と幸手宿で各一人
の死者が記録され、各宿場を中心に建造物の被害が出て
いるものの、江戸と比べれば軽微なものだった。地域的
には幸手領が県域で最も大きな被害を受けたことが知ら
れており、領内各地で地割れがしてそこから土砂・泥水
等を吹き出すなど、液化現象があったことが幸手宿文書
に記されている。
 当町域の被害については、間口の田村家に残された文
書によってその一端を知ることができる。それによれば、
被害状況を報告するために取り調べた結果、「数百ヶ所大
破」が確認されたほか、「小石砂水等一同に吹出し」畑が
海同様になってしまったという。その後、水は自然と引
いたものの、その土地は「砂所」になってしまったよう
である(資料編上巻近世122)。また、別の文書では「古
昔より申し伝え」もない「稀なる大地震」と表現してお
り、この地震が当地のの人々に与えた影響の大きさを知
ることができる。なお、この地震のために諸国川々の堤
にも被害が生じたが、特に武州葛飾郡幸手領権現堂堤の
損傷を放置した場合は御府内(江戸)へ悪水が押し入り、
堤の下手村々数拾万石の水腐はもちろん、多くの人命も
脅かされるとして、権現堂堤を早期に修復し保持に努め
ることが確認されたようである(資料編上巻 近世123)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1427
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 埼玉
市区町村 大利根【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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