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項目 内容
ID J3100092
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及関東一円〕
書名 〔幸手市史通史編Ⅰ〕○埼玉県(幸手市)生涯学習課市史編さん室編H14・6・26 幸手市教育委員会発行
本文
[未校訂]四 安政大地震と権現堂堤の修復
安政大地震
安政二年(一八五五)一〇月二日の夜半、
江戸は大地震に見舞われた。地震の規模
はマグニチュード六・九と推定され、震源は江戸の亀有・
亀戸・深川から下総国市川辺りとする江戸直下型の地震
である。江戸町方の被害は甚大で、幕府の調査によると
死者四三〇〇人余、負傷者二八〇〇人余、倒壊家屋約一
万五〇〇〇棟、武家方の被害は明らかではないが、少な
く見積もってもこの地震による推計死者数は約七〇〇〇
人に及ぶという。被災状況報告に江戸へ赴いた平須賀村
の村役人は、惨憺たる江戸の惨状を目の当たりにし「御
府内之儀ハ以之外大地震ニ付、御住居向其外共大破拝見
仕候処、誠以驚入」と記している(近世Ⅱ327)。
 幸手付近の被害も少なくなかった。幸手領五三か村の
総戸数五〇四一軒のうち、全壊は一七軒、建物(人家・
土蔵・物置)の大破が三二四三棟、それ以外の建物でも
何らかの被害を受け、その震動がいかに激しかったこと
をこの数字が物語っている(表43参照)。死者はなかった
が、怪我人は多く、大怪我は九名、小怪我は一九一五に
達した(近世Ⅱ326)。このほか、田畑や道路、居屋敷周り、
家作にかかる地割れから土砂が吹き出す液状化現象が随
所でみられたり(同前)、割れ目から地下水が湧き出すと
ころもあった(東京大学法学部法制史資料史室 武州葛
飾郡幸手宿御用留)。
 その数多くの怪我人が発生した。平須賀村の組頭・百
姓らは、今後予想される権現堂堤や内郷用悪水路の修復
費用負担をはじめ、異国船警護で江戸に赴く諸役人や、
地震被害報告で帰国する東北諸家中の通行増加に対応す
る伝馬負担増大を強く懸念し、安政二年(一八五五)一
〇月、地頭役所へ拝借金を嘆願している(近世Ⅱ327)。同
年一二月には、地頭所より五か年賦返済を条件とする拝
借金七両が下付されたが、そのうち三両三分は組合軒別
で一軒につき金二朱が配当され、残りの三両一分は伝馬
費用へ補充された(近世Ⅱ328)。ただし、この時は領主で
ある旗本自身も、また被災者であった。地頭は領主とし
ての社会的責務を果たすべく拝借金七両を貸し与えてい
るものの、逆に村へは倒壊した土蔵修復費用としてそれ
を上回る御用金上納を指示している。
権現堂堤の皆御入用御普請
地震被害は、河川の堤や[圦樋|いりひ]などの
構造物にも及び、特に権現堂川筋で
顕著にみられた。権現堂堤通の八甫村(鷲宮町)、高須賀
村、松石村、千塚村・権現堂村・上宇和田村・木立村で
は、堤が崩落したり、地割、大減所、欠所が数十か所も
あり、早急に皆御入用御普請を願い出るよう、一〇月八
日、組合村々により決議
されている(近世Ⅱ330)。
 一一月一八日、勘定組
頭五味与五兵衛を筆頭と
する総勢三〇名からなる
幕府普請役と、近隣の古
河藩・関宿藩役人、およ
び幕府代官手代衆たちが
大勢訪れ、幸手宿の本陣
をはじめ一五か所の[旅籠|はたご]
屋へ分宿して被害状況を
具に調査した。この結果
皆御入用御普請が決定さ
れ、目論見のうえ仕様帳
を作成、同時に組合村々
の村役人に請書を提出さ
せた。普請箇所は十数か所にも及び、権現堂堤の割れ目
の築固め、崩落部分の埋立てや上置き、堤の中腹にある
小段の修復、土出し欠け所の[麁朶羽口|そだはぐち]修復と羽口留杭打
ち、水請け乱杭の打足しなど修復作業は複雑多岐にわた
った。また、御普請費用も堤通一〇か村総計で約五四二
八両に達している。普請期間は、安政二年一二月二六日
からはじまり、翌三年二月六日に御普請完了報告がなさ
図43 安政地震による幸手領の被害状況
村名(戸数 軒)
千塚村(65)
円藤内村(37)
松石村(25)
高須賀村(51)
中川崎村(28)
下川崎村(43)
幸手宿(1089)
牛村(108)
内国府間村(72)
権現堂村(104)
上高野村(245)
平須賀村(105)
天神島村(47)
吉野村(27)
上戸村(15)
安戸村(46)
神扇村(48)
大島新田(35)
木立村(57)
上吉羽村(65)
下吉羽村(56)
神明内村(58)
上宇和田村(28)
平野村(30)
中野村(23)
長間村(41)
潰家軒
2
11
1
2
潰家同様の人家・土蔵・物置 棟
28
15
28
18
20
18
1027
53
12
22棟(大破等)
50軒(潰家同様)
120
18
21
13
18
7
18
28
17
23
37
25
18
13
17
38
大怪我

3
3
3
小怪我

18
18
7
怪我

38
5
15
15
189
108
7
20
100
59
25
3
3
3
2
7
45
7
10
7
※安政2年(1855)10月 大地震ニ付潰家其外取調書上帳(近世Ⅱ
326)にみえる幸手領村々の被害状況から作成。外国府間村の記載
なし。これ以外の村々(惣新田・下宇和田・高須賀・関宿向下河岸・
中島・花島・槙野地・細野)の被害状況は不明。
れている(近世Ⅱ330・331)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1374
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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