[未校訂]501 安(一八五五)政二年十月江戸大地震の事
一安政二卯年十月二日夜四ツ時過に、大地震ニ而江戸ゆり
禿、仍而野ちんをする事五七日、同月八日九日の頃迄ニ、
震ふ事遠く相成申候、其上三十二所ゟ火出、焼失ニ相
成、御大名衆御家敷三百余軒禿焼、土蔵数十万七千三
百八十余、町数五千六百余町痛ミ申候、大地震とハ言な
から、両御丸ハいさゝかも不痛、神社仏閣ハさまていた
みも無之候、新吉原五十町・京町・角町四方八面より
火もえ出、不残焼て、京町すみ少々五十けん片かわの
こる、其外小塚原ゟ千住迄焼る、栗橋御関所手前、宿々
村々そんじ申候、貧民御救御小屋立、深川海辺・浅草
広小路・幸橋御門之外都合三ケ所、横十七間・竪七十
一間、其外籾蔵御郡代より御たき出シ被下候、尤死人
数二十万余之書上ニハ相成候得共、其余何程ニ候哉、相
知不申候
〔「文政以来万覚書」熊倉 目黒正家文書 一一三〕
502 安(一八五五)政二年十月江戸大地震の事
此度江戸大地震大変ニ付而ハ、郡中郷頭惣代若松登り之様、
尾岐郷ゟ之書面、御承知可被成候
御用飛脚序を以申来り候様
此度江戸表大地震ニ而、 御城御炎焼、当御屋敷も三ケ
所焼失之趣承、右一件御伺として罷出候所、拾二ケ組迚
も同様之儀ニ付、御伺ニ不罷出候而ハ不相成義ニ付、私し共
ゟ御通達申上候様被仰聞候間、此段御承知、拾弐ケ組江ハ、
御手元様ゟ早速御通達被成候様、宜敷御取計可被下候、
右ニ付而者、御内談申上候義候間、来ル十三日、一同若松
着御揃ニ相成候様、是又御取計可被下候、以上
十月六日
松下ゟ
杉原内蔵助
長峯四平
長領八郎治
星 儀兵衛様
安政二卯年
〔「嘉永五年御用帳」黒谷 小沼昇家文書 二〕