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西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

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項目 内容
ID J3100053
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及関東一円〕
書名 〔安政二年(一八五五)の大地震時における武蔵東部地域の動向〕加藤光男著「文書館紀要」第19号H18・3・24 埼玉県立文書館編・発行
本文
[未校訂]はじめに
 本稿は、当館において平成十七年十月二十二日から同
年十二月十一日までの期間に開催した収蔵文書展「安政
の大地震一五〇年 武蔵東部の被災状況と震災情報の
伝播(1)」の展示成果を報告するものである。このため、本
稿は、展示構成に従って館臓資料の紹介を行うことを主
目的とし、継続刊行中の宇佐美龍夫編『日本の歴史地震
史料』に未収録の資料は紙面の許す限り翻刻文を掲載し
た。展示資料一覧は文末に示した。また、これまでの研
究成果との関連を明らかにしたが、総括的にまとめ直し
てはいない。本文末に示した註における文献を合わせて
お読みいただきたい。
一 十月二日の夜、地震発生
 このコーナーは、第二部の埼玉県域における被害状況
を提示する前提として、江戸直下型の地震による江戸の
被災状況と幕府の震災対応を文書や当時の出版物(摺物)
により紹介する導入部とした。
[キャプション文]安政二年十月二日(一八五五年十一月
十一日)午後十時頃、江戸直下型の地震が起こりました。
地震の大きさは、建物の倒壊状況を記した当時の資料か
ら、マグニチュード六・九程度(大正十二年の関東地震
は七・九、平成七年の兵庫県南部地震は七・三)と推定
されています。被害は様々に記録されていますが、倒壊・
焼失した建物は一万四千戸以上、死者は四千人以上と推
測されます。江戸に在府していた旗本の日記によれば、
余震は継続的に十二月八日まで続いていたことがわかり
ます。
【資料一(展示資料一)】
辰 同 二日 雨天
(3行省略)
一 夜四時過大地震、引続丸之内・小川丁・下谷・
浅草・小石川・本郷・其外所々大火、明五時過鎮
火、其後少々ツヽ之地震度々有之
一 御城内并御櫓・塀等所々潰、御破損所等有之、
所々人家潰、家人馬怪我・即死人有之、自分屋敷
も不残大破、土蔵も同断、台所并広敷向・中小性
部屋并下屋向所々潰、少々ツヽ之怪我等有之、小
使之者一人即死有之
一 地震出火ニ付、火事羽織ニて登城、仲ケ間一同
吹上御立退之節御供致、夫より吹上御門外ニ代合
詰居、六半時還御相済、一同退出
一 御立退御玄関より、還御之節ハ西拮橋
巳 同 三日 天気 折々地震
一 昨夜地震ニ而、淡路守・長門守・内蔵頭皆潰、
壱岐守・石見守・日向守潰、其上類焼ニ付、休者
先格之通三十日、丹波守殿江進達、皆潰者十五日
休之旨、是又御届出候
【資料二(展示資料二)】
今度地震ニ而、家作等皆潰又ハ半潰之面々、類焼ニ
而仕候日数之半減休可申候事
但、諸向一般之事ニ付、引続相休候而者、御用向
御差支ニも可相成候間、申合割合相休候様可致候

右之通、向々江可被相触候
十月
右御書付壱通被成御渡請取申候
十月十日
 資料一(展示資料一)は、震災を実体験した旗本稲生
出羽守正興の日記。震災当時、正興は清水附家老(禄高
一五〇〇石)であり、屋敷は小石川御門外(現在の文京
区後楽二丁目)にあった。資料一には、他の資料にはな
い貴重な情報が三点含まれる。まず、旗本の被害状況を
確認することができる数少ない資料であること。次ぎに、
災害が発生した際の江戸城への登城および江戸城内にお
ける待機のあり方を窺うことができる点。最後に、これ
まで明らかではなかった十二月における余震状況が確認
できる点である(詳細は次頁の表1参照)。
 資料二(展示資料二)は被災した大名の執事免除に関
する法令の写である。この資料は、『幕末御触書集成』四
巻所収の三七五九―一と同一資料である。資料一の三日
の記事と合わせて読み込むと、屋敷を焼失した大名は三
十日、屋敷が倒壊した大名は十五日の執事免除規定が今
回の地震以前に定まっていたこと、地震の翌日には執事
免除の届出を行った大名がいたことがわかる。このため
『幕末御触書集成』に掲載される十日付けの条文は再確
認の為に出されたものといえよう。
 展示資料三は震災後に吉原で発生した火災の様子を描
いた錦絵。同一内容の錦絵は複数確認されるが、暗黒の
空に龍が描かれているところに本資料の特色がある。四
から六は震災の被害状況を報じた摺物。五には被災者を
収容する御救小屋が設けられたことが記されている(2)。
二 武蔵東部地域における被災状況
 このコーナーでは、江戸に隣接する埼玉県域の村落に
おける被災状況を紹介した。特に、土地の液状化により
甚大な被害を被った県東部地域村落の被災状況にスポッ
トを当てた。
[キャプション文]地震の被害は埼玉県域のほぼ全域に及
んでおり、比企丘陵の村落では建物に亀裂が入る程度で
したが、東部低地の村落では、怪我人は少なかったもの
の、多くの建物が全壊または半壊するなど甚大な被害が
もたらされました。また利根川沿いの村々では、田畑が
地割れして砂や泥が噴出し、耕作地が荒地になってしま
ったところもみうけられます。さらに河川の堤防が切れ
たことにより田畑に泥水が流れ込み、収穫前の作物に被
害がもたらされた地域もありました。
(一)平須賀村(幸手市)の場合
 埼玉県域全域を網羅する被害状況を集計した資料は、
日付
6日
7日
8日
9日
10日
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日
28日
29日
30日
11月小計
12月1日
2日
3日
4日
5日
6日
7日
8日
記事
少々地震
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
朝少々地震
(記載なし)
(記載ない
(記載なし)
(記載なし)
少々ツツ地震
少々地震
朝少々地震
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
少々地震
(記載なし)
少々ツツ地震
少々ツツ地震
少々地震
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
少々地震
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
少々地震
発生回数①

0
1
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
4

0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
5
合計
0
1
0
0
0
0
1
1
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
1
9
発生回数②


合計
備考
・無届け出版物の刊行・販売停止の申合せ
・版元9人の逮捕
「日記」に9日以降地震の記事なし
【出典】(1)記事:「日記」(稲生家文書14)における記載
(2)10月の発生回数①:a「破窓の記」(『大日本地震史料』思文閣 1973年)
b『藤岡屋日記 第15巻』(三一書房 1995年)
(3)10月の発生回数②:『新収日本地震史料 第5巻別巻2-2』(東京大学地震研究所 1985年)
(4)11月の発生回数 :「時雨迺袖」(『江戸叢書 第10巻』江戸叢書刊行会 1917年)
表1.安政2年大地震余震状況、幕府の震災対策および出版物動向
日付
10月2日
3日
4日
5日
6日
7日
8日
9日
10日
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日
28日
29日
10月小計
11月1日
2日
3日
4日
5日
記事
大地震
折々地震
折々地震
度々地震
折々地震
折々地震
折々地震
折々地震
折々地震
折々地震
折々地震
少々ツツ地震
少々ツツ地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
少々地震
(記載なし)
少々地震
少々地震
少々地震
(記載なし)
(記載なし)
(記載なし)
発生回数①

0
2
2
2
3
2
1
1
1
1
1
1
1
1
2
1
0
0
0
2
1
0
0
1
1
1
0
0
28
1
0
0
0
0

10
3
3
6
3
3
3
2
1
2
0
1
2
1
2
2
1
2
1
0
0
0
1
0
1
0
1
1
52
0
0
1
0
0
合計
10
5
5
8
6
5
4
3
2
3
1
2
3
2
4
3
1
2
1
2
1
0
1
1
2
1
1
1
80
1
0
1
0
0
発生回数②

0
2
2
2
3
3
1
1
0
1
1
1
1
1
1
1
0
0
1
2
1
0
0
1
1
1
0
0
28
1
0
0

9
3
3
6
3
3
3
2
2
2
0
1
2
1
2
2
1
2
0
0
0
0
1
0
1
0
1
1
51
0
0
1
合9
5
5
8
6
6
4
3
2
3
1
2
3
2
3
3
1
2
1
2
1
0
1
1
2
1
1
1
79
1
0
1
備考
・夜10時頃発生
・大名から執事免除の届出
・地震火災を報じる摺物の売出(読売)、
・御救小屋設置の町触
・御救小屋設置(浅草雷門前、深川海辺新田の
2か所)
・御救小屋設置(幸橋門外の1か所)
・絵草紙屋で地震焼失絵図など商い(数百種
販売)
・旗本に対する復旧援助金貸出しの触書
・展示資料5の摺物刊行
・御救小屋設置(深川永代寺内の1か所)
・御救小屋設置(上野山下の1か所)
・握り飯の配布(野宿している者への焚出
し・10月19日まで)
・御救米支給の町触
・施餓鬼会修業実施の町触
・13か寺にて施餓鬼修行法会、
・地震に関する時事錦絵販売(日記など記録
上における初見)
・仮宅営業の願書提出
今のところ確認されていない。このため、個別村落の被
害状況を集積しなければ、県下全域の被害状況を把握す
ることは叶わない。ただし、葛飾郡幸手領(現在の幸手
市およびその周辺)地域の被害状況は、地域的に確認で
きる資料として安政二年十月付の「大地震ニ付潰家其外
取調書上帳 幸手領村々(3)」がある。この資料をもとに、
埼玉県(4)や宇佐美龍夫氏(5)などにより詳細な分析がなされて
いる。記載内容を平須賀村の事例によりながら本稿にお
いて再検討を試みる。
【資料三】
一 家数百五軒 平須賀村
人家・土蔵・物置等
潰家同様拾八棟 怪我人五拾九人
其外不残震破
 この書上帳は、十月九日付の幕府代官の指示によって
作成されたものであり、記載形式は示された雛形に準拠
したものになっている(6)。書上帳には、家数、潰家などの
被害建物数、怪我人などが記されている。ここでの家数
とは、家数一一七(「新編武蔵風土記稿」)、家数一二一(「改
革組合取調書」)などの数値からみても建造物の数ではな
く、世帯数と考えて間違いない。一方、潰れ家同様に被
害を受けた一八棟とは、次ぎの資料から居宅以外の建造
物を含むことがわかる。
【資料四(展示資料一一―②)】

一 表門大破
一 裏門大破 宝聖寺
一 古屛壱ヶ所大破
一 居宅半潰 武右衛門
一 居宅半潰 惣次郎
一 居宅半潰 長太郎
一 木小屋大破 五右衛門
一 木小屋大破 勘右衛門
一 木小屋大破 伊兵衛
一 土蔵大破 七郎兵衛
一 土蔵大破 長右衛門
一 木小屋大破 同人
一 土蔵大破 武七
一 木小屋大破 同人
一 木小屋大破 初右衛門
一 居宅大破 杢之丞
一 居宅大破 岩次郎
一 居宅大破 与四郎
一 土蔵半潰 孫右衛門
一 居宅大破 同人
右者、組合百姓潰・大破ニ相成候分、書面之通り
御座候間、奉書上候、以上
卯十月五日 御知行所武州葛飾郡平須賀村
百姓代 杢之丞
組頭 武七
御地頭所様御役所 名主 孫右衛門
 この書上は、幕府普請役の指示(展示資料七~八)に
より、雛形(展示資料九)に準拠して作成され、領主で
ある旗本の鵜飼氏にあてたものであり、先の幕府代官の
調査とは別に実施されていた。資料三によって潰れ家数
を家数で割った数値が提示されているが、本資料から裏
付けされるように、読み手はその数値を倒壊率と誤読し
てはならない。
 なお、資料四は、資料五を伴って提出されたものであ
った。
【資料五(展示資料一〇)】
乍恐以書付御注進奉申上候
御知行所武州葛飾郡平須賀村役人共奉申上候、一昨
夜四ツ時稀成大地震ニ而村方百姓之内別紙名寄之も
の共潰ニ相成、或者大破ニおよひ候もの多分有之、
尤未タ時々相ゆれ、前代未聞之事ニ御座候而、寝食
茂忘れ真ニ以難渋至極仕候間、此段奉御注進候、尚
委細之義ハ口上ニ而可奉申上候、以上
安政弐卯年十月五日 右村
百姓代 杢之丞
組頭 武七
御地頭所様御役所 名主 孫右衛門
 展示資料一二は、震災後の臨時の出費に対応するため
領主に金銭の借用を願い出たものである。ここでの臨時
の出費とは、利根川堤や内郷用水路の破損修復および、
北陸地方の大名が国元と連絡を取るため街道沿いの村々
から臨時の人馬を調達した費用であった。
【資料六(展示資料一三)】
御請書之事
一 金七両也
右者、今般稀成大地震ニ付、居宅其外大破ニ罷成、
其上近年以之外道中筋臨時大御通行故、人馬継立
方諸入用多分相掛り候ニ付、無余儀御拝借御願奉
申上候處、出格之御憐愍ヲ以、前書之金子御拝借
御下ケ被仰付、大小之百姓一同難有仕合奉存候、
且又御返納之義者来辰年より五ケ年賦割済ニ被仰
付、委細承伏奉畏候、依之御請書證札奉差上候処、
如件
安政弐卯年 御知行所
十二月 武州葛飾郡平須賀村
百姓代 五右衛門
同 勘右衛門
同 兵右衛門
組頭 長右衛門
同 定吉
同 武七
御地頭所様御役人中様 名主 孫右衛門
 展示資料一二により十月に申請した金銭借用の願いが
認められ、金七両が領主の旗本稲葉氏から貸し与えられ
た。資料六(展示資料一三)によれば、返済は安政三年
から五年間で行うとされた。
 以下、他村の被害状況を提示しておこう。
(二)上金崎村(春日部市)の場合
【資料七(展示資料一四)】
表紙「潰家有無書上帳 下総国葛飾郡上金崎村」
半紙竪帳
以書付申上候
伊奈半左衛門御代官所松波弥寿之進知行所下総国葛
飾郡上金崎村
一 潰家 無御座候
一 半潰 無御座候
右者、今般地震ニ付、私共村方潰家并半潰有無御
糺御座候処、夫々身分ニ応し大破損等者有之候得
共潰家・半潰等無御座候、右御尋ニ付、奉書上候
処、相違無御座候、以上
安政二卯年十月 右村組頭 安右衛門
御掛御役人中様 百姓代 惣次郎
右十月十日、樋ノ口村御旅宿へ安右衛門罷出、差出
申候
 十月十日付けで、大破した建物はあるものの、全壊お
よび半壊の建物はないと報告されている。この御用留帳
には、掲載した文書のほか、展示資料七・八と同一内容
の通達文などが収められている。
(三)琴寄村(大利根町)の場合
【資料八(展示資料一五)】
(表紙)「 安政二年
大地震ニ付破損所書上帳
卯十月 武州埼玉郡琴寄村」

武州埼玉郡向川辺領琴寄村
下新井境自普請所
不用
一 堤 長拾間 弐尺減崩
宇新之田長兵衛脇
一 同 長四拾弐間 右同断
同所文次郎前
一 同 長四拾間 三四尺減崩
同所池上
一 同 長拾六間 右同断
宇前新田金蔵前
一 同 長百三拾弐間 五六尺欠崩
潰家
一 住宅勝手 但横三間半 名主 官吉
長七間半
一 土蔵 但横三間 同人
長八間
外ニ土蔵壁・土瓦等不残震落申候
一 門 但横壱間半 百姓 弥忠次
長弐間
一 収納小屋壱軒 但横壱間半 同人
長弐間
一 住宅 但シ横弐間半 同 孫次郎
長五間
半潰家 長泉寺
堤外下川当 荒所
一 長 六間 弐ケ所 善定寺
一 同 四間 弐ケ所 同寺
一 同 廿八間 壱ケ所 覚右衛門
一 同 弐拾九間 壱ケ所 同人
一 同 七間 壱ケ所 同人
一 同 三間 壱ケ所 同人
一 同 弐間 壱ケ所 同人
(中略)
右之通、御届奉申上候、以上
安政二卯年十月十五日 右村名主 官吉
林部善太左衛門様御役所
 八日の被害届提出の指示を受け、十五日付けで幕府代
官林部氏に出された被害届。堤が五か所で崩れ、全壊し
た住宅・土蔵・門などがあり、長泉寺は半壊し、地面が
割れ土砂が吹き出し荒れ地となった場所が五七三か所あ
ったと報告されている。
(四)上新堀村(菖蒲町)の場合
【資料九(展示資料一七)】
乍恐以書付奉願上候
御知行所上新堀村役人百姓代一同奉申上候、当月二
日夜五ツ半時夥敷大地震相始り、私共地先星川縁字
みのわ古川行人塚浦地畑方へ相掛り、上口壱尺位よ
り弐三尺位迄二三通りニ割裂テ、其口より荒砂并泥
水夥敷吹出し平一面ニ押流れ、場所ニより高低出来
仕亡所同様ニ相成候□別茂多分相見へ、殊更百姓長
三郎居家五分通り相損し同□右衛門同断、同佐五兵
衛同断、同平右衛門同断、同定右衛門七分通り相損
し、同卯右衛門五分通り、同与惣兵衛同断、同茂右
衛門同断、組頭権三郎同断、百姓弥市三分通り、同
武助五分通り、同初助三分通り、同文右衛門同断、
同久左衛門同断、〆拾四軒ハ右大地震之道筋ニ有之
候哉、居家添家并床下台所屋敷廻りへ相掛り悉割裂
ケ、其口より破泥水押出し、亦者銘々井戸より荒砂
吹出し一面々押廻り相損し、且又南蔵院客殿并庵室
壁相崩れ、愛宕大権現社相損し、相損し名主代大熊
所右衛門居宅前庇并土蔵壁相崩れ、名主代小右衛門
三分通り相損し、百姓次兵衛同断、同伝右衛門同断、
同市左衛門同断、同惣七同断、組頭甚蔵同断、百姓
利兵衛同断、同与五右衛門同断、同三郎兵衛七分通
り、同久右衛門同断、組頭太郎兵衛三分通り相損し、
百姓五平同断、同源右衛門同断、同藤兵衛同断、同
三郎兵衛同断、組頭藤次郎同断、百姓与兵衛、〆拾
七軒ハ居家添家へ相掛り損所有之、其外百姓家別ニ
損し所多分有之、誠以前代未聞之御儀ニ御座候故、
小前一同驚擔相歎罷在候、最早大変崩入相済候ニ付、
生熟実成間何共安心不仕、殊ニ今以度々地震茂及之、
是又一同相歎申候間、何卒以格別之御憐愍を右場所
御見分之程、幾重ニ茂奉願上候、偏ニ右願之通り御
聞済被成下置候ハヽ、大小百姓一同難有仕合ニ奉存
候、以上
安政二卯年十月五日 上新堀村
百姓 伝五右衛門
(中略)
御陣屋様御役所
 上新堀村では地面が裂け土砂が吹き出したことによ
り、耕作地が荒廃し井戸水が濁るとともに、建物が崩れ
るなどの被害を受けた。このため、荒地になった場所を
記した帳簿(展示資料一八)を添えて、領主に被災地の
実地調査を願い出ている。展示資料一八は、「みのわ土手
外 畑壱反壱セ歩 伝右衛門 内砂荒廿七坪半」などと、
耕地の所在地・面積・所有者と荒地になった面積が記さ
れている。展示資料一八は、耕地一筆ごとに砂荒場が記
されているが、地区ごとに集計した帳面が展示資料二〇
である。合計で三町七反二畝四歩の土地が荒地とされる。
地震被害調査のため、検使役人が派遣されたが、展示資
料二一の帳面には、その時にかかった紙筆代などの筆記
用具のほか、検使役人の宿泊代・食事代・酒代などの経
費の明細と、その負担の割り当て方法が記されている。
地震のため荒地と認定された三町七反一畝六歩に対して
は年貢納入が免除されることになった。展示資料二三の
帳面には、農民ごとに免除対象地の面積・免除額が記さ
れている。
(五)氷川神社(さいたま市)の事例
【資料一〇(展示資料二六)】
廻文を以得御意候、追而冷気相増而ハ各様弥御安全
奉賀上候、然ハ今般大地震ニ付、武州一円於神前、
天災除鎮、天下泰平、御武運御長久、氏子安穏之た
め、明九日御祈禱御神参修行いたし候間、其村方御
一同御参詣有之候様、御村中江被吹流被下候、右申
上度、如此御座候、以上
卯十月八日 年番角井出羽守
上天沼村下天沼村小袋付
右御村々御役人中様
 氷川神社において、天災を鎮め、世の中が穏やかであ
ること、そして武運長久・氏子安穏を祈願するのため、
九日に祈禱を行う旨を上天沼村・下天沼村・小袋村へ伝
える廻状である。氷川神社も震災を蒙っている。展示資
料二四は、氷川神社の神主が寺社を管轄する寺社奉行に
境内内の被害届けを受理してもらう際に提出した取り次
ぎ文書。このため、「数ヶ所破損」とあるものの具体的な
被害をこの文書からうかがうことはできない。展示資料
二五は、将軍のお膝元の江戸において大震災が発生した
ため、氷川神社神主が将軍へのご機嫌伺いをするため、
寺社奉行に取り次ぎを願い出た文書である。
 このように、東部低地域における被害は大きかったが、
比企丘陵地域の村落では、十月十一日付の被害届けによ
れば「武州比企郡下玉川郷外九ヶ村(中略)二日夜大地
震ニ而村之民家軒壁等震崩其外破損所数多御座候得共、
潰家・即死・怪我人ハ勿論、田畑変地致候義等無御座候(7)」
とあり、対照的であった。
(六)救済事業のあり方
【資料一一(展示資料二七)】
乍恐以書付奉願上候
武州埼玉郡船渡村・備後村役人共奉申上候、私共村
方之義者連々困窮仕詰、当日営兼候もの多分有之、
極々難渋之村方ニ御座候処、当田方不熟ニ而収納薄、
其上今般稀成災害ニ而家作向其外大破ニおよひ又者
田畑所々地割、同所より砂吹出し、手数不相懸候而
作付等不相成場所有之、弥増難渋□、貧民とも難取
続候旨、□□相歎申者収納無間合も奉申上候者奉恐
入候得共、実以災害ニ而難行在もの多分有之歎ケ敷
奉存候間、役人共ニおゐても仕法相在為取続度奉存
候得共、世上一体之義ニ而何分引届兼、当惑難渋仕
候、何卒以御慈悲、右之段御聞済貯穀御拝借被仰付
被下置度奉願上候、以上
卯十一月四日 武州埼玉郡
船渡村役人総代 □□兵衛
備後村名主 □兵衛
林部善太左衛門様御役所
御嘆願奉申上候処、収納間合も無之義ニ付、当分之
内何様ニも為取続、来春ニ相成可相戻と厚御利解被
仰聞奉承伏、篤と勘考仕候得共、前申上候通違作并
災害ニ而実困窮罷在候義付、当来春迄為取続候手段
無之、当惑難渋仕候間不届恐多も奉再願候、何卒右
之通り奉再願候處相聞済相成、格別取調可差出旨被
仰渡候
高四百八拾九石四斗五升六合四夕
家数五拾八軒
人数三百五人
内弐拾一人 村役人并重立哉成□続候者
一飢人 弐百八拾四人
但 男壱人一日八合・女壱人并六十才已上拾五
才已下壱日四合 日数三十日
内 男百廿人
此稗 廿八石八斗□□
女百拾九人
六十才以上男拾人
十五才以下男三拾五人
合百六拾四人
此稗 拾九石六斗八升
小以稗 四拾八石四斗八升
但 当辰より申迄五ヶ年賦、壱ヶ年九石
六斗九升五合返納之積り
右之通り人別差上候處左ニ御下ヶ穀被仰付候
貯穀物御見分之節□□夫食植増請書帳写
私共村々土地ニ応し夫食足合ニ相成候所、何ニ而も
田之畔又者荒地之場所迄植付違作天災等之節、他力
をかりす銘々無差支取続方心掛ケ候様候て達而御触
御座候處、猶又今般御廻村之上、委細御救□有之、
尤荒地江蒔捨いたし[ ]差出候ニて、不及候間
無心得違出精いたし候様、被仰渡承知奉畏候、依之
御請証文差上申候處、如件
安政三辰年四月十七日
増森村名主 平太(以下略)
 震災被害を被った村落の中には、食料の確保がままな
らないところもあった。そこで、備後村(春日部市)は
領主に窮状を訴え、その結果、非常時のために蓄えてい
た貯蔵穀物が供出されることになった。配給割合は、一
日分として男性一人に対し稗八合、女性および一五才以
下または六〇才以上の男性は四合と定められた。展示資
料二八も同様に銚子口村(春日部市)における貯蔵穀物
の供出に関する文書。男女の配分比率は資料一一(展示
資料二七)と同一である。
(七)震災後の社会状況 治安の乱れ・物価や職人手間の
高騰
【資料一二(展示資料二九)】
「北組合大総代 寄場熊谷宿
中奈良村 問屋見習
名主 谷之助
彦兵衛様
 御取締筋御用 卯十月十三日 封印」
今般地震災ニ而、御府内始メ近在所々潰家焼失等之
混雑ニ乗し、悪ものども可立廻も難計、一同申合者、
昼夜見分廻り心付、若怪敷もの見懸ケ候ハヽ、捕押
最寄廻先江可訴出事
一 諸色直段引上候もの有之候ハヽ、其旨可申聞事
一 諸職人作料等引上ケ候もの有之候ハヽ、是又可
 申聞事
右之趣相心得、其最寄々々江所及通達廻状令請印
刻付以順達、留より渡辺園十郎方江可被相返候、
以上
卯十月十二日 関東御取締出役
中山道板橋宿より
松井田宿迄右宿々役人中
関東御取締御出役方より別紙写之通今十三日御廻状
至来いたし候間則御達申候、依而者例之通御組合
村々江不洩様御順達可被成候、以上
卯十月十三日
熊谷宿問屋見習 谷之助 印
北組合大惣代名主彦兵衛様外御同役中
 関東取締出役は、地震後の混乱に乗じて悪者が徘徊し
ていることから、昼夜ともに見回りを行い不審な人物が
いれば捕らえるよう十月十二日付けで命じている。また、
品物の値段をつり上げる者や、職人で工賃を引き上げた
者がいれば諭すように命じている。展示資料三〇は、展
示資料二九を受けて、不審な人物がいれば捕らえ最寄り
の大惣代・小惣代へ連絡することを関東取締出役に誓約
した文書。職人は工賃を引き上げてはならない、材木な
どの建築資材は通常の価格で販売することも確認してい
る。
【資料一三(展示資料三二)】
(表紙)「 安政弐卯年
大地震ニ付諸職人請書
十月 」
去ル二日夜地震并出火ニ付、御府内在方とも破損・
潰家・焼失家夥敷有之、就而者材木・諸色直段、大
工・左官・人足とも、其外諸職人手間賃等、猥ニ引
上、又者増手間・酒代等ねたり、或者平常普請之節
出入場・持場なとゝ唱、他之職人相雇候得者、彼是
差障り為及難儀候族有之候而者、以之外不埒之至り
候、天変とハ乍申、災害逢候もの共悉難渋いたし候
者申迄ニも無之、其厚薄ニ寄、互ニ危急寄助合筋ニ
付、前書諸職業之もの共一時之利潤ニ不抱正路ニ取
計候様、其所之役人共より厳重可申付候、若相触候
趣不取用もの有之候ハヽ、早々可訴出、速ニ召捕可
及吟味条無用捨可申立候、此触書刻付を以順達、留
村より可相返もの也
卯十月六日 林部善太左衛門役所
前書御触書之趣拝見承知奉畏、私共一同申合、諸向
普請差支無之様出入場抔と唱候儀ハ勿論何方より職
人相雇候とも、聊茂差障申間敷、且手間代等猥ニ直
上ケ仕間鋪候、万一心得違之もの有之候ハヽ早速可
申立候、依之御請一札差出申處如件
安政弐卯年十月 大工惣代 良助 印
藤吉 印
茂七 印
政吉 印
左官惣代 友右衛門 印
忠右衛門 印
仕事師惣代 龍蔵 印
久五郎 印
和五郎 印
次左衛門 印
屋根葺惣代 喜三次 印
幸吉 印大工・左官・仕事師・屋根葺の職人が建物を再建する
際、手間賃を引き上げたり酒代をねだらないことを各職
人の総代が連名した誓約書。心得違いの者がいた場合は、
通報することも約束している。展示資料三三は、展示資
料三二と本文は同一であるが、銚子口村(春日部市)の
農民一同が連名した誓約書。展示資料三一には、地震と
関連する文言はないが、この時期に出された通達である
ので、震災後の状況に応じて給金・日雇賃金高騰抑制を
図ったものであろう。
三 領主の江戸屋敷債権と村々の負担
 このコーナーでは、旗本や大名の江戸屋敷再建に埼玉
県域の村々が果たした役割を紹介した。
[キャプション文]大名や旗本などが江戸屋敷を再建する
にあたり、幕府は必要最低限の仕様にすることを命じま
した。当時財政難であった旗本は、自己資金で再建する
ことが出来ず、幕府から一時金の支給を受け取るととも
に、領地の村落から建設資金を臨時に徴収しました。現
在の埼玉県域の村落は、領主の指示に従い資金を上納す
るにとどまらず、再建のための人足なども供出すること
になりました。また幕府は、川堤などの復旧工事を行う
ための資金を村々から募りました。
(一)幕府による武家屋敷再建方針
 展示資料三四によれば、材木が不足する場合も想定さ
れることから、江戸城の破損箇所の再建は防犯・防御が
必要な所に限定することとなった。このことをうけて、
大名旗本の江戸屋敷の再建についても必要な箇所に限定
するとともに簡易な普請にするよう指示している。展示
資料三五は、大名には、門はこれまで長屋門であっても
冠木門にし、屋根は瓦葺きではなく当分の間は板葺き屋
根にするようにと、家格にかかわらず簡便にするよう指
導している。旗本へは雨露を凌げる程度に手軽な工事と
することを指示している。いずれも『幕末御触書集成』
に収録されている条文である。
 以下、個別領主ごとに実情を明らかにしてみよう。
(二)旗本稲葉氏領平須賀村(幸手市)の場合
【資料一四(展示資料三七)】
申渡
平須賀村名主組頭小前とも
右此度地震ニ付潰家等有之、其上近年以之外道中筋
御通行多人馬継立方諸入用多分相掛難渋申立拝借金
願出尤ニ思召候、依之金七両拝借被仰付候、来辰年
より五ヶ年賦返納可致候ハ
一 此度 御姫様御婚礼有之御物入多之処、猶又此
度之地震ニ而臨時御物入相嵩、御差支ニ付百石三
両之割合ヲ以夫金被仰付候
安政二卯年十一月九日 岡崎源蔵 印山辺祐蔵印
平須賀村の領主旗本稲葉主計の愛宕神保小路(千代田
区)の屋敷は、倒壊した。村から願い出された潰家の復
旧および臨時の人馬継立ての費用として金七両を貸し出
すこと(展示資料一三)を前提として、娘の婚礼費用と
地震のための臨時負担金を上納することを命じている。
展示資料三九は、展示資料三七にもとづいて、平須賀村
が婚礼及び地震後の諸費用を納入する際に、村民個々に
負担金の分配を記した帳簿。負担の割合は持高一〇〇石
に対し銭三貫文とし、割り当て金額に間違いがないこと
を確認した名主の印が負担者名の下に捺印されている。
 江戸屋敷再建のための資金は安政二年中に納入した
が、展示資料四一・四二のように翌三年には土蔵の修復
金が徴収されることになった。三月・七月・安政四年二
月に五〇両ずつ納めることとなり、領地の村々一二か村
で負担した。その割りかけ帳簿が、展示資料四二から四
五である。
(三)旗本鵜殿氏領長間村(幸手市)の場合
 長間村の領主旗本鵜殿大学長徳の小川町雉子橋通(千
代田区神田神保町)の屋敷は倒壊した。鵜殿領の村落は
今後の対応を協議するため、十月十九日に会合を開くこ
とを十八日付けの廻状(展示資料四六)により伝達した。
また、地震で江戸屋敷は全壊したが、年頭に行う祝いの
儀式はまねごと程度ではあっても実施するので、領地の
村々へ準備をするように命じた廻状(展示資料四七)も
残されている。
(四)幕府領(代官林部氏)琴寄村(大利根町)の場合
 展示資料四八は、十月三日以降の労役作業従事記録。
村民個々に従事した日が一日または半日単位記録集計さ
れている。
(五)旗本細井氏領・上江袋村(熊谷市)の場合
 上江袋村の領主である旗本細井市太郎の本所林町(墨
田区立川)の屋敷は地震により倒壊した。このため、十
月八日に金五両(展示資料四九)、九日に三両(同五〇)、
十一日に七両(同五一)を領地の上江袋村の名主長嶋作
左右衛門個人から借用していた。
【資料一五(展示資料五三)】
下知書之事
一 金九拾四両三朱
右者、御居間通地震後仮御住居風雨凌兼候ニ付、
両村江弐百両出金之儀頼入候、右金何連成共工風
相納候様致度存候、尤御頼母子成共・高割合成共
両様内慈悲々々頼入候、御掛返し之義者壱割弐分
割合を以、拾ケ年間当巳年より被下置候間、其旨
可相心得候、依下知如件
安政四巳年 地頭所
四月廿八日 前田勘兵衛印
水野新兵衛印
上江袋村名主
組頭
百姓代 中
(裏書)表書之通相違無之もの也
細 市太印
細井氏は屋敷を再建するために領地の上江袋村へ金九
四両三朱を上納するよう命じた。この費用の捻出は頼母
子または農民の持高に応じて賦課させるなど工夫して行
うこと、一二%の利息を付けて十年間で返済することが
記されている。
(六)忍藩(松平下総守)領大塚村(熊谷市)の場合
【資料一六(展示資料五四)】
(表紙)「 安政二乙卯年
江戸表御上屋敷大地震御潰御焼失ニ付御用金御口
達書候請印帳
十二月 皿尾組 大塚村 小前一同」
御口達書写
御勝手向兼々御不如意之処、先年御備場御用被為蒙
仰候、以来連年莫太之御入用打続候儀ハ、兼而一同
も奉承知候通之儀ニ而、必至御難渋之折柄、此度江
戸表地震ニ而御上屋敷御殿を初、御土蔵・御長屋向
皆潰之上、御類焼ニ而御武器并御勤向御道具を初御
当用之御品ニ至迄不残御焼失、其上御中屋敷并御下
屋敷御殿を初、御土蔵・御長屋向共悉く御大破ニ付、
右御普請等不容易御入用ニ相成、礑と御差詰り、大
坂表御銀主者勿論、諸向江調達筋種々御頼ニ相成候
得共、当節柄悉く不融通ニ而如何之御操不被為出来
上ニ茂殊之外被遊御配慮是迄迚も御勝手向格別御省
略ニ相成居候上、猶又此度御手元を初、御普請御厳
重之御倹約被仰出候得共、前顆之御次第ニ付、中々
以御普請御取懸之御場合ニ難相成、依而来秋迄御参
府御猶予御願ニ相成候得共、左候迚其儘御年延ニ相
成候而ハ御大切之御公務ハ素より、上々様方御住居
も不被為出来御次第ニ付無御拠御領分村々高百石ニ
付金五両宛御用金被仰付候、猶身元相応之ものへ人
選を以、御用金被仰付候、金高之儀ハ御代官より可
申聞候間、前条之趣厚く奉恐察格別蒙出精、来辰よ
り来午暮三ヶ年ニ上納可致候、就者去ル丑年被仰付
候御用御金来辰暮上納之分ハ御用捨ニ被成下候、是
迄度々御預金を初、引続御用御金被仰付、銘々可為
難儀旨深く御賢察ニ為在候得共前願之御次第無余儀
被仰付候而、孰茂精々いたし可致御金候事
卯十二月
差上申一札之事
印 何村
一 金何程 誰
一 同
一 同
右者、御勝手向兼々御不如意之上、先般大地震ニ
付、江戸御上屋敷皆潰之上、御焼失ニ相成中下御
屋敷之儀も御大破ニ相成、右御入費夥敷、不容易
御次第ニ付、御領分村々高懸り御用金被仰付候得
共、御不足相立、無御拠人選を以、書面之通り御
用御金被仰付、一同承知奉畏候、依而御受證文差
上申処如件
年号月日 何村
誰印
何村
御代官所
別紙之通、御口達并人選御請書切廻状ニ而御順達候
間、早々写取御順達被成候、紙之義ハ八分位帳ニ而
御認メ、村毎御差出可被成候、右人選御受書、拙者
取集一手ニ差出候様御達ニ付、来ル十六日迄無相違
拙宅へ御差出被成候、且高懸り御受書之義来十六日
町宿ニおゐて相認メ候ニ付、同日朝四時迄ニ三役印
形御持参被成候、尤三役名前之義ハ村名之上江御記
被成候、廻状刻付早々御達可被成候、以上
十二月十四日
竹内林次郎
皿尾組村々 御名主中
右者、今般江戸表御上屋敷大地震、其上御殿并御長
屋向悉く相潰・御焼失、其外御中屋敷・御下屋敷大
破ニ相成、右難渋ニ付高懸り御用金人選御用金被仰
出之趣、今日村方一同被召寄御口達書之趣委細被為
聞御承知奉畏候、依之為後日御請印形仕置候処仍如

卯十二月 大塚村 平五郎印
繁次郎印
宇三郎印
作五郎印
林蔵 印
市郎右衛門後家
助八後家
清次郎印
学右衛門印
定吉印
馬五郎後家
仙蔵印
義右衛門印
勘右衛門印
常五郎
清吉
綱右衛門印
与頭 弥吉印
松岡五郎兵衛殿 軽右衛門印
利藤治殿 名主席与頭 祐七
 大塚村は忍藩の領地であったため、焼失した馬場先御
門内(千代田区皇居外苑)の上屋敷の再建資金納入が命
じられた。村々は一〇〇石につき金五両、経済力のある
農民はこれとは別に復旧資金の上納を誓約している。蛇
足ではあるが、安政三年には江戸下屋敷が焼失すること
になり忍藩の財政は更に困窮することとなった。
(七)旗本嶋田氏領代山村(さいたま市)の場合
【資料一七(展示資料五五)】
下知書之事
一 金拾八両三分ト永百拾七文四分九り
右者、其村方江御下ケ金可致候所、此度地震大変
別而御差支ニ付、村役人共ニ而取計置、来辰年よ
り拾ケ年之間、物成之内を以引下ケ可申候、為後
日下知書相渡置もの也
安政二卯十一月 地頭所内
肥田軍太印
阿部仙右衛門印
代山村名主
組頭中
(裏書)表書之通相違無之もの也
地頭所印
 代山村の領主旗本嶋田元次郎は、小川町広小路(千代
田区神田小川町)に屋敷があった。震災後の物入のため、
金八両余りと銭一一七文余りを村から借用し、返済は安
政三年以後一〇か年の年貢から差し引くことで対応する
とした。
【資料一八(展示資料五六)】
下知書之事
一 金七両ト永百八文七り
右者、此度地震別而御物入多ニ付御差支相成、其
村方江書面之金子申付候間、書面之金子高割を以
取立、来ル晦日迄上納可致候、為後日下知書相渡
置もの也
安政二卯十一月 地頭所内
肥田軍太印
阿部仙右衛門印
代山村名主
組頭 中
百性代
(裏書)表書之通相違無之もの也
地頭所 ㊞
 資料一七とは別に旗本嶋田元次郎は、代山村に金七両
と銭一〇八文余りを村内で持高に応じて分配し上納する
ように命じている。
(八)旗本伊奈氏領植田谷本村(さいたま市)の場合
【資料一九(展示資料五七)】
一札之事
一 金四拾三両永百四文也
右者、旧冬就地震損所御修復為御用六ケ村江金弐
百両御用金被仰付、書面之通割賦相納候条達御聴
御満足思召候、尤此金子之儀者格別之思召を以、
来ル未年より弐拾ケ年ニ割合御下ケ可被成候、為
後日仍而如件
地頭所内
安政三辰年四月 山崎兼三 印
笹田右十郎 印
植田谷領本村
役人
惣百姓 江
(裏書)表書之通相違無之者也
左衛門 印
植田谷本村の領主旗本伊奈主計忠慎の芝虎之御門外
(港区虎ノ門)の屋敷は損壊した。このことから、修復
資金を領地の六か村から徴収した。この文書には、借用
した二〇〇両を安政四年から二〇年かけて返済すること
が記されている。
(九)御三卿一橋領梅原村(日高市)の場合
 梅原村では、組頭の久太郎をはじめ一七名の農民が地
震の後に再建普請のための資金を上納したことから、そ
の行為を賞するするため、翌三年七月に褒賞状(展示資
料五八)が出された。
(一〇)旗本松平氏領太田部村(秩父市)の場合
【資料二〇(展示資料五九】
(表紙)「 安政二卯年十月十四日
御府内大地震ニ付御用財人選高割覚帳
太田部村 ひかへ 」
去二日夜四ツ時、古今未曾有、江戸始前代未聞之大
地震ニ而御殿向大破・潰同様有之、上々茂弥御当惑
被遊一同茂途方ニ暮候大変、右御府内ニ而一銭才覚
出来兼、今御野陣張上下ノ路頭ニ迷候次第、何共々々
気之毒千万ニ有之候得共依之御領分拾壱ケ村之内相
応之者共江人選調立金御頼被成度、此度不取敢田巻
正造為相続差遣し候間、委細之儀ハ同人より可申談
候、何連茂得而工風御指筋ニ相成候様厚相心得出情
被成御頼候、銘々呼出シ可申候処時分柄ニ付此方よ
り差遣候間、村役人共可得其意此廻状早々順達、留
村より可相返候、以上
卯十月十日 願方役所
拾壱ケ村
 太田部村の領主旗本松平中務康豊は、飯田町(千代田
区富士見)に屋敷があった。屋敷が倒壊したため、領地
の村々から復旧資金を徴収するにあたり、村高に応じて
納入額を決めるとともに、別に経済力のある農民を選ん
で救援金の提供を命じた。
四 伝えられる江戸の震災情報
 このコーナーでは、江戸の震災情報が、どのような手
段、内容によって村落に伝えられたのか紹介した。
[キャプション文]江戸における震災状況に関する情報
は、速やかに江戸近郊の村々へ伝わっていきました。そ
れは、人や物資の行き来が江戸と周辺村落の間で密接で
あったことに関係がありました。震災情報は、領主から
の公式通達文のほか、江戸で被災した人からの書状とい
う私的ネットワークによっても伝わりました。また、墨
刷りの出版物や、現在の時事漫画に相当する鯰絵により、
被災の詳細な情報と震災後の江戸の世相や庶民感情が、
現地を訪れなくとも容易に入手することができました。
(1)廻状による伝達
 次ぎの資料は、領主から公務を命じる際に村々へ順達
する廻状であり、震災の翌日に旗本日根野氏の家臣遠藤
氏により領地の村落あてに出されたものである。主眼は
災害救助金の調達にあるが、このような形式により震災
情報が領地の村々に伝達されたのである。
【資料二一(展示資料六〇】
以急飛脚相達候、然者昨二日夜五ツ過大地震ニ而御
長屋・初御屋敷中大損ニ相成候得共、先以上々様并
御家来中別条無之、恐悦之事ニ奉存候、乍併大破之
儀者言語道断之事ニ候、委細義者追而取調相達可申
候、右ニ付其村々者如何之事ニ御心配被遊候、乍去
大破之場所其儘ニ捨置候事ニ者難相成、右ニ付村々
役人之内壱人ツヽ飛脚着次第、金子之儀五両也七両
也候ハヽ、持参可罷出候様、尤此度之儀者前代未聞
之大変ニ而御座候得者、御骨折被下、情々金子持参
ニ而出府可被成候、且又金子之儀者御承知之通り御
手元ニも無之候得者各々得と御勘弁被成、早々御出
府可被成候、且又小川町・小石川・駿河台・神田門
外、丸之内何ケ所ともなく大火と相成、焼失之儀者
何方より何方迄と見切、人馬焼失未タ不聞届、漸々
明方鎮火様ニも有之、先者急札且者取込以筆御達申
候間、左様御承知可被成候、右之段御達可申旨被仰
付如此ニ御座候、以上
十月三日 御印 遠藤小左衛門 印
武州 長在家村
柏合村
北根村
上州 市場村
広沢村
右村々役人中
尚以、伊之丞殿・善三殿御両人者早速御出府可被成
候、此段御承知被成、即刻御出府別段御達可申旨被
仰付候
(二)書状による伝達
 震災を蒙った人々は、自身の安否を知らせるとともに、
江戸の震災状況を記した書状を国元や知人に送った。
【資料二二(展示資料六一】
(端裏書)「乙卯年十月十五日夕
一斎父文助老翁持来り入手」
(表書)「林半三郎様 沼田一斎」
(張紙)「弐拾三万八百七拾五人
此度江戸之死人数 青木平兵衛話」
追日寒冷相益候所先以安泰奉忝喜候、先日者於途中
鳥渡得貴意候、其節も申上候通り、古今稀成ル大地
震江都者殊ニ大変、諸候方過半打潰・焼失等有之、
御旗本・御家人・町家・寺院等府内ニ無疵之家ハ一
軒も無之よし、大城も所々破損有之、西丸・二重橋・
御櫓抔者潰候旨、三拾六之御見付渡乃櫓・御多門・
其外石垣等所々大破之由、品川新築之御台場所々大
破、二ノ御台場会津持武者溜り潰レ焼失、死亡之武
士十五六人有之由、御持之一ノ御台場も所々損し、
石垣三十間程くつれ、武者溜りもよほとゆかミ候と
申事ニ御座候、誠ニ古今未曾有之大変、たとひ申さ
は江戸中之家ごとニ大熕ボンベン打こまれ候も同様
之事と被存候、昨日も江戸浅草辺之人参り直々承り
申候所、此節迄も死人ヲ車ニ積、幾車共無之處々之
寺院へ送り候由、諸大名方馬も多分死亡、是又大八
車ニ三疋位ツヽつミ重ね千住辺へ送り出し候よし、
吉原計ニて壱万人之死亡、其外何十万ヤラ大数も未
タ知レ兼候よし、明暦之大火よりも死亡甚しき旨、
実ニおそろしき次第ニ御座候、是未世中穏ニ致度も
のニ御座候、万石諸候帰国勝手次第、月次登城も御
用捨被仰出、諸大名其外武家・町家迄も普請ハ見合
せ無餘義所計つくのひ置候様ニ被仰出有之候よし、
所々へ御救小屋出来候由ニ伝聞仕候、此外大変之次
第、憫戚すへき事・歎息すへき事・憤激スヘキ事、
難尽筆端ニ候常陸帯之作者、水戸藤田虎之助様もう
たれ死ニ候よし、如彼ハ誠ニ忠良之士非命之死ヲ遂
ケ候事、天命是か非か悲泣之次第ニ御座候、此辺者
潰家も無之、親族之内死亡も無之、誠ニ幸然之至ニ
存候、猶拝眉米夷之情態日本海測量致度旨難題等拝
眉ニ万々御咄可申候、乍末御惣容へ可然御致声奉願
候、已上頓首
十月十二日 沼田一斎
泰(花押)
林信海賢兄硯所へ
内々申上候、兼々御世話ニ相成候一条證文も昨年切
ニ相成居り候間、書替ニ仕度、且去年諸勘物老父小
遣差引等算勘ヲ遂度候間、此段御心懸ケ被下候様奉
願候、已上
 この書状は、川越藩士沼田一斎から川越藩領赤尾村(坂
戸市)名主林信海あてに出されたものである。江戸城も
被害があったこと、江戸湾防御のための台場が崩れたこ
と、御救小屋が開設されたこと、水戸藩士の藤田虎之助
(東湖)が圧死したことなどが記されている。
 展示資料六二は儒学者寺門静軒から甲山村(熊谷市)
名主根岸友山あてに出された江戸の震災情報を伝える書
状。芝居小屋が焼失したこと、藤田東湖が圧死したこと
などが記されている。友山は静軒を経済的に援助してい
ただけでなく、友山の末弟と静軒の娘が結婚していたこ
とから親族の関係でもあった。二通の書状にみられる通
り、摺物に記載される江戸市中の被災状況以外の記述が
あり、書状から発信者及び受信者の関心や社会的立場を
窺うことができる。
(三)摺物(かわら版)による伝播
 展示資料六三は江戸の被災状況をまとめた摺物で、国
元へ送る書状などに添付されることを念頭において作成
されたものである。江戸各地の建物倒壊場所および焼失
場所を、千住より吉原・浅草御蔵前辺、深川一円などと
二四の地域に分けて記している。この体裁は、地震直後
から出された速報性を旨とするかわら版の崩場・焼場付
にならっている。表紙には「禁売」とあるが実際には販
売されたものである。増補改訂も行われた。展示資料六
四の前半は、江戸各地の建物倒壊場所および焼失場所を
二四の地域に分けて記しており、版木は別版であるが文
章は展示資料六三と同一であるが、後半には、御救小屋
一覧、施しをした人物の一覧、街道筋近郷聞書が加えら
れている。こちらも表紙に「禁売買」と記されている。
災害報道の摺物については、小野秀雄(8)・北原糸子(9)の業績
を参照されたい。
(四)時事報道の錦絵である鯰絵による伝播
 展示資料六五から六八は、震災後の江戸の世相を報じ
た鯰絵。内容の詳細は、『鯰絵(10)』に収録される翻刻文及び
作品解説を参照いただきたい。展示資料六九は三室村(さ
いたま市)の名主の家に残されたもので、江戸で板行さ
れた鯰絵を安政二年に筆写した文書。現状は表紙に「安
政二卯年十二月 地震絵之写」と記した竪帳に仕立てら
れているが、筆写した一枚物を綴じたものである(帳面
に写しとったものではない)。この資料には、収録順に鹿
嶋山要の石持(N一四八、『鯰絵』収録資料番号、以下同
じ)、出現苦動明王(N一八七)、ちょぼくれちょんがれ
(N一七九)、はうたづくし(N一八三)の絵と詞書双方
が納められている。鯰絵には検閲を受けた改印がないが、
ここに収録された鯰絵が安政二年に販売されたものであ
ることを実証することができる。江戸で発行された出版
物に記された情報は、現物を入手するほかに、このよう
に筆写されても伝えられた。
(五)記録・編纂される江戸の震災情報
 展示資料七〇は、小本で、男女死人怪我人総数のほか、
野馬台の詩、市中庵大道子(=仮名垣魯文)作の鯰太平
記混雑ばなし等が収録されている。野馬台の詩は、縦横
各々三文字で組まれた文字を、斜め・縦横・左右に読む
判じ文である。鯰太平記混雑ばなしは、地震の騒動を軍
記物の話しの展開になぞらえたもので、北原氏により既
に紹介がなされている(11)。
 『安政見聞誌』(展示資料七一)は、文章は仮名垣魯文、
絵は浮世絵師の国芳などが作成し、震災情報の集大成を
狙って作成されたものである。災害状況を伝えるほかに、
地震後に飛び交った虚実相交った噂話が多く収録されて
15
安政2.8.
地方御用留(安政2年8月~同4年2月)
小林(茂)家1125
(5)上新堀村(現.菖蒲町)の場合
16
安政2.7.朔
御用留帳(安政2年7月~同4年6月)
大熊(正)家1418-1
17
安政2.10.5
乍恐以書付奉願上候(二日夜大地震被害場所御見聞願、控)大熊(正)家3781
18
安政2.10.5
当卯年十月二日夜大地震ニ付畑方砂荒反別取調帳
大熊(正)家3746
『A』続補遣別巻
1003~1004頁
19
安政2.10.6
当卯年十月二日夜大地震ニ付畑方砂荒反別取調上之
写帳
大熊(正)家3757
『A』続補遣別巻
1002~1003頁
20
[安政2].10.6
大地震ニ付畑方反別砂荒場書上帳
大熊(正)家629
『A』続補遣別巻
1001~1002頁
21
安政2.10〔12
青木平助様大地震ニ付家作并砂荒地御見分御出役人
用上下割合帳
大熊(正)家46
『A』続補遣別巻
1001頁
22
安政2.12.14
来辰年御伝馬賃金御改革入用并地震ニ付諸入用上下
引裂帳
大熊(正)家65
『A』続補遣別巻
1008~1011頁
23
安政3.12.21
去ル卯年十月二日夜大地震ニ付砂荒場畑永御下ケ割
合帳
大熊(正)家3745
『A』続補遣別巻
1007~1008頁
(6)武蔵一宮・氷川神社(現.さいたま市)の場合
24
卯(安政2).10.6
口上覚(大地震ニ而建立場所破損届)
西角井家2286
25
卯(安政2).10.(6)
口口上覚(二日夜大地震ニ付公方様へ御機嫌伺)
西角井家3731
26
安政2.10.8
[今般大地震ニ付祈禱執行廻状]
西角井家1591
(7)救済事業のあり方
27
安政2.11
貯穀御用向控帳(稀なる災害ニ付貯穀拝借願)
森泉家936
28
安政2.11
貯稗御下ケ穀割渡小前書上帳
銚子口区有796
『C』742~743頁
(8)震災後の社会状況 ―治安の乱れ、物価や職人手間賃の高騰―
29
安政2.10.御取締御用留
野中家647
『A』第5巻別巻2-2
1661~1663頁
30
安政2.10.26差上申御請書之事(江戸大地震ニ付悪者共取締)
松岡家4029
『C』747~748頁
31
卯(安政2).10.申達書(奉公人給金・日雇賃銭高値ニ付)
松岡家19
32
安政2.10.大地震ニ付諸職人請書
諸井(興)家2
33
安政2.10.9御触書小前請印帳(地震出火ニ付諸職人手間賃等)
銚子口区有539
『C』741~742頁
第3部 領主の江戸屋敷再建と村々の負担
(1)幕府による武家屋敷再建指針
34
安政2.10.
太田摂津守殿御達御書付四通之写
西角井家1188
『B』
35
安政2.10.
太田摂津守殿御達御書付五通之写
西角井家1235
『B』
(2)旗本稲葉氏領・平須賀村(現.幸手市)の場合
36安政2.10.16
川々国役御地頭所地震御見舞右出府雑用御伝馬臨時
わり合取立帳
船川家432
『A』第5巻別巻2-2
1619~1621頁
37安政2.11.9
申渡(地震ニ付金子拝借)
船川家1325
『A』第5巻別巻2-2
1619頁
38安政2.11.6乍恐以書付奉申上候(大地震による被害ニ付御普請)
船川家49
表2.平成17年度第1回収蔵文書展「安政の大地震150年」展示資料一覧(写真・図表パネルは除く)
No.
年月日
資料名称
文書番号
掲載出版物
第1部 10月2日夜、地震発生
(1)江戸在府の旗本の日記における記載
1
安政2.正.
日記(安政2年正月~12月)
稲生家14
『A』第5巻別巻
2-1 711~713頁
(2)震災直後の幕府から大名・旗本への達書
2
[安政2.10].
[地震ニ付御触書写]
西角井家7747
『B』
(3)当時の出版物からみる江戸の震災状況
3
[安政2].
新吉原大地震大火之図《錦絵》
小室家6367-1
4
安政2.
安政二卯十月二日大地震附類焼場所《摺物・多色刷》
篠崎家4321
5
安政2.10.10
大江戸類焼地震所附《摺物・墨単色刷》
小室家4807
6
安政2.
関東江戸地震并大火方角場所附《摺物・墨単色刷》
小室家4808
第2部 武蔵東部地域における被災状況
(1)被害状況取調の通達
7[安政2].10.2
廻状(大地震被害取調ニ付)
増田(豊)家711
『C』738~739頁
8[安政2].10.8
廻状(大地震被害取調ニ付)
増田(豊)家713
『C』739頁
9
[地震の被害届雛形]
増田(豊)家714
『C』739~740頁
(2)平須賀村(現.幸手市)の場合
10
安政2.10.5
乍恐以書付御注進奉申上候(地震による潰れ、大破ニ付)
船川家1534
11
安政2.10.5
大地震ニ付御地頭所様江書上帳
船川家436
『A』第5巻別巻2-2
1616~1619頁
12
安政2.10」(5)
乍恐以書付奉願上候(稀成大地震ニ付御拝借奉願上
候ニ付)
船川家2150
『幸手市史』近世資
料編Ⅱ693頁
13
安政2.12.
御請書之事(大地震ニ付拝借金)
船川家1324
『A』第5巻別巻2-2
1622~1623頁
(3)上金崎村(現.春日部市)の場合
14
安政2.正.吉
御用留(安政2年正月~同年12月)
土生津家4488
(4)琴寄村(現.大利根町)の場合
39
安政2.11.16
御地頭所様御姫様御婚礼并大地震ニ付夫金被仰付小
前割賦帳
船川家752
『A』第5巻別巻2-2
1623~1625頁
40
安政2.12.9
御地頭所様拝借金小前割渡帳
船川家437
『A』第5巻別巻2-2
1621~1622頁
41
安政3.2.
大地震ニ付土蔵御修覆御用金村々割合帳
船川家425
『A』第5巻別巻2-2
1626~1628頁
42
安政3.2.
差上申御請書之事(大地震ニ付金子上納)
船川家1527
『A』第5巻別巻2-2
1625~1626頁
43
安政3.3.
御地頭所大地震ニ付土蔵御修覆御用金取立帳
船川家424
『A』第5巻別巻2-2
1628~1630頁
44
安政3.7.23
御地頭所大地震ニ付土蔵御修覆御用金取立帳
船川家423
『A』第5巻別巻2-2
1630~1632頁
45
安政4.2.
大地震ニ付御地頭所様御土蔵大破ニ付立替御普請金
取立帳
船川家422
『A』第5巻別巻2-2
1632~1634頁
(3)旗本鵜殿氏領・長間村(現.幸手市)の場合
46
[安政2].10.18
[地震ニ付廻状]
幸手図295
『A』第5巻別巻22
1651~1652頁
47
[安政2].12.25
廻状(安政大地震ニ付)
幸手図240
『A』第5巻別巻22
1652頁
(4)幕府領(代官林部氏)・琴寄村(現.大利根町)の場合
48
安政2.10.3
大地震手伝人足控小林(茂)家1117
(5)旗本細井氏領・上江袋村(現・熊谷市)の場合
49
卯(安政2).10.8
覚(地震入用金請取)長嶋家2492
50
卯(安政2).10.9
覚(地震入用金請取)長嶋家2493『A』補遣別巻900頁
51
卯(安政2).10.11
覚(地震入用金請取)長嶋家2490
52
安政2.12.
御国役・七月極掛・御仲間給金・地震上納金其外色々
割合帳
長嶋家823
53
安政4.4.28
下知書之事(地震ニ付住居修復金)長嶋家2115
(6)忍藩(松平下総守)領・大塚村(現.熊谷市)の場合
54
安政2.12.
江戸表御上屋敷大地震御潰御焼失ニ付御用金御口達
書御請印帳
松岡家27
(7)旗本嶋田氏領・代山村(現.さいたま市)の場合
55
安政2.11.
下知書之事(地震差支ニ付御下ケ金)小池氏収集793
56
安政2.11.
下知書之事(地震差支ニ付金子高割取立)小池氏収集794
(8)幕府領(代官伊奈氏)・植田谷本村(現.さいたま市)の場合
57
安政3.4.
一札之事(地震修復御用金請取)小島家174
(9)御三卿一橋領・梅原村(現.日高市)の場合
58
辰(安政3).7.
申渡(去卯地震ニ付永上納奇特褒美)堀口家1183
『A』第5巻別巻2-2
1675頁
(10)旗本松平氏領・太田郡村(現.秩父市)の場合
59
安政2.10.14御府内大地震ニ付御用財人選高割覚帳新井家324
第4部伝えられる江戸の震災情報
(1)旗本日根野氏領・北根村(現.花園町)の場合
60
安政2.正.吉
御用留(安政2年2月~同年11月)宇野家169
(2)書状による伝達
61
乙卯(安政2).10.12
[安政大地震江戸之様子ニ付沼田一斉書状]林家8984
62
[安政2].10.16
[大地震江戸之様子等ニ付寺門静軒書状]
根岸家5051
『新編埼玉県史』
資料編12
963~964頁
(3)出版物による伝達
63
[安政2.10].
安政二卯年十月二日夜四ツ時過御府内御屋敷方市中共
地震類焼場所明細書之写 并街道筋近郷聞書《摺物》
川島家610
64
安政2.11.3
安政二卯年十月二日夜四ツ時過御府内御屋敷方市中
共地震類焼場所明細書之写 并街道筋近郷聞書 十
一月三日改《摺物・63の増補版》
船川家2271
(4)時事報道の錦絵である鯰絵による伝達
65[安政2].
恵比寿天申訳之記《鯰絵》
増田(豊)家1288
『D』281~282頁
66[安政2].
自身除妙法《鯰絵》
小室家6367-2
『D』282~284頁
67[安政2].
持丸たから出船《鯰絵》
小室家6367-4
『D』299~300頁
68[安政2].
地震けん《鯰絵》
小室家6363-5
『D』324頁
69安政2.12.
地震絵之写《鯰絵の書写本》
武笠(寛)家37
(5)記録・編纂される江戸の震災情報
70[安政2].
地震後教《木版本》
小室家3368
71[安政3].
安政見聞誌 上・中・下《木版本》
小室家2743~2745
72安政3.4.
地震預防説《木版本》
小室家2329
【凡例】上記文書は、埼玉県立文書館2階閲覧室で閲覧請求することができる。
『A』:東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』
『B』:石井良助・服藤弘司編『幕末御触書集成』(岩波書店)
『C』:宇佐美龍夫編『日本の歴史地震史料』拾遣別巻
『D』:高田衛・宮田登監修『鯰絵』(里文出版)
いる。幕府は、流言卑語を禁じていたことからこの本は
発禁処分となった。北原氏により詳細が紹介されている(12)。
 『地震預防説』(展示資料七二)は、地震のメカニズム
を論じた西洋理学書を宇田川興斎が翻訳し安政三年に刊
行したもの。安政地震の後、なぜ地震が起こるのか関心
が高まることに対応して作成されたものと推察される。
本書では地震の原因を電気的現象とみて、避雷針の原理
を応用した避震孔の設置を提言している。この資料は、
番匠村(ときがわ町)の名主であり蘭医であった小室家
に鯰絵とともに残されていたものである。記された内容
が地域的にも階層的にもどの程度広まったのかは不明で
ある。しかし、この本が出版されたことから、地震は地
底に棲む鯰が引き起こすという説が全ての人々に疑心な
く受け入れられてはいなかったことを読み取ることがで
きよう。

(1) 本展示会に関する刊行物は、資料一覧および展示
概要を掲載したリーフレットのみである。なお、当館
では、『天変地異 文書にみる近世埼玉の災害』(埼玉
県立文書館 一九九六年)においても安政の地震を
取り上げている。
(2) 幕府の救済事業については、北原糸子『地震の社会
史』(講談社二〇〇〇年)、野口武彦『安政江戸大地震
災害と政治権力』(筑摩書房一九九七年)を参照され
たい。
(3) 東京大学総合博物館所蔵「武州幸手宿記録」より
(『幸手市史 近世資料編Ⅱ』所収二三六号文書)
(4) 『新編埼玉県史 別編三 自然』(埼玉県 一九八
六年)・『新編埼玉県史通史編四 近世二』(埼玉県
一九九四年)
(5) 宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』(東京大学出
版会 一九九一年)
(6) 安政二年「御用書留帳」 [(埼玉県立文書館蔵銚子
口区有文書 一一〇〇)『新収日本地震史料』補遣別
巻 八九一頁収録]
(7) 『小川町の歴史 資料編5』(小川町 二〇〇一年)
収録八六三号文書
(8) 小野秀雄『かわら版物語』(雄山閣 一九七〇年)
(9) 北原糸子『近世災害情報論』(塙書房 二〇〇三年)
(10) 高田衛・宮田登監修『鯰絵 震災と日本文化』(里
文出版 一九九五年)
(11) 北原糸子『地震の社会史』 一三六頁以降
(12) 北原糸子『地震の社会史』 一五六頁以降
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ下
ページ 1283
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 埼玉
市区町村 浦和【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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