[未校訂]4 安政元年の大地震
安政元年(一八五四)、当地方において大地震が発生し
たことを記す文書が残っている(肱川町歴史民族資料館
所蔵)。
これは当町月野尾の宮司が書き記したものであるが、
この年の地震は加藤年譜を始め、伊予各藩でも公式に記
録されている。「愛媛の気象百年」によると、我が国の地
震史上二番目となるマグニチュード八・四の大地震であ
った。
大地震記書
ここに嘉永七年甲寅十一月五日大地震の事を記載す、こ
の日、当組稲谷山内竹五郎なる者の櫨を取りに行きお
る所は字下ノ河にて、[櫨|はぜ]を取りおる時は七ツ半頃なり、
川の向いを見合ば大岩も動き、大石はガタ々々々と、
字はアサガフチへ転び倒れ落込みし、大石二つ三つも
落込み小石その数を知れず、川の水二、三間も飛上り、
また川ノ浪は上へ々と二、三尺も[畦|うね]々になりてうねり、
その地震の始めは西より東々へ木草を動かし、ドウ々
ゴウ々とうねり動き、川向いも両方の人々はただ、コ
ウ々々々と犬を呼声ばかりなり、その地震のために家
に掛けたる物、棚の物も家毎に揺り落し、又[厠|かわや]の肥水
小便所の肥水は浪を発して外へ出たるよし、庭へ大沼
りなり、又同日夜の六ツ半頃にも[揺|ゆす]り[動|ゆる]ぐ、又五ツ時
にも揺り動く、いずれ七ツより六ツ五ツ頃は次第に静
かには候えども、その頃七十八十位の人申すことには、
百年このかたの大地震じゃ二百年じゃのと申して、人
人は安房之様にて色は青くなりて狼狽ながらも加島大
明神様じゃ氏神様じゃと祈願をこめ御[篭|かご]を仕りたりと
致して家業を捨て、実は四日の日少ゝなる地震が始め
にて、五日の夜中に十一返動り、六日にても四返動り、
七日の日、昼四ツ時にも大地震なり、この時も厠又小
便の肥水を庭へ動り出しおるなり、四日の日より十一
日の日まで地震揺動しことのなき日は更になかりしな
り、それゆえ所々方々にて外へ畳を出し、戸板を出し、
小屋を[拵|こしら]え仮住居を致し所も数多くありしなり、しか
れども月野尾成の者は[斯様|かよう]なることを致し[疾|やまい]者は一
人もこれなくおるなり、しかれども地神様じゃ太神宮
様じゃ加島大明神様じゃ氏神様じゃ讃岐の金毘羅様じ
ゃ和霊様じゃと神や仏に心願せぬ者はなかりしなり
嘉永七甲寅十一月五日 富永又三郎重光謹書
大地震印
大地神様
*嘉永七年はこの年、安政と改号された。