[未校訂]八、安政の大地震と村々の献金
安政元年と翌二年の両度に、全国的な大地震があった。
安政元年のものは、関西が中心で、六月十四日と、十一
月四日、五日の二回のもので、われわれ讃岐では、この
安政元年の地震を、安政の大地震と呼んでいる。
先ず六月十四日のものは、夜の九ツ時(十二時)で、
その地震で満濃池の改築した樋に水漏れができ、そのた
めに堤防が損消し、七月九日になると、決壊し、洪水と
なってしまったので、池底は枯れ、その後、明治三年六
月三日の改築完成まで、十五ヵ年間全くの廃池となって
しまったのは、そのためであった。
次の十一月四、五日の両日に及んだものが最大の地震
で、「高松藩記」には、
「封内の人家傾頽するもの三千余戸、土民草舎を造りて、
寝床とすること十数日、翌年の夏に至って常に復す」と
簡略化しているが、この時は朝の五ツ時(八時)、風もな
く、よく晴れ渡った日であったが、相次ぐ余震がひどか
ったので、どこの家でも、戸外に逃げ出し、そのまま長
い人は一カ月以上も家に帰らず假小屋に寝泊する人もあ
ったという地震で、これを普通われわれ讃岐人は安政の
大地震と語り伝えているのであるが、次の安政二年の地
震は、主として関東方面特に江戸でその大きい被害を及
ぼしているので、普通教科書的には、この安政二年の地
震を安政大地震と呼んでいる。
安政二年江戸の大地震は十月二日の夜五ツ時(午後八
時)で地震と同じに出火し、その火口は三十数カ所に及
んで、しかも翌三日の四ツ時(午前十時)まで火は消え
なかったので、江戸から高松への第一報では、「すべて市
中は大半崩れ、大地さけ、死人、怪我人はその数知れず
云々」であったが、江戸高松藩邸は焼失を免れ、多少の
損害はあったものの他藩に較べると無事で何よりという
ところであった。だが、その頃高松藩は昨年の地震で損
害を蒙った皇居御所修理方を幕府から命ぜられていたの
で、一層物入りのする時節であったから、この地震を口
実に、二万両の献金方を、各郡大政所や各村の庄屋を通
じて、百姓農民にまで呼びかけたものである。
その村々からの献金は、別所氏所蔵の文書によったも
のだが、次の通りである。
このところに成合村のものがないのは、成合は当時「香
川郡西」であったためである。
(注、以下は〔一宮村史〕○高松市一宮市S40・12・10 一宮村史編集委員会によ
る)
藩士だけでなく百姓以下へも、御用金を申し付けられ
たので、各郡の大庄屋は村々の庄屋以下に対し、顔割り
で応分の冥加銀を出すよう割り当てた。大庄屋別所嘉兵
衛、喜多伝六の書き上げた安政三年二月の「香川郡東村々
此度被仰付候御用金人別顔割帳」によると、この時香川
郡東では総計銀六十九貫八百四十三匁七分三厘を献上し
ている。当時一宮・鹿角・三名・寺井の諸村の割当額は
次のようであった。
一宮村
一銀五十目 三月八日 神主 田村隼人
一同六十目 三月十一日 牢人 堀岩之丞
一同六十目 三月八日 飛驒殿家来 近藤安次
一同二百六十目 右同日 庄屋 宇(宗カ)右衛門
一同七十目 右同日 百姓 小左衛門
一同五百五十目 右同日 同 弥平次
一同百三十目 三月十一日 同 宇右衛門
一同八十目 右同日 同 専蔵
一同八十目 右同日 同 九左衛門
一同八十目 三月八日 同 弥吉郎
一同八十目 右同日 同 半五郎
一同六十目 右同日 大宝院
一同五十目 三十一日 百姓 善七
一同七十目 三月八日 同 律次郎
一同六十目 三月八日 同 四郎兵衛
一同六十目 右同日 同 為次郎
一同六十目 三月十一日 同 亀蔵
一同六十目 三月八日 同 今蔵
〆銀二(一)貫五(九)百五(二)十目
鹿角村
一銀百八十目 四月十七日 大膳殿御中小姓 森惣七
一同六十目 三月十二日 組頭 平七
一同六十目 右同日 百姓 三平
一同六十目 法恩寺
〆銀三百目也
三名村
一銀六十目 四月朔日 来光寺
一同八十目 三月廿二日一代刀指当時組頭高尾権右衛門
一同弐百八十目 三月十六日 組頭 善六
一同百五十目 四月朔日 百姓 六右衛門
一同六十目 右同日 同 孫右衛門
一同八十目 同 三右衛門
一同六十目 四月朔日 同 庄助
一同八十目 右同日 同 与平
一同六十目 右同日 同 はな
〆銀九百十目也
寺井村
一銀七十目 三月八日 牢人当時庄屋 山崎彦三郎
一同七十目 右同日 組頭 八三郎
一同五十目 右同日 同 伴五郎
一同百目 右同日 同 吉平衛
一同五十目 右同日 百姓 長太郎
一同五十目 右同日 同 三九郎
一同五十目 右同日 同 仁兵衛
〆銀四百四十目