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項目 内容
ID J3000993
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔高瀬町史通史編〕香川県H17・2 高瀬町編・発行
本文
[未校訂] ただ、安政の地震は、最近の市町村史刊行ラッシュの
お陰からか、近世の地方史料の盛んな掘り起こしにより、
少しずつ解明されつつある。別所家文書の「御用留」を
見ると、「一昨日五日晩より夜分の大地震ニ付き、郡内転
び家並びニ損所・怪我人等有無大旨申し出候様仰せ聞か
され相尋ね候所、転び家百二拾軒位御座在るべく哉、尚
又、損所・怪我人等は(中略)御座無く候、郡内ニても
下下郷より大野・浅野辺迄は地震甚大、夫より上分山分
等ニては順々ゆるやかニ御座候」と記されており、十一
月五日の晩より地震があり、香川郡内では一二〇軒ほど
の家が転倒した。被害は大野や浅野(現香川町)と南か
ら山へ寄るにつれて少なくなっていっているとある。ま
た、『増補高松藩記』には、高松城内では天守の瓦が落ち
石垣崩れ、高松城下では家中町家あわせて一六六六軒潰
れ藩内の人家三〇〇〇余戸がこわれたとある。長谷川家
文書「覚帳」には、丸亀城下では一〇四軒倒壊し、死者
二人、余震は翌年一月十八日まで続いたとある。
また、高瀬地域では次のような記述がある。
去ル四日朝より七日迄前代未聞の大地震ニて百姓一
統大いニ迷惑仕り、野中え小家掛け野宿仕り候次第
ニ御座候、其の後、未ダ少々宛震動は相治まり申さ
ず候得共、先ず唯今迄屋根壁或は築地等少々傷み御
座候由申し出ニ御座候、其の余異議は御座無く候得
共、先ず取り敢えず此の段御注進申し上げ奉り候、
宜しく仰せ上げられ下さるべく候、以上
(安藤家文書「乍恐御歎奉申上口上之覚」)
 これをみると、この地震は三日間揺れが続いたようで
ある。野宿で生活する農民も出るほどの大地震ではあっ
たが、被害はそれほどでもなかったのか、具体的な数値
は書かれていない。どちらかといえば、讃岐の東部に大
きな被害を与えたようである。この震源は、史料に記さ
れた被害の様子などを考えると、紀伊水道から小豆島へ
続く海底か更に直島よりの海底かと思われる。
 このあと、讃岐を襲った大地震は、高知県に大被害を
もたらした昭和南海大地震となるのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1057
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 香川
市区町村 高瀬【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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