[未校訂]嘉永の大地震
嘉永七年(一八五四)一一月四日(太陰
暦)駿河湾沖に海底地震が発生し、現在
でいうならば、さしずめ東海大地震でマグニチュード
八・四、震度六以上の大地震であった。この地震は志摩
国にも波及し倒壊、半壊家屋も多く、死者も数十人出た。
とりわけ、被害を大きくしたのは大津波であった。一一
月四日昼四ツ時と記されているから午前一〇時ごろで、
津波は数回に及び、二番・三番目の津波が最も大きかっ
たという。
この年は春以来、全国で地震が多かったことから一二
月二七日「安政」と改元されたが、地震は一向にやまな
かった。このため嘉永七年前後の一連の地震は安政の大
地震ともいわれている。
本町には地震・津波の記録は極めて少なく、わずかに
飯浜村、坂崎村の「極難渋者控帳」が二冊残されている
だけである。そこで、海の博物館の年報『海と人間一八
号』に中田四郎記述の「三重県漁村災害史研究」を引用
して当時の地震津波の実態をさぐってみる。
まず、的矢湾沿岸村は意外に被害が少なく、鳥羽藩士
が書いた『諸式覚』には「的矢村、流失一軒、[潰|つぶれ]家一軒。
三ケ所村、流失一軒」とあるだけで大きな被害はなかっ
た。しかし、伊雑宮の御師向井三太夫記述の『神用・公
用様書記、磯部光交控』(大阪向井竹夫蔵)には次のよう
に記している。
別て珍事覚書の亊
安政元年十一月四日、前代未聞の大地震にて、[左|さ]ある
所諸国津々浦々に至迄、数十丈もひ(干潟)かたに相成、陸地
の如く相見え候内、大海より大津波にて海面は申に及
ばず、浦々に大浪おこし諸方村々上を下えと騒動す、
的矢村、鳥羽表は座敷かべえ[凡|およそ]四・五尺も潮みち込候
的矢・三ケ所村は被害家屋は少なかったが、ほとんど
の家は床上浸水であったようである。さらに伊雑浦の
状況について、
伊雑浦においても、飯浜村の護国院の田地堤切れて残
らず海に相成、其後、組内一三ケ村え人夫掛り候えど
も神役二十五軒は前文に訳あり、右の普請には出さず
申候
尚又、大波飯浜前にて打開き坂崎、穴川、下之郷は申
に及ばず迫間沖、下田堤え浪打越す亊大海の如なり、
穴川の女、子供、老人達は迫間村へ逃越候えども、何
れあてどもなかりけり、左に有れども大神宮の御加護
にや、磯部中には格別の変もこれなく候えども、所々
方々の沖新田は大破、大水損にて[未|いま]だ元の如くに相成
らず候所数多の事に御座候、末代迄の咄の為、爰に書
留置候也
三太夫は飯浜村と穴川村の状況を書き留めているが、
伊雑浦の新田は「いまだ元の如に相成らず」と記してい
るように堤防の復旧事業は進まなかったとしている。
一方、坂崎村の「極難渋者調帳」は鳥羽藩から給付さ
れた救済金の配分表を兼ねており、鳥羽藩へ上申した地
震による極難者の控帳である。その一部を引用すると次
のとおりである。
一金 壱歩九匁四分弐厘 年三拾七 源六
頂戴仕候 〆人数六人内
年七拾三 父壱人
年七拾三 母壱人
同 八ツ 女子壱人
同 五ツ男子壱人
同四拾弐 女房
右のもの田地御座なく、日雇稼仕居候処大地震津浪に
て家居損し誠に極難渋ものに御座候
一金 弐歩六匁弐分六厘 年四拾四同村百姓新介
頂戴仕候 〆人数六人内
年十弐 男子壱人
同十一 女子壱人
同八ツ 男子壱人
同五ツ 同 壱人
同三十八 女房
右のもの田地少々これ有候得共、難渋に暮し居候処地
震津浪にて住家損し極難儀に御座候
(以下略)
人数 〆 五拾六人
家数 〆 十四軒
右之通相違御座無く候 以上
寅ノ十二月
坂崎村百姓惣代 伊三郎
肝煎 喜太郎
庄屋 与作
飯浜村の「難渋者控帳」は金銭の配分は記載していな
いが「〆人数、三拾弐人。家数〆、六軒」として、いず
れも「田畑砂入に付極難渋」と津波の被害者帳となって
いる。
このように、的矢湾に進入した津波は渡鹿野島や小海
の水道に勢力を遮られながらも伊雑浦へ来襲し、新田の
堤を打ち破り低地帯の人家に被害をもたらしたが、幸い
流死人や溺死人はなかった。ただ、穴川村の百姓が波切
村で溺死したと「諸式覚」に見えるから磯部唯一の犠牲
者であろう。