[未校訂]大地震の発生(注、前掲の文書のよみ下し、省略)
翌日も大地震発生
この地震の生じた翌日、余韻がまださめ
やらぬうち再び申刻に大地震が生じた。
これがあとでいわれる安政南海地震である。この時の地
震の様子を刈谷藩の藩医であった村上忠順が書き記した
表10-9 東海安政地震の余震
月日
11月4日
5日
6日
7日
9日
10日
11日
12日
14日
15日
17日
時
5ツ半
朝より夜
昼7ツ時過
暮6ツ時
昨夕より夜中
朝6ツ半
暮6ツ時
夜
昼夜
朝
晩
夜
夜5ツ時
夜8ツ半時
5ツ時
4ツ時
大地震
13度震
大地震
〃
4~5度震
地震
〃
小地震数度
小地震
小地震3~4度
小地震
1度
地震2~3度
地震
〃
〃
〃
月日
11月19日
21日
22日
25日
26日
29日
12月1日
4日
5日
7日
12日
19日
22日
24日
時
夜8ツ時
〃
夜9ツ時
4ツ半時
5ツ時
夜8ツ時
朝6ツ時
夜前
暁7ツ時
夜
夜9ツ時過
夜
〃
夜前8ツ時
地震
〃
〃
地震2度
地震
〃
〃
〃
地震4~5度
地震
〃
地震度々
地震4~5度
変鳴音2度斗
地震
〃
〃
「下永良陣屋日記」より作成
ものによると、度重なる地震によって人々は心もないよ
うな状態であったところ、申の刻に雲が出てきて小風雨
があり、この風雨が止んだ。申の下刻頃、南西の方から
数百万の雷かと思うほどの大きな音がして、頭の上へ覆
いくるように鳴り響いた。その音は雷ではなく、大高山
が崩れて数千里の高潮の大津波がくると分かった。この
音は後で西国や関東でも同じように聞こえたことが分か
ったほどである。人々はこの音に恐怖で天地が逆転する
かと思い、その日より人々は深薮に小屋を作って終夜泣
き明かす者が多くいた。この時から地震小屋というのが
始まったと言われる。この時に乗じて所々で強盗に押し
入り、金銀や衣服を奪い去ることが多発した。
史料の中に、「家倒・塀倒・石灯篭くたけ・山さけ・海
潮いかり・田畑高下互に替り、青泥を吹出す」とあるよ
うに、刈谷でも地震による断層と地盤の液状化が生じた
ことを如実に表している。地震後も表10―9にあるよう
に何日も余震が生じている。
嘉永七年(一八五四)十一月四、五日
刈谷藩の被害
の両日に生じた安政東海地震・安政南
海地震によって、遠江国・駿河国を中心に大被害を被っ
た。太平洋岸では、津波による被害も大きかった。遠江
国の掛川はほぼ全滅、袋井は二、三軒残っただけという
ように東海道の宿場は壊滅状態であった。このほかフォ
ッサマグナに沿っている富士川流域では、甲府盆地にお
ける鰍沢の九九%の倒壊率を筆頭に、七〇~九〇%の倒
壊率を占める地域がほとんどであった。
三河国においては、駿河・遠江・甲斐国ほどではない
が、二川宿では全壊率が五〇%、吉田では城の二の丸が
全滅するほどの被害を受けている。しかし、吉田から西
の御油・赤坂・岡崎あたりはさほど大被害というほどの
ものはうけていないようである。ところが、矢作川にか
かる東海道の矢作橋では、橋の両側が揺れ落ちるなどの
被害を受けている。矢作川下流の伏見屋外新田では、地
割れをし、一面水没している。
地震の生じた前後に大浜村から北上し、刈谷から北西
へ名古屋まで行った者が、行程の被害状況を書き記して
いるが、その史料のうち現在の刈谷市域の部分は次のと
おりである。
吉浜村ゟ十八丁程尾垣村(小垣江村)ニ入、此村倒家
廿軒程潰家数々、出離ゟ往還通り、所々幅三四寸以
上割レ、右の口ゟ黒泥ニ相成、此辺所々道筋三尺程以
上ゆれ込、又ハ三尺程つゝ高くゆり上ケ、夫ゟ尾垣
村廿五六寸刈谷城下へ入、町通り往来筋ニ而倒レ家廿
軒程半潰数不知、大手門二尺程北之方へいざり見付
番所半分倒、家中屋敷往来三、四軒倒レ、城之前南
門長廿五、六間水堀之中へ崩落、右之中ニ貯米三千石
①刈谷町 本城石垣倒
② 〃 町口門石垣倒
③ 〃 修光寺大破
④ 〃 井野安右衛門宅破損
⑤ 〃 太田平右衛門宅破損
⑥ 〃 本町祭礼藏破損
⑦ 〃 下町常夜灯倒
⑧ 〃 利勝寺破損
⑨ 〃 十念寺破損
⑩ 〃 市原町常夜灯倒
⑪ 〃 大悟寺本堂皆倒
⑫元刈谷村 崇福寺本堂倒
⑬小垣江村 観音寺本堂大破
⑭ 〃 潮高
⑮元刈谷村 中市新田堤7分大破
⑯高津波村 金勝寺倒
⑰築地村 東照寺門倒
⑱ 〃 神宮寺破損
⑲今岡村 乗願寺大破
⑳泉田村 境橋震落
図10-4 刈谷藩領を中心にした被害
斗入有之、不残堀水の中へ入申候
このように道は地割れがあり、家も倒れ、城の大手門
をはじめ見付番所なども被害を受けている。
刈谷藩はその大半が洪積層からなる碧海台地と挙母台
地上に位置する。地震に対して比較的強いと言われるこ
れらの地盤であるが、図10―4に示されているところで
地震被害が起きている。図は史料からうかがえるものを
おとしたもので、地域のすべての被害とは限らない。つ
まり、町方と村方では史料の数や史料の記載量に違いが
あるため、この点を考慮に入れなければならない。図か
ら分かるように城を中心に西部地域で被害が大きい。こ
れは西側に川が流れており、そのため地盤が悪いと言え
よう。
刈谷藩の被害状況調べ
地震によって被害を受けた東海道沿いを
中心とする地域では、被害状況を把握す
るのにやっきになった。諸藩は、三宅対馬守の田原藩の
地震当日の四日を筆頭に、十一月十七日までぞくぞくと
幕府へ被害報告が出されている。刈谷藩では地震翌日の
五日に、本丸多門・二ノ丸・住居そのほか構向・堀・石
垣が所々破損し、家中屋敷・町・在とも潰家があり、東
海道往還筋の泉田村地内の境橋が揺れ落ちたと報告して
いる。刈谷藩では、この後十一月十日付の被害取調書を
十一月二十六日に、また十二月二十七日にも幕府へ提出
している。
安政二年(一八五五)二月十四日に、幕府代官所の中
泉代官からの問い合わせに対して刈谷藩の答えた地震被
害報告書によると、居宅の潰れが四五軒、居宅の半潰れ
が六七軒、物置小屋の潰れが二九か所とあり、このほか、
領内で社の大破一か所、寺の本堂の潰れ一か所、本堂の
大破三か所、庫裏の半潰れが二か所、門の潰れが三か所、
堂の潰れが六か所、太鼓堂の潰れが一か所、寺社の物置
小屋の潰れが二か所の被害があり、また、堤が長さ延べ
三八一七間半が崩れるか破損している。境橋については、
地震の生じた翌日にはすでに仮橋が作られている。これ
は、東海道という主要街道であったために迅速な対応が
取られたものと思われる。表10―10は、刈谷藩領の村ご
との被害状況をあらわしたものである。遠江・駿河国に
比べて比較的被害率は低い。
地震被害に対する幕府の対応
刈谷藩内では応急処置として、刈谷
町内の有力町人等一二人が、白米一
五俵三斗、黒米八俵、計白米にして八石九斗三升を施米
として出し、町内一二一六人に、十一月十日に一人三合
ずつ、十一月十二日に二合五勺ずつ割渡している。これ
らのことからも、各藩も同様に藩内の被害箇所復旧の資
金にあてたり、農民に貸し与えていたものと思われる。
諸藩や代官所からの被害報告書の提出に伴って、幕府
は東海道筋の宿々の破損場所を見分し、取り調べるため
老中阿部伊勢守より道中奉行を通じて中泉代官林伊太郎
へ、御勘定田辺彦十郎に普請役を添え差し遣わす旨が伝
えられた。実際は、目付・勘定組頭・御勘定・御徒士目
付・御人目付・普請役が駿府城に十一月十五日に到着し
手分けをして、駿府城・久能山御宮・宝台院・浅間神社・
三州大樹寺・鳳来寺・川通堤切所・甲府城等、徳川氏に
ゆかりの深いところや要所を中心に見分をしている。こ
れに先立ち、中泉代官林伊太郎は宿々役人たちへの手当
として、幕府から金二一〇〇両を拝借している。
幕府領・藩領・旗本領等混在する三河では、幕府が各
地の被害状況を直接把握することが難しかったため、最
寄りの中泉代官所で取りまとめていた模様で、刈谷藩に
は安政二年二月十四日、中泉代官林伊太郎の手代より領
内の潰家、死亡・怪我人がどれくらいかを報告するよう
に書状が届いた。この中泉代官からの地震被害取り調べ
の依頼によって、刈谷藩では、御留守居山中茂里人が早
速被害状況書き上げて提出している。これが中泉代官所
を経由して幕府へ届けられたかどうかは定かではない
が、勘定所から表10―11のとおり各藩に拝借金が渡され
た。これによると、拝借金は石高そのものに応じている
だけでなく、被害状況にも応じて貸し与えているようで
ある。また、安政東海地震による被害だけでなく、善光
表10-10 刈谷藩領被害
刈谷村
元刈谷村
熊村
高津波村
小山村
築地村
泉田村
今川村
今岡村
知立村
吉浜村
高浜村
高取村
居宅倒
1軒
1
1
3
1
2
5
4
5
居宅倒同様
11軒
9
居宅半倒
40軒
4
7
10
6
土蔵倒
3か所
1
土蔵半倒
1所
物置倒
6軒
5
2
1
2
1
6
5
物置半倒
3軒
その他
瓦小屋倒
木小屋倒
隠居倒1
灰小屋倒
〃
堂倒同様
薬師倒同様
瓦細工小屋
寺地震・安政南海地震・伊予西部地震に
よる被害も併せて考慮されている。
また、これとは別に幕府領を支配する
代官には、韮山代官所の江川太郎左衛門
は宿場手当として金二一〇〇両、支配
村々の夫食金として一五〇〇両、新貝代
官所の大草太郎左衛門には順に三四〇〇
両、一五〇〇両、中泉代官所の林伊太郎
には二一〇〇両、一〇〇〇両を貸し与え
ている。
各藩が借用した金の返金は、安政三年
から慶応元年(一八六五)までの一〇か
年賦であった。この返金は幕末の財政危
機の状態のなかでは各藩とも大変負担と
なった。刈谷藩も各藩と同様に二〇〇〇
両を幕府から一〇か年賦で借用してお
り、安政六年の段階では、すでに三か年
分六〇〇両が返済されており、安政六年
六月の「刈谷御領分御収納米高拾ケ年平
均并御入用高取調」(『近世資料編』 一一六頁~一一七頁)の
「御借金之覚」には、地震による幕府か
らの拝借金を二〇〇〇両借り、一〇か年
にわたって二〇〇両ずつ返済しており、
表10-11各藩拝借金
国名
遠江
駿河
〃
志摩
美濃
〃
摂津
大和
信濃
近江
豊後
三河
〃
大和
三河
遠江
駿河
遠江
豊後
三河
信濃
〃
山城
計
藩名
懸川
小島
沼津
鳥羽
高浜
大垣
尼崎
郡山
松本
膳所
府内
挙母
田原
桝本
吉田
浜松
田中
横須賀
杵築
刈谷
飯田
松代
淀
藩主名
太田摂津守
松平丹後守
水野出羽守
稲垣摂津守
松平摂津守
戸田采女正
松平遠江守
松平時之助
松平丹波守
本多隠岐守
松平左衛門尉
内藤山城守
三宅対馬守
織田安芸守
松平伊豆守
井上河内守
本多豊前守
西尾隠岐守
松平市正
土井大隅守
堀石見守
真田信濃守
稲葉長門守
石高
5万37石
1万石
5万石
3万石
3万石
10万石
4万石
15万石
3万石
6万石
2万7700石
2万石
1万2000石
2万石
7万石
6万石
4万石
3万5000石
3万2000石
2万3000石
1万7000石
10万石
11万石
拝借日
安政1.12.18
〃12.26
〃12.27
〃
安政2.6.24
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
安政2.6.26
〃10.29
拝借金
6000両
1000両
3000両
2000両
1000両
4000両
2000両
5000両
3000両
3000両
2000両
1000両
1000両
1000両
3000両
3000両
2000両
2000両
2000両
2000両
1000両
10000両
3000両
63000両
『新収日本地震史料』第5巻別巻5-1より作成
これまでに七か年分一四〇〇両を上納したとある。
刈谷藩の農民の動き
このような幕府・藩の対応のなかで、農
民たちは神社にお祈りをするなどして地
震の恐怖から逃れようとしている。
刈谷町では、末町の秋葉神社へ祈願をした礼として十
一月十二日の夜、各町内から釣挑灯を差し上げて、笛・
太鼓で勇をすることを藩に届け出ている。また同様に十
一月十五日の夜、地震よけの祭りとして、各町内から市
原神社へ釣挑灯を差し上げて、笛・太鼓で勇をするよう
に届け出ている。このほか、十一月二十九日から市原神
社に熱田大神宮を迎えて勇をするなど神頼みを繰り返し
ている。また、農民たちは自力で復旧をめざし、刈谷町
内の市原町では地震で常夜灯が倒れたため、安政三年(一
八五六)六月六日から晴天の七日間に宮前で音曲入ぶん
ご、高調子手踊り興業をして修復助成金を作っている。
一方、寺院側は、元刈谷村の崇福寺をはじめ各寺で修復
のための奉加巡行を行っている。藩側としても、地震後
すぐに城等の修復のため、村の大工は他所の稼ぎはひか
え、作事より触があればすぐに出頭するようにと触を出
している。
地震の生じた頃、刈谷藩主土井大隅守は江戸にいたの
であるが、十二月二十五日、藩主から刈谷へ地震見舞と
して求肥一箱が届けられている。この後、安政二年一月
十一日は仙台藩の伊達陸奥守より見舞がきたり、一月十
三日には浜松藩の井上河内守より使者が見舞にきてい
る。また、二月六日には刈谷藩の飛地である福島領の役
人熊木数馬より、刈谷の役人多米新左衛門・篠崎清蔵へ
一月二十五日付の手紙が届いた。これによると、福島領
の御用達・小前たちが刈谷が地震被害をうけたことを気
の毒に思い、冥加として献納金二六八両一分一朱、銭三
四〇文を六月中に献納したいと惣代割元後藤吉弥より申
し出があったとある。このように刈谷藩の交遊関係のあ
るところより見舞が届いたりしているが、逆に安政二年
十月二日に江戸で地震が生じたため、その見舞として刈
谷藩では、刈谷町をはじめ二一か村で金九二両二分二朱
を献納することにし、十二月二十五日には各村から上納
させている。
その他の被害
福島藩領では、小垣江村観音寺の本堂
が倒れる被害を生じた。そのため安政
四年(一八五七)九月に本堂の再建願いをしている。ま
た、小垣江村の高札覆矢来・敷石等で大破し、郷蔵の庇
が震れ崩れ、蔵自体も大破してしまった。一四軒の居宅
の潰家も出た。また、野田村でも郷蔵が落ちるなどの被
害もうけている。地震被害としては、土蔵が倒れるなど
という直接的被害のほか、地震によって三日雇の刈谷か
ら江戸までの飛脚が四倍近くかかってやっと届くなどの
間接的被害もある。
また、地震によって徐々に地味が悪くなった場合もあ
る。例えば、刈谷町・元刈谷村をはじめ五か村入会の新
田である高須新田は、地震によって地低になり、その後
高汐のため出水のたびごとに堤が破損し、ついに万延元
年(一八六〇)の大水のときには所々切所ができてしま
っている。そのため、刈谷町分の堤長さ一九〇間、元刈
谷村分の堤長五〇六間を堤高上げの普請をしている。こ
のほか、中市新田では、地震によって次第に地低になり、
水冠場が多くなり、苗代の場所に差し支えるようになっ
た。断層が通じている小垣江村では、地盤沈下がひどく、
そのため大雨の時には洪水に悩まされていたため、文久
三年(一八六三)三月に堰を設ける普請をしたいと願っ
ている。
地震後、大雨のたびに水害に見舞われる被害は、小垣
江村だけでなく、中市新田・流作新田・試作新田等新田
を中心にみうけられる。したがって、家屋倒壊などとい
う直接的被害とは別に、地盤沈下等による水害など間接
的被害も存分あった。いずれにせよ、地震被害によって
幕府・藩ともに財政難を一層深刻なものにした。刈谷藩
も他藩と同様に地震後は被害状況把握・窮民救済・拝借
金の借用・普請等災害復旧に懸命であった。