[未校訂]46 安政東海地震 一八五四年
安政元年地震記録
蒲郡市吉見昌則家文書縦二三・八×横一六・二㎝「形原役所記録」より抜粋
(注、「新收続補遺別巻」631頁下8行~最終行までを実例
として掲載しているが省略)
【解説】本史料は旗本巨勢知行所の村々が安政東海地震の被害
状況を形原陣屋宛に報告したものをまとめた写しであり、安
城市域と周辺村々の具体的な被害を知ることができる史料と
して貴重である。
安政東海地震とは、嘉永七年(一八五四)十一月四日
に生じた地震であるが、同年十一月二十七日に安政に改
元されたので、そのように称されている。この地震の生
じた翌五日の安政南海地震、七日の伊予西部地震、安政
二年(一八五五)十月二日の安政江戸地震と立て続けに
大地震が発生しているが、これらと区別する意味で後世
に付けられた名称である。この地震は、震源地を東海沖
とし、マグニチュード八・四と推測されている。現在の
安城市域では、被害状況を示した史料が少ないため震度
推定は難しいが、近隣の刈谷が震度六、池鯉鮒が震度六、
岡崎が震度五~六、高浜が震度五~六、と推測されてい
る(『明応地震、天正地震、宝永地震、安政地震の震害と
震度分布』七五ページ)ことから考えても、震度五~六はあ
ったと推測される。
地震の生じた嘉永七年は天候も不順で、刈谷藩では疫
病も流行している。また六月半ば過ぎから毎日のように
小さな地震が頻発していた。そして十一月四日午前九時
ごろついに大地震が発生した。駿河・遠江・甲斐国を中
心に尾張・伊勢国など広範囲に被害をうけた。とくに遠
江国掛川(現静岡県掛川市)は被害が大きく、三河国で
は二川宿(現豊橋市)が全壊率五〇パーセント、吉田(現
豊橋市)では城の二の丸が全壊するほどの被害が生じて
いる。
本史料によれば、川島村では五郎八・八郎右衛門・新
七・清兵衛の居宅が大破損で[潰|つぶ]れ同様になり、そのほか
の居宅も破損したが、昼間のため[怪我|けが]人はなかった。ま
た岡崎藩領の村高村では堤およそ三〇間が裂けて沈み、
ほかにも字てんぼう堤のおよそ六、七〇間が左右へ押し
開いて沈んだために、堤内へ水が入る恐れがあるので相
給の村役人(当時川島村は巨勢知行所・数原知行所・岡
崎藩の三給)と対策を相談したとしている。また「本田
畑之内泥水吹出し」とあるのは液状化現象が生じたこと
を示している。そのほか、[郷蔵|こうぐら]の屋根瓦が揺れ落ちたた
めに、すぐに[筵|むしろ]を掛け、落ちた瓦は捨てて、新しく瓦を
買い、早々に普請を行うよう申し付けた。また村高村地
内へ伏せ置いた用水[圦|いり]が潰れてしまったようにみえると
報告している。さらに上条・桜井村では、居宅が倒れる
ようなことはなかったが、破損はおびただしく、本田の
うち小川村福地向は液状化現象によって荒所ができたと
ころもかなりある。しかし、怪我人はいないなどと報告
している。
安城市域の被害については、ほかの史料からも確認す
ることができる。大浜茶屋では中根源六の居宅の座敷
向・勝手ともに大破となり、同村では大破の家が多かっ
たとされている(『新収日本地震史料 第五巻別巻五ノ
一』六三ページ)。また榎前村は、村の東側の堤が一三か所で
切れたりめり込んだりする被害を受け、橋も一か所破損
し、住家も一軒倒れたという届を出している。榎前村は
この堤修復について福島藩重原役所へ普請を願っている
が、その願書に添えた普請見積では、普請間数は二六八
間(坪数合四二坪七分)で、[人足|にんそく]は延べ三九四人必要で
あるとしている(榎前町斎藤五郎兵衛家文書)。このほか、
新堀川の水門が破損したという記録もある(史料37参
照)。
安城市域では、沖積低地に被害が集中しているが、全
体としてみると壊滅的な被害はうけていないようであ
る。これは洪積台地上に立地する地域が多かったためだ
ろう。
なお掲載した史料の前後には、安城市域以外の村々の
被害状況が書かれている。それによると、形原村(現蒲
郡市)では居宅の潰れはないが、破損は少なからずあっ
たという。また地震のあと海辺に高波が打ち上げ、津波
がくるかと思っていたら静まったとしている。西浦村(現
蒲郡市)は、橋田沖にある松島に津波が襲い、海の近く
の住民は高い所に逃げたという。さらに、上下[千両|ちぎり]村(現
豊川市)、長山村(現一宮町)・篠田村(現一宮町・豊川
市)、豊川村(現豊川市)・牧野村(同市)は家が倒れる
ほどではなく少々の破損だけですみ、被害が少なかった
としている。また足山田村(現一宮町)は家が倒れるほ
どではなかったが堤が切れ田畑が荒地になり、[下衣文|しもそぶみ]・
[柿平|かきだいら]村(現額田町)は家の破損が少しあった程度である
と報告している。