Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000920
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔蒲郡市史 本文篇2 近世編〕○愛知県蒲郡市史編さん事業実行委員会編H18・3・31 蒲郡市発行
本文
[未校訂]三州表大地震
嘉永六年(一八五三)から七年にかけ
て、三度の地震が三河地方を襲った。
六年の地震は相模川流域(神奈川県)を震源地としてい
たため大きな影響はなかったが、嘉永七年(十一月二七
日、安政と改元)の「[三州表|さんしゅうおもて]大地震」と呼ばれる地震
は、近世蒲郡を襲った最大の地震で、十一月四日と五日
の二度にわたってこの地を揺さぶった。
 四日の地震の震域は、東海・近畿・四国地方にも広が
り、倒壊や流出した家屋は八三〇〇戸、圧死者は三〇〇
人を数えたという。[形原|かたのはら]町の「[御嶽|みたけ]神社日誌」には、神
社の塀や[石燈籠|いしどうろう]が崩れただけでなく、「此度震動ハ大ヘン
事ニテ、ワキワキハ家々クズレ、又津波ニテ家ヲ引キ出
サルル所モアリ、当地ハマダマダサハリ少ナシ」とある。
「形原役所記録」の被害報告によると、家屋の倒壊や大
きな津波の被害といったものはなく、物置などの破損が
[甚|はなは]だしかったという程度にとどまっていた。
 しかし、その三二時間後に起きた五日の地震は、倒壊
家屋が一万、焼失家屋も六〇〇〇を超える、より大規模
な地震で、三河地方にも多大なる被害をもたらした。家
屋の倒壊はもちろん、三河湾・遠州灘沿岸に打ち寄せた
津波による被害もあり、災害復旧のため、[挙母|ころも]・田原・
吉田・刈谷その他の諸領主は、千両から数千両を幕府か
ら借用している。
 ここ蒲郡の被害状況については、「御嶽神社日誌」「形
原役所記録」ともに、震源の方向である西南から津波の
音とも山風の音ともつかない音が雷のように大きく響い
てきたことへの恐怖から、西浦村の住民は小高く安全な
場所に小屋を建てて寝たことを記している。しかし、不
思議なことにその後に続いた微震以外には、さしたる被
害状況が記述されていない。
 地震をはじめとする自然災害に対する人々の恐れはい
つの時代も同様である。「[王稔記|おうねんき]」などの日記を読むと、
表5-20嘉永7年(1854)11月4日と5日の地震の比較
発震時
震源地
震域
規模
市域の被害
(全被害)
11月4日
午前9時15分頃
遠州灘東部
東海・近畿・四国地方
マグニチュード8.4
・家屋倒壊の被害は三河を含め、伊
豆から越前・近江に至る広範囲に
わたった。
・三河湾沿岸にも津波の被害。
・倒壊、流失家屋8,300戸
・焼失600戸
・圧死者300人
・流失者300人
11月5日
午後5時頃
南海道沖(四国南方海上)
東海・畿内・東山・南海・山陰・山

不明
・被害は東海から山陽にまで渡り、
三河地方一帯でも多数の家屋が倒
壊。
・三河湾沿岸にも津波の被害。
・全壊家屋10,000戸
・焼失6,000戸
『愛知県災害誌』(昭和46年)により作成
天候不順はもちろん、彗星の出現や様々な不可解な自然
現象注13を克明に記していることが多く、自然の微妙な変化に
敏感であったことが分かる。
注13 「王稔記」にも、しばしば「キ星出ル」「甘露フル」
「彗星出ル」「晃物(日ノ輝ク如シ)」「砂降ル」など
の自然現象が記録されている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 812
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛知
市区町村 蒲郡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒