[未校訂]三州表大地震
嘉永六年(一八五三)から七年にかけ
て、三度の地震が三河地方を襲った。
六年の地震は相模川流域(神奈川県)を震源地としてい
たため大きな影響はなかったが、嘉永七年(十一月二七
日、安政と改元)の「[三州表|さんしゅうおもて]大地震」と呼ばれる地震
は、近世蒲郡を襲った最大の地震で、十一月四日と五日
の二度にわたってこの地を揺さぶった。
四日の地震の震域は、東海・近畿・四国地方にも広が
り、倒壊や流出した家屋は八三〇〇戸、圧死者は三〇〇
人を数えたという。[形原|かたのはら]町の「[御嶽|みたけ]神社日誌」には、神
社の塀や[石燈籠|いしどうろう]が崩れただけでなく、「此度震動ハ大ヘン
事ニテ、ワキワキハ家々クズレ、又津波ニテ家ヲ引キ出
サルル所モアリ、当地ハマダマダサハリ少ナシ」とある。
「形原役所記録」の被害報告によると、家屋の倒壊や大
きな津波の被害といったものはなく、物置などの破損が
[甚|はなは]だしかったという程度にとどまっていた。
しかし、その三二時間後に起きた五日の地震は、倒壊
家屋が一万、焼失家屋も六〇〇〇を超える、より大規模
な地震で、三河地方にも多大なる被害をもたらした。家
屋の倒壊はもちろん、三河湾・遠州灘沿岸に打ち寄せた
津波による被害もあり、災害復旧のため、[挙母|ころも]・田原・
吉田・刈谷その他の諸領主は、千両から数千両を幕府か
ら借用している。
ここ蒲郡の被害状況については、「御嶽神社日誌」「形
原役所記録」ともに、震源の方向である西南から津波の
音とも山風の音ともつかない音が雷のように大きく響い
てきたことへの恐怖から、西浦村の住民は小高く安全な
場所に小屋を建てて寝たことを記している。しかし、不
思議なことにその後に続いた微震以外には、さしたる被
害状況が記述されていない。
地震をはじめとする自然災害に対する人々の恐れはい
つの時代も同様である。「[王稔記|おうねんき]」などの日記を読むと、
表5-20嘉永7年(1854)11月4日と5日の地震の比較
発震時
震源地
震域
規模
市域の被害
(全被害)
11月4日
午前9時15分頃
遠州灘東部
東海・近畿・四国地方
マグニチュード8.4
・家屋倒壊の被害は三河を含め、伊
豆から越前・近江に至る広範囲に
わたった。
・三河湾沿岸にも津波の被害。
・倒壊、流失家屋8,300戸
・焼失600戸
・圧死者300人
・流失者300人
11月5日
午後5時頃
南海道沖(四国南方海上)
東海・畿内・東山・南海・山陰・山
陽
不明
・被害は東海から山陽にまで渡り、
三河地方一帯でも多数の家屋が倒
壊。
・三河湾沿岸にも津波の被害。
・全壊家屋10,000戸
・焼失6,000戸
『愛知県災害誌』(昭和46年)により作成
天候不順はもちろん、彗星の出現や様々な不可解な自然
現象注13を克明に記していることが多く、自然の微妙な変化に
敏感であったことが分かる。
注13 「王稔記」にも、しばしば「キ星出ル」「甘露フル」
「彗星出ル」「晃物(日ノ輝ク如シ)」「砂降ル」など
の自然現象が記録されている。