[未校訂]今から一四七年前、嘉永五年(一
八五二)にも日本各地に大風雨が
あり、大阪にはものすごい大火があった災害の年である。
翌嘉永六年(一八五三)二月には、関東地方は大地震、
続いて嘉永七年十一月には、この地方各地もおびただし
い被害を受けた大災害の年であった。
歴史上で、この時の事について「東海東山・南海に大
地震、壊家八三〇〇戸、死者一〇〇〇人、富士川洪水を
起こす」とある。
この時の状況について、当地の様子を記録した文書が
片町の沢木家から見つかった。郷土の人たちの知らなく
なった昔の災害を、もういちどよみがえらせて先祖の苦
労をしのび、今後の用心となればと思い記してゆく。
嘉永七年(一八五四)霜月四日、朝から青天西風が吹
き、五ツ半ごろ大地震、片町には格別のこともなかった
が向かいの吉野屋は二寸ばかりはいこんだ。かりやの山
家屋、豊田屋の土蔵が崩れ、清水の家が、三、四軒たお
れた。大地は、一尺五寸くらいみえ、山の方はよかった。
本町は一向に破損がなかった。四日昼から高潮が堀川
をのりこえ、上堀合半分位潮水が入った。新居の今切が
半道ほど崩れたので、塩のみちひきが早くなって沖通り
の田は、一面の水になってしまった。大地震につき四日
昼から裏畑へ五間に四間の小屋掛をして、始めの三日ば
かりは、六〇あまりここに泊った。七日昼過ぎからまた
一つ、二間に四間ばかりの小屋掛けをして、八日ごろか
らここで、三三、四人暮して朝夕にたき等して十六日ま
で寝泊りした。
十六日夕方天気がかわったから始めて家々へ帰ってい
たが、同夜四ツ時ごろ、大津浪がくると本町から大声で
言って来たので、町裏へ出てみると、崎山むきに大川が
流れるようにざわざわざわと音がして、一丈位の津浪が
来ると皆んな大騒ぎをした。しばらくのうちに町裏の田
圃へ水が押込んで来て、前のときよりも一尺五寸ぐらい
高く水がついた。
勢州戸場では、二丈ほどの津浪がおしよせて来て家が
流れたということである。豆州下田も一〇〇〇軒のうち
三〇ほど残って皆んな、高潮の被害をうけたということ
である。掛川、袋井の町家は惣つぶれ丸やけで、死人が
山のようだとのこと。舞坂新居も大破損で御関所も打ち
たおれ、人通りもたえ、五日から十五日までのうち上り
下りのものは皆気賀を通り、十六日から新居を通るよう
になった。また二十二日夜八ツ半ごろ、大地震で同夜高
潮が来て町裏御朱印田一面に乗込み、上堀合、大川はじ
め道上まで乗込んだ。四日からしじゅう高潮があって引
塩のときでも堀川が一ぱい、みち塩には田圃までのりこ
え、一日に一度ずつゆれる。
殊のほか高潮で十一月二十三日また、小屋掛をして朝
夕そこで寝起きした。十二月二日覚。
安政二年六月ごろまで地震があった。今年は麦作平年
並、夏作見事にでき、秋作もよかったが、七月二十六日
朝から東風が吹き、夕方から大風になり二十七日朝まで
吹き、其夜七ツごろ津浪が来て、清水まで打込、かりや、
かた町一四、五軒も庭まで打込、落合川も九尺五寸の出
水になった。その日夜中ごろから地震があり、二十八日
朝から雨が降った。夕方天気になりまた、二十九日朝東
風で大雨となり、夜半ごろまで降り続いて落合川七尺五、
六寸ほど出水、八月一日天気になった。田方近年まれな
大出来、町裏の琉球も二〇年以来の出来ばえであった。
西山田の御神領へ下村、葭本辺の舟が流れこんで稲を
損じた。
八月十九日、朝から東風で夕方から大風になる。夜四
ツ時ごろ西南の風で高汐、七月二十六日の汐より七、八
寸ほども高く、かりやはいうに及ばず片町じゅう川のよ
うになった。もっとも四ツごろから青天で、風は甚だ強
く、再度の高汐で稲が誠にみぐるしくなってしまった。
二、三分ほどのみのりかと思う。
下村辺から西、高汐の様子、村櫛辺殊のほか高汐、宇
布見等は村中一軒も残らず汐水が入って家作等残らずつ
ぶされたから道具類や俵物までも流され、目もあてられ
ぬほどだということである。
同月二十三日 朝から殊のほか冷気が増して朝夕は足
袋がなくては暮しかねるような状態であったから、秋の
作りものがだんだんみぐるしくなってしまった。
九月二十八日、暮六ツ時地震同夜三、四度ゆれる。
十月二日夜 四ツ時少々ゆれ前後たびたびゆれ二日は
江戸が大地震で家がたおれ、土蔵残らず出火、三八か所
焼け出して、三ツ時ぐらい焼けたということ。下谷御屋
敷等は別にひどいことはなかったようであるが土蔵は柱
だけになったようである。家来の長屋一軒たおれ、国元
から材木をとって大工六人ばかりが出かけた。
安政三年六月 御祭礼(細江神社)本祭り年に当たる
が地震高潮の災害があったから屋台やほろはやめて、そ
のほかの諸道具もはずして御祭礼も無事にすませた。
七月三日から五日まで社中で大般若を行い、氏子は大
念仏を行った。