[未校訂]安政の大地震
一八五四年(嘉永七)十一月四日に大
地震が発生して、各所で被害が出てそ
の記録が残されている。それによると天竜川通りの実際
の被害の大きさは、それほどでなかったようであるが、
当時の人々は地震に対する知識も乏しく、正確な情報も
得難かったので長期間、寒さと暗闇の中でつぎつぎと襲
う余震におびえて、長くて恐しい夜を過ごしたであろう
ことが推察される。
松之木島村の源左衛門は自家が半潰となって、地頭か
ら救米を受け、村内の所々で地面に大きなひび割れがで
き、地下水が溢れ出て、堤も各所で切れて大荒れになっ
たと記した。また人々は余震を恐れて二十日余りも竹薮
の中で仮り住まいをしたとも書き残した。
平松村の孫左衛門は袋井・掛川宿・山梨市町で多くの
焼死人が出、海岸通りでは大家は皆焼失、寺々大寺残ら
ず燃えたと記しているが、乱れ飛ぶ噂を書き留めたとい
う感じが強く、村内被害の記録はしなくてその秋は豊作
で、人々の[懐|ふところ]具合はよかったと書き残している。
下神増村では潰家が二軒、[雪隠|せつちん]潰家が一軒、破損九軒
の被害を届け、普請所の被害としては、堤が長さ二二八
間にわたって欠け所となって散乱し、その他古籠出三個
所・菱牛五組が散乱したと届け出ている。
また敷地村の高木領では、地震のすぐ後で家三一軒破
損、郷蔵破損、宮・寺各一の破損、堤のえみ割れ二〇個
所で延九六〇間、上田五反ずつが二個所で湧き水が止ま
って水切れ田になる被害が出たと届け出た。翌年二月に
は渕之上・川原で堤延四四間、土坪一二坪六分三厘三毛、
必要人足三七人二分九厘三毛、根杭一〇九本の普請を願
い、渕之上・待井で上田の計一反二畝二六歩の被害を記
し、その他の個所は時節柄自力で修復すると届け出た。
一八五七年に一言役所から大平村に廻った廻状による
と、地震以来大工・[木挽|こびき]の作料が高騰したが、明年まで
は金一分について七人とし、明後年からは震災前に戻せ、
佐官・[葺師|ふきじ]・桶屋などもこれに準ぜよとあり、村ではこ
の請状を宗門改帳につけて差し出した。
なお平松村の忠四郎は地震についての[冥加歩持金|みょうがぶもちきん]とし
て、一八五五年(安政二)二月に金四〇両を代官所に差
し出したが、この金は無利息五か年賦で、一八六〇年(万
延元)十一月までに返された。