[未校訂]安政東海地震
一八五三年(嘉永六)六月四日、アメ
リカ東艦隊司令長官M=C=ペリーは
四隻の艦隊を引き連れて相模国浦賀に来航、鎖国政策を
続けていた幕府に開国を要求する国書を手渡した。いっ
たん退去したペリーであったが、翌年一月に今度は七隻
の艦隊とともに江戸湾に再び来航、神奈川における交渉
の結果、同年三月三日に、下田・函館の開港、薪・水・
食糧の供給、下田に領事を駐在させることなどを内容と
する日米和親条約が締結された。二〇〇年以上にわたっ
て鎖国を続けてきた幕府がその政策を転換させたその一
八五四年の十一月四日、遠州灘でマグニチュード八・四
と推定される巨大地震が発生した。十一月二十七日、年
号が「嘉永」から「安政」へと改元されたので、この地
震を「安政東海地震」と呼ぶ。
嘉永から安政にかけては地震活動が活発な時期であっ
た。すなわち、前年の一八五三年二月二日に嘉永小田原
地震(マグニチュード六・七)、一八五四年六月十五日に
は近畿中部で直下型地震(同七・三)、安政東海地震の翌
日には安政南海地震(同八・四)、そして翌一八五五年十
一月十一日には江戸に大被害をもたらした安政大地震
(同六・九)、一八五七年十月二十三日には大井川河口を
震源とする安政駿河地震(同六・三)が続発している。
異国からの黒船そして頻発する地震と、為政者ならずと
も安政を願わずに入られなかったことであろう。
安政東海地震の浅羽地域における被害の状況をみてお
こう。
一八五四年十一月四日午前九時頃に発生した地震は、
静岡県沿岸一帯に大きな被害を与え、この地震によって
発生した津浪が房総半島から土佐湾までの広い範囲を襲
い、津浪による被害も甚大であった。
震度は、掛川宿・袋井宿で震度七、海岸線では震度五
~六程度であったと推定されている。また、地震による
津波も五メートル程度であったと思われる(前出「自然災害
誌」)。
[米丸|よねまる]村では、[郷蔵|ごうくら]が全壊、理春庵では本堂・阿弥陀堂・
釜屋・馬屋とも全壊、そのほか百姓家・稲小屋・土蔵・
釜屋・寝屋など一九一棟が全壊し、死者二名、けが人二
名という被害を出した(一一〇号)。
[小口市場|こぐちいちば]村でも、郷蔵が半壊、百姓家の全壊は三二棟、
半壊が一一棟、被害がなかったのは一二軒であった(一
一一号)。このうち雪隠についていえば、九軒が無難、二
棟が半壊、全壊は六棟であったが、雪隠だけが潰れたと
いう例はない。雪隠は構造が単純なだけに被害が少なか
ったのであろう。
被害を受けたのは民家ばかりではなかった。
一八五五年(安政二)二月、岡崎・松山・梅田・東山
村など三五カ村から前川川浚いに関する嘆願書が提出さ
れた(三四五号)。
浅羽地域では横須賀川やその枝川、そして悪水は、ま
とめて[弁財天|べんざいてん]川から横須賀湊口へ落としていたが、宝永
地震によって湊口が埋まってしまったため前川から[福田|ふくで]
湊へ排水することになった。この前川も次第に川床が押
し上がり、少しの雨にも田畑・家地にまで水が乗るよう
になっていたところに、今回の安政東海地震で川床がさ
らに震え上がり、堤が崩落して土が川へ流れ込み、さら
に砂浜が震え出たため、通常の排水もできないありさま
である。もともと地窪の村々で用水の便は悪く、水損・
旱損の被害を受けてきたが、さらにこの地震で家は崩壊
し、雨露をしのぐことさえできない。そこで前川通りの
御普請を願い出たが、横須賀城も大きな被害を出して手
が回らないということだったので、詮方なく国役御普請
を願い出ることとした。近年は異国船渡来、禁裏炎上、
地震が打ち続き、国役御普請や拝借などの願書が多く出
されている時節ではあるが、国役御普請とならなければ
大凶作が打ち続いた後の震災だけに百姓の相続は出来難
く、「甚心痛難儀艱難至極」であるので、国役御普請によ
り前川の川淩いを行い、その淩い土で堤を修復し、川筋
は湊村地内から古川筋へ付け替えてくれるように再び願
書を提出することにしたというのである。
三五カ村からの再嘆願書に対し、中新田・[東同笠|ひがしどおり]・梅
田・西同笠・小島方の五カ村は、前川を湊村地内で古川
筋に模様替えすることについては何らの差し障りがない
旨の請書を差し出している(三四六号)。
震災後の村々の復興の様子を知るべき資料はないが、
松原村では一八五五年五月に地震で半壊した養性寺の修
復(一一四号)、さらに同年八月には大破した氏神[応御前|おおごぜん]
[宮|ぐう]を古形のとおり再建することを願い出ている(一一六
号)。翌年江戸を襲った直下型の安政大地震後に復興景気
のようなものが起こり、「災害=[苛斂誅求|かれんちゅうきゅう]・悲惨・零落」
という枠組みだけではとらえきれない人びとのエネルギ
ーがそこにはみられるという(北原糸子『安政大地震と
民衆 地震の社会史』三一書房)。
安政東海地震によって浅羽地域の人びとが受けた被害
は軽いものではなかったであろうが、自分の家はもちろ
ん、村の寺や社の再築、用悪水路の復旧と、そこには打
ちひしがれているだけでなく、たくましくいきる人びと
の姿も見いだすことができよう。