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項目 内容
ID J3000889
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔相良町史 通史編 上巻〕○静岡県H5・8・28 相良町編・発行
本文
[未校訂](三) 嘉永七年の大地震
(前畧)
 この大地震による相良地方の惨状を見ていこう。大地
震の発生、津波の来襲によって現出した光景は、家屋の
倒壊、下敷きとなって死ぬ人、負傷する人、泣き叫んで
逃げまどう人びとであった。また、あちらこちらにでき
た地割、吹きあげるどろ水、山崩や堤の決壊等々であっ
た。海沿いでは、沖合いの足高(愛鷹)岩まで海が退いて干上り、
間もなくどっと押しよせた津波、激浪にさらわれる家屋、
ほんろうされる船々であり、平田村の橋げたまで流しと
ばされた多数の船であった。大地震と津波はすさまじい
威力で相良を襲い、大被害を出したのである。
 以下、相良町内に残された大地震についての記録を紹
介しておこう。
 笠名村の植田小十は伝聞をふくめて次の通り記録して
いる(『町史近世二』466)。すなわち、遠州で被害の大き
かったのは掛川で「不残皆痛」となり、多数の焼死があ
った。また、馬四、五〇頭が焼け死んだ。相良町も残ら
ず潰れた。年番名主を勤めていた小十はまず相良御役所
へ駆けつけた。役所では役人らが、ももひき(股引)・きゃはん・
(脚絆)わらじ(草履)ばきの出で立ちであった。役所をそこそこに帰宅
すると、笠名村は家屋は傾き、雪隠はつぶれていた。幸
いにも村での死人はなかった。大地震後は余震が続き、
村びとは薮中に小屋掛けして[凌|しの]いだ。所々の山際に家屋
を持つ者は山崩の危険を避け、その家屋を捨てて畑の中
に三々五々寄合い、小屋掛けをした。笠名村の溜池の樋
が破損し、穴があいてしまった。海辺村々では、大津波
が襲った後の屋敷跡をイナダや他の魚が占拠している光
景が見られた。
 松本村川田家の記録は次の通りである。
 川田家では家に権左衛門を残し、子どもをふくめて家
内全員が籾をほしているところに大地震であった。屋内
の権左衛門は金二朱を持って囲炉裏の火を消し、へっつ
いに摺鉢ごと水を投げつけ消化にあたった。近所の老婆
を道まで連れ出すと家屋がくずれ、老婆を間一髪で救う
ことができた。母屋・馬屋・雪隠・秣小屋・土蔵はすべ
て潰れ、近所も同様であった。
 大地震後、津波が襲い、海辺の者は谷下峠に逃げた。
平田村の橋げたには多数の船がひっかかっているのが見
え、肝をつぶした。十一月五日も鳴動し、急いで山へ逃
れた。掘立小屋を建てて不安な思いですごす者がいた。
所々で地割れがあり、どろ水が吹き出し、帝釈山の岩が
落ちた。磯浜からやや離れた足高岩まで干上り、ここへ
行ってカキ・ノリなどを採り、これを食う者もいた。
 川田家の「大地震騒動記」(『町史近世二』467)の大概
を記したが、権左衛門が金二朱をもったことが何を意味
するか明確ではない。周章狼狽して、火を消すよりも真
先に金品を守ろうとしたという意味であろうか。消化に
あたる場合も摺鉢の水だけかければよいのに、摺鉢ごと
へっついに投げ込んだというわけである。川田家記録は
大坂での津波の死者一万人、淡路・四国は大変のよし、
伊豆下田は大波で残らず流されたとの風聞を記して「誠
ニ前代未聞之事ともなり」と述べている。
 次に、大沢寺十代祐賢の地震記(『町史近世二』468)を
見ておこう。
 地震記は「嘉永七年歳在甲寅仲冬之始四日、[将|まさ]にこの
日山辺は大鳴し、忽ち震地也。万家が尽く倒れ、[而|しか]して
老少は哭泣きし」と書き出している。家屋から逃れ出る
と[悲泣|ひきゆう]の声が聞こえ、壁をこわして救出した。ある人は
くずれ落ちた桁に打たれて即死し、腰を打ち、足に傷を
負う者もいた。津波は海が立ち上がったようで、人々は
老を扶け、児を抱えて山に逃げ走った。津波の引いた後
は「海潮減去一里程」となり、平らな砂地が広がった。
右以外にも被災後の小屋掛けなどが記されているが割愛
する。
 最後に林昌院過去帳の地震記事を掲げておこう(『町史
近世二』469)。
 林昌院の客殿・庫裡大損し、門はころび、瓦はくだけ、
塀・柱が折れ、薬師堂前の雪隠は小損であった。新庄村
で母屋が潰れた家は門前の仙次郎以下二一軒で、これ以
外にも多かった。
 新庄村付近の様子は、白羽・中西・堀之内は大潰れで
あった。これより西の福田村まで同様で、掛川の町方は
惣潰れで、出火して焼けた家が多い。袋井宿大潰れであ
った。軽微な被害の村々は地頭方・落居・須々木で、波
津・相良は大潰れとなり、市場町より出火し、下町まで
焼けてしまった。右のように近辺の被害状況を記して、
東は箱根まで、西は阿波・土佐、北は信州飯田・松本あ
たりまで被害があったと記している。
 そして、十一月五日以後について次のように書き留め
ている。わかりやすい文章であるので掲げておこう。
大地震之後五日ノ晩方大キニドウ〳〵とナリ、又ユ
スルコト大キナリ、此時潰レシ家モ有り、四、五日
之内ハ一日夜ニ三十七、八度位ユスレ、ダン〳〵スク
ナクナリ候得共、十日過テハ一日夜ニ十六、五度位ユ
スレ候得共、家之潰レルホドノコトモナシ、夫レヨ
リ冬中夜ル昼ルユスレ候、春ヘナリテモ正月中ハ昼
夜ニ六、七度位ユスレ、二月、三月ニモ時々ユスレ、
六、七月迄モ少シ宛ニユスレ候得共、段々カルクナリ
候、八月三、四度ユスレ、九月六日晩方中位ユスレ、
又其夜六ツ過キニユスレ、夜中ニ三度斗リユスレ、又
廿八、九日暮六ツ頃大ユスレ皆人カケ出ス、又夜ノ
七ツ頃モ少しユスレ、晦日ノ夜モ六ツ過キ少々ユス
レ、十月二日夜ノ五ツ頃此辺ハ中ユスレ、江戸大ユ
スレニ而家ソンシ、人死スルコト数をしらず
 嘉永七年(一八五四)十一月四日の大地震は以上のよ
うに各地に大被害を出し、余震はしばらく続き、翌安政
二年も一年中ゆれ続けたのであった。さて大地震発生後
被害届が相良御役所に届出されたが、判明分を掲げてお
く。
 須々木村は居宅四〇軒が中痛、六一軒が小痛で、寺は
大痛一、中痛一、神社中痛一であった。西山寺村では七
軒が潰家で、一か寺が半潰、護摩堂潰等であり、蛭ケ谷
村では一六軒が倒壊、一二軒が中痛、残りは小痛であっ
た。被害の規模、軒数別の届出であるが、これよりは前
述の地震記がはるかに生々しく惨状を物語っているとい
えよう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 702
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
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