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項目 内容
ID J3000840
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔田辺市史 第二巻 通史編Ⅱ〕○和歌山県田辺市史編さん委員会編H15・1・31田辺市発行
本文
[未校訂]1 災害と救民
嘉永七年六月の地震
安政大地震が起きる同じ年の嘉永七年
(一八五四)六月にすでに、その前兆と
なる大きな地震が田辺地方を襲った。それは、まず六月
十四日の夜九ツ時に起こり、近年にない揺れ方で、大勢
の人が家の外へ出て驚き、それから翌朝まで少しずつ揺
れた。十五日の朝五ツ前ごろには、また大揺れが起こり、
「川筋抔さし汐常体より大分ニ上り浦辺筋大ニ驚キ申候」
(『田辺町大帳』同年六月十五日の条)とあるように、地
震による潮位の上昇が見られ、沿岸では大騒ぎとなった。
また、『御用留』にも六月十五日のこととして、「今暁丑
ノ刻前より地震、同日申ノ刻比迄大小凡拾五六度程震ひ
候、近年不覚事ニ而一統大ニ心配いたし候、家内取片付逃
仕度等いたし候筋多く有之候」とあり、相当大きな地震
であったことがうかがえる。地震は、その後十七日まで
昼夜に三度ずつ続いた。そのため、火元の用心を呼びか
けたり、地震の安穏を願って松雲院では立願の護摩祈禱
が実施された。
 この地震は、紀伊国よりも「山城大和近江越前伊勢大
地震南都地震」とされるように、大和を中心に大きな被
害が出た。その模様は、六月十四日の夜八ツ時から揺れ
だし、十五日の朝五ツ時に大地震となり、そのため奈良
町が大きな被害に遭い、寺社堂塔に至るまで大きな破損
を受け、三〇〇人余の死者を出すという大地震となった。
大和の古市(現奈良市)でも、六〇人余が死亡し、一二
~一三軒の家を残すありさまであった。伊勢の四日市で
は、五〇〇軒余の家が[潰|つぶ]れ、出火により四〇〇軒余が焼
失し、二四〇~二五〇人の死者が出た。そのほか、越前・
三河・近江など近国では大きな揺れとなり、[未曾有|みぞう]の大
騒動であったという。地震被害による物不足から、地震
被害の見られたこれらの諸国では物価がしだいに上昇し
ていったのである(『田辺町大帳』同年六月十八日の条)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 579
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 田辺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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