[未校訂] 嘉永七年六月十四・十五日、近畿・東海地方にかけて
大地震が発生した。この大地震の被害を報じた「山城・
大和・江州・勢州・三河・越前聞書大地震[并|ならび]ニ出火の次
第」と題する[瓦版|かわらばん](『中井完悦氏所蔵文書』、写180)によ
れば、南都は町家の大部分が倒壊し、死者三五〇人、負
傷者は数知れずという状況で、藤堂藩の奉行所所在地で
ある和州[古市|ふるいち](奈良市古市町)については「同日同刻の
大地震ニて、池われ、人家多分くづれ、死人六十七人、
けが人数しれ
ず、のこる家数
三軒ばかりより
これなく義ニ御
座候」と記して
おり、その被害
はきわめて甚大
なものであった
と考えられる。
この大地震によ
って、加茂郷に
おいてもかなり
の被害を出して
おり(表67)、こ
れら被害をうけた人々に対して、藩は救金および農具料、
飯料を[下行|げぎょう]している(『観音寺区有文書』)。
この大地震によって、古市村が壊滅的打撃をうけたこ
とはさきにみたが、その復旧に際して八月以後[灯明寺|とうみょうじ]山
の木材が伐採されて運ばれたようで、加茂郷の農民はそ
の木材運搬のための人足に徴発されている(同前)。また、
伊賀[上野|うえの](三重県上野市)もかなりの被害をうけたが、
このとき[常念|じょうねん]寺の本山である[西蓮|さいれん]寺の本堂その他が大
破したため、その再建にむけて常念寺の檀家に寄付をつ
のっている(『常念寺文書』)。