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項目 内容
ID J3000691
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後〕
書名 〔上越市史資料編5近世二〕上越市史編さん委員会編H14・3・31 上越市発行
本文
[未校訂]147 彗星・地震・対島事件等の伝聞記録(抄)
(天(一八三七)保八年~文(一八六一)久元年)
(前略)
弘化四巳年三月廿四日夜四つ時新井村氏神白山の社下よ
り崩、同金比羅の社崩、市神の石垣并御高札下より崩、た
をるゝ松の木、地蔵尊下より崩、堂三、四間飛、左右の
石垣不残崩、石灯籠は不及申、立石南無妙共たおるゝ、
新井町不残一、二尺つゝかたかり、人見戸・雨戸も皆ふ
るいてはなれこはるゝ、土蔵不残土落、又ハ五寸壱尺ツゝ
土たゑ、石より外ニはしる人三十日余り、外ニ竹の柱ニは
しごのちたゐニ而小屋をかけ、貴賤ニ不限猶柱也、其大へ
ん詞ニ不尽れ略す、外川東村々家々殊ニ新井より猶□(虫損)□□
也、村々所々大小共四、五軒ツヽつふれぬ村無、又ハ人
二人、三人死ス村々あけて数へられす、大ぶけ辺・下柿
崎辺迄皆同事也、今町家三、四拾間つふるゝ、其上人四、
五人死ス、地六、七尺、長二十間、五十間程別れて、下
より水わき出、又は青き土ろをふき出し候、高田も家二
尺、三尺、五寸、三寸程皆かたかり、又は二、三拾軒も
つぶれ、但人はゐたます、西の村々少々おたやか也、土
蔵ニ者ひゞの入たる計也、家ハたま〳〵よハきハかしか
り、丈夫へんなし、二本木・松崎少々かしかり、市屋む
らハ五、六軒つふるゝ、人三、四人死ス、関山・関川辺
もつふれ、又はたれ人も三、四、五人有死無シ、大谷む
らハ山崩ニ而村中へ大山崩出て、人数百五、六拾人死す、
平丸辺も人多分死す、長沢村半分計つぶれ人少々死ス、
其外近村々如此略す、信州ハ言もおそろしく、善光寺ハ
不残つぶれ、其上出火ニ而人数凡一万余人死ス、其時は開
帳ニ而遠近之国々より貴賤之人寄合ふ節なれば、親を失ひ
子を失ひ、国々のものゝなけき大方ならぬ事共也、二(仁)王
門ハ焼失、諸坊主所不残つぶれ、諸堂崩焼失ひ、数の石
灯篭不残崩たおるゝ、地上三、四尺われ、〓(凸)凹如此所大
く出来、され共山門御堂は少々の事ニ而何事もなし、三国
伝来之仏ニ(ママ)旭山と申所ニ御来光有、其より松城(代)不残
崩、ひと多く死ス、同稲苅山宿不残崩つぶるゝ、ことニ出
火ニ而人多ク死す、山中と申所事広く表□(虫損)山中ノ内、新
町・中町不残つぶれ、出火ニ而多く人数人(ママ)数しれす失ひ、
山中も皆所々ゐたみつぶれ、人数あまた死ス、村々の数
不知、又こくう山と申山崩レ、凡三拾間も有村二、三ヶ
村行方をしらす、諸々其当りの村里の山崩候を略す、又
さゐ川の水上の山両方より崩、川下千片となり、さしも
の大川人足をのらさす往来す、凡廿四、五□の間也、前
代見未聞の事共也、其水川山中ハ水せきとめ候間実大海の
如く也、其より水やふれて小市むらと申をおし流し人多
く死す、川中嶋当り其外川端の村者五丁、七丁の間、水の
のぼらぬ所無家人皆押流し、木にのほるものも有、流るゝ
ものも有、詞ニ尽シかたく万一を記スのみ、水の出先大山
の如ニして咄もおよばぬ事也、後のものニ知らさん為千万
のあらましをしるすのミ、実ニおそろしき共いわん方な

竹を柱となし、戸を屋根として苦もる雫袖の露かハ
く間もなき小屋の内、又日々五度、七度ツゝ大地震
ニ而人の夢覚る事大方ならす、如此事ハ五十日余也
つかの間や はかなき夢を夏の月
織すして着 耕すして喰 花の陰 一茶
はちあたらぬも ふしぎなり
此句ハ有寺の兄坊主ニいけんの句也
男なら 一夜寝て見ん 春の山 京とめ
鳴にさへ 笑ハヽいかに ほとときす 松坂その
大てきをおそれす、小てきといふともあなとらす
午の耳 うこかす 蠅の力かな 一茶
150 弘化地震の被害者拝借金年賦返済の留書 嘉(一八四八)永元年
(堅帳・無表紙)

一、金百四拾四両壱分弐朱
但、潰家三百八拾五軒壱軒ニ付金壱分弐朱ツ
一、同三百七拾三両三分
但、半潰家千四百九拾五軒壱軒ニ付壱分ツ
〆金五百拾八両弐朱也
右者去未三月地震之節、潰家・半潰家ニ相成候者共ニ為御
手宛此度書面之通拝借金被 仰付候、返納之義者当申年
ゟ拾ヶ年賦上納可申候
右之趣面々令承知、組々へ可申渡候、以上
申四月

一、金七百拾七両壱分ト銀六匁弐分八厘
右者去未三月中度々之地震ニ付、御領中へ為御手宛書面之
金拾ヶ年賦返納ニ而、去十二月中拝借被 仰付候処、割賦
方間違ニ付当申年ゟ弐ヶ年之内相納候様是又組々へ可申
渡候、以上
申四月
拝借申金子之事
一、金百四拾四両壱分弐朱
但、潰家三百八拾五軒壱軒ニ付金壱分弐朱ツ
一、同三百七拾三両三分
但、半潰家千四百九拾五軒壱軒ニ付金壱分ツ
〆金五百拾八両弐朱也

金五拾壱両三分弐朱也 申暮返上納
同五拾壱両三分弐朱也 酉暮返上納
同五拾壱両三分弐朱也 戌暮返上納
同五拾壱両三分弐朱也 亥暮返上納
同五拾壱両三分弐朱也 子暮返上納
同五拾壱両三分也 丑暮返上納
同五拾壱両三分也 寅暮返上納
同五拾壱両三分也 卯暮返上納
同五拾壱両三分也 辰暮返上納
同五拾壱両三分也 巳暮返上納

右者去未三月地震之節、潰家・半潰家ニ相成候者共へ為御
手宛此度書面之通拾ヶ年賦拝借被 仰付、一統難有仕合
ニ奉存候、然ル上者右年賦之通当申ゟ巳暮迄拾ヶ年之間其
年々暮中急度返上納可仕候、依之拝借証文差上申処、仍
如件
嘉永元申 八木 福永 内山 金子
関根 平石 湯本 横山
籠鳩 岡村 白川 植木
笠原 青木 田村 田中
加藤 岡田 水谷 森本
拝借申金銭之事
一、金七百拾七両壱分ト銀六匁弐分八厘
内此銭五百六拾文 同〆但、壱匁八拾六文
三百五拾八両三分 申暮返上納
三百五拾八両弐分 酉暮返上納
此銭五百六拾文 同断
右者去未三月中度々之地震ニ付、御領中へ為御手宛弐ヶ年
賦拝借被 仰付難有仕合ニ奉存候、然ル上者右年賦之通当
申ゟ来酉暮迄弐ヶ年之間、其年々暮中急度返上納可仕候、
依之拝借証文差上申処、仍如件
嘉永元申年
(上越市立高田図書館所蔵「森本家文書」)
151 弘化地震に救米銭差出者の取調べにつき返答書
嘉(一八四八)永元年四月
以書附奉申上候
去未三月地震之節、御領分村々ニ而小前難渋之者共江救米
銭差出候者有之候ハヽ取調可申上旨
 今般 御尋ニ付、右之趣ヲ以組々村々之上篤与取調候
処、其節大小之百姓銘々居家并土蔵納屋等を始、村毎用
水・川々・堰所・溜堤等ニ至迄夫々大小破損、震気度毎取
繕方相嵩、一体難渋仕罷在、殊ニ秋暮迄不絶恐怖仕、一統
長々小屋住居故万端不住、心底ニ諸品之費夫喰も食込等
平年とハ格外ニ而、其上春中蒔付候種子籾苗代泥冠等ニ相
成再応蒔直し、殊ニ夏中不気候ニ而稲毛本芽薄ク別而者再三
俄蒔之種子苗之故ニも候哉、秋中鎌立時節ニ相成、村々思
之外大違作ニ罷成候、取劣内損夥敷勿論組々村々地主共
御年貢米金御皆済者彼是取繕、漸ク相遂候得共、小前之引
下り等不少年柄ニ而殊之外弱り果候ニ付、前書口々破損元
形ニ取繕之儀者、今年之上ニ而も中々以難行届向過半有之、
一統迷感至極難渋之趣ニ御座候仕合此度御尋ニ付、御領中
組々村々取調仕候処、三月両度之大地震之砌、別段救米
銭差出候もの一切無御座候、依之此段書附ヲ以奉申上候、
以上
嘉永元申年四月田中組大肝煎御領中組大肝煎
惣連印
(上越市立高田図書館所蔵「森本家文書」)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 480
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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