[未校訂]文化元年象潟大地震データー
この地震を次の(一)から(五)の観点で分析してみることと
する。
(一)発生時刻
地震被害の大小にかかわる要因の一つとして発生時刻
がいつなのかがある。周知のように一九二三年九月一日
の関東大震災は昼時であった。そのため、昼食のための
炊事用の火が大被害の因となった。象潟地震は「夜四ツ
時」とある。およそ午後十時ころである。その時刻から
して「此時町中大方寝ル頃ナリ」(『金浦年代記』以下断
わらぬ限り出典は同書による)とあるように、ほとんど
の人々は就寝中であった。そのため「傍ニアル子供ヲ出
スコトモナク、親ヲ誘引スルコト叶多ク(かなわず)ハ皆潰レタル家
ノ下ニアリ、出ル人ハ稀ナリ」となった。発生時刻の夜
が被害を大きくした。
(二)揺れ方
「大地、二三尺モタダ持上ル如ク思フ処ニ少時止ム、夫
レ地震ヨ出ヨト云フ間モナク又ヨリ来ル、大地震強キコ
ト前二百倍ニ増リ」とあるように突然直下型地震の典型
的揺れ方で二、三尺(六〇センチメートル~九〇センチメートル)の上下動が
きた。それが終了すると「未申の方より寄り来り、間も
なく寄りなをし海山共に一丈余も高くなり低くなり」と
あるように、南西方向から激しい揺れが押し寄せ約三メートル
余り揺れたようである。
(三)地形による被害の差
同一地域内でも、地形の微妙な相違が被害を大きくも
小さくもした。すなわち「大地震は金浦山根の地形はよ
ろし上町地高き処は痛み無し、片町新町沢目かげんの処
は恐しく候、物の痛み地形の大割目は見るも恐しく候、
上野山の根元家土蔵共によろし、山の上は猶々吉し」と
ある。地高き処、すなわち高台は地盤が強固であるため
家屋の被害はほとんどなかった。それに比較して沢目か
げんの処、すなわち低地部分は軟弱地盤であったため大
被害となった。
(四)大地の変[貌|ぼう]
「大地割れて大底より硫黄臭き砂水湧き上る事登る滝
の如し」とあるように、地割れと噴水があった。中でも
注目されるのが噴水である。これは日本海中部地震の際
各地に現われたいわゆる液状化現象と推定される。「浜の
田六七ケ処大地の底砂湧き上り埋り、岡の谷地谷地中六
ケ処砂埋り地高くなり丸谷地砂吹き上げ、頃田惣助田三
百苅砂吹き埋り、頃田七ケ処十二林堀切り夥しく、地高
き笹森大在神経塚山ノ田辺は石垣崩れ俄坂の門十郎田、
三郎平田砂吹き上げ大埋り」。
これら砂を吹き上げた耕地の字名六カ所(岡の谷地、
谷地中、丸谷地、頃田、惣助田、俄坂)のうち、惣助田
を除く五カ所は、一四〇年余り前の寛文三年(一六六三)
までの間に金浦農民と本荘藩との共同で実施された新田
開発による造成地である。この新田開発がどのような方
法かは史料的に検証できないが、谷地部分の多いことか
らほかから土砂を運び、埋め立てた方式が採用された可
能性が高い。
このことは「被害はすべて埋め立て地や造成地などの
人工地盤に発生している。特に均等化された海砂での埋
め立て地や地下水位の高い所、排水不良の場所などで起
こりやすい」と加納博秋田大学名誉教授が一九八四年(昭
和五九)一月十六日、日本海中部地震に関する公開シン
ポジュウムの中で報告していることと見事に一致する。
この地震で県民にかなり深く知識として焼き付いた液
状化現象は、実はそれより一七九年前の象潟地震におい
て既に先人は体験し、それを記録として残していたので
ある。
次に大地の変化として注目されるものに隆起現象があ
る。「塩越辺と象潟は姿形も無く皆ならし潰れ一丈も地
は高くなり、金浦も一丈余りも高くなり澗形北国第一の
名所も澗形もなく潰れ申候」。この記事から現在の象潟町
から金浦町にかけて地盤が一丈(約三メートル)余り隆起し、
古代から数多くの文人墨客が遊んだ天下の景勝地象潟も
一瞬にして陸地と化したことが分かる。実際の隆起がど
の程度かについて古来地質学の立場から研究されてき
た。その結果、三メートルの数値はオーバーで、推定隆起量は
象潟付近で最大一八〇センチメートル、北部の金浦で一三〇、仁賀
保町芹田で九〇以下、南部の川袋で一二五、小砂川で一
一〇センチメートル余りと考えられている(『第四紀研究』第一八巻
第一号、象潟地震に伴う地震変形、平野信一、中田高、
今泉俊文)。
(五)余震について
六月四日の本震以後もかなり大きな余震のあったこと
が記録から分かる。『金浦年代記』と『仮題和右衛門万覚
帳』によると
六月六日 大地震なり
六月二十六日 大雨大雷リ大地震、大地震強ク家々鳴
リ動キテ……
七月六日 地震強ク
七月八日 朝も地震強、所々にて仮り家つぶれる
七月十二日 余程つよくよる。それより少々の地震数
を知らず
とある。余震は「其後ニモ地震絶エズ、翌丑ノ正月頃ニ
相止ミケリ」とあるように一月まで約七カ月続いたよう
である。
さて、次に示す史料は仁賀保町勤労青少年ホーム所蔵
の仁賀保家文書の中にある史料(後述する)で、同年十
月二十六日付の余震被害を幕府に報告するための草案で
ある。貴重な史料なのでその冒頭部分を示し、おもな被
害を表35にしてみた。
先達而御届申上候私領分出羽国由利郡之内当六月四日
之夜より同七日迄地震甚敷本庄城下家中在町共破損所御
届申上候以後同月廿七日より七月七日迄度々地震強城中
并家中在町共破損所左之通
この史料から本震後の余震でさえ家屋を全壊させ死者
を出すほどの強いものであったことがわかる。
表35 本荘藩の余震被害
○侍家 大破 40軒
○町家潰 12軒
○寺 〃 1カ寺
○〃大破 116軒
○足軽家 〃 25軒
○落橋11カ所
○民家 潰119軒
○橋破損12カ所
○〃 半潰133軒
○〃 大破320軒
○高 1310石9斗7升2合砂吹出し亡所
○〃 1890石5斗5合 堰台崩山崩で亡所
○死亡人 2人
○死馬 19疋
被害状況
これまで地震そのものの様子について五点に分けて分
析してきたが、ここでは本震(M七・一)によりどのよ
うな被害が生じたかを、人、家屋、耕地、動植物の以上
四点についてみてみよう。
(一)人および家屋などの被害
象潟地震の被害は次の二つの理由で不十分なところが
あった。第一は被害地域が領域的に錯綜したところにあ
るため、領主ごと的確に数値をとらえることができない
でいた点である。このことは由利諸藩への研究史の浅さ
によるものであった。そのため、『秋田県史』の年表編に
おいて被害数(前述したが、被害二、〇〇〇戸 死者一
八三名)の出典を隣県の『山形県史』に求めていること
で明らかである。
第二は、第一とも関連するが、秋田県側の被害だけを
追い求めるだけではなく、この地震が隣接する山形県の
庄内地方に与えたそれについても調査し、トータルなも
のとしてこの地震の被害(『理科年表』では、死者三三三
名、壊家五、五〇〇余とあるが、この数字の根拠となる
史料的出典が明らかでない)を確認する作業が両県にお
いて実施されていないことである。
以上示して来た史料的欠点を見事に補完しうる一級史
料が仁賀保町にある『仁賀保家文書』の中で最近になっ
て確認されたので同史料を利用して被害の全容を見てみ
よう。
史料名は「文化元甲子年六月四日出羽国由利郡大地震
ニ付知行所御届書案他領之分御届書写 都合九通」(『象
潟町史』資料編Ⅱ八四六ページから八五四ページに全文あり)と
ある。九通の内訳は、本荘藩(二万石、藩主六郷佐渡守
[政速|まさちか])、仁賀保二千石家(仁賀保孫九郎)、仁賀保千石家
(仁賀保土佐五郎)、生駒宗家(生駒大内蔵親章)、生駒
伊勢居地二千石家(生駒権之助)、庄内藩(十四万石酒井
左衛門尉)の六領主が幕府に被害を報告するために作成
した「御届書」の写六通と前述した本荘藩領の余震被害
報告、それに地震直後に仁賀保二千石家領の[田抓|たづかみ]村百姓
が江戸表へ飛脚便で送った由利、庄内一円の被害状況の
風聞書一通、さらに余震被害を気にかけた仁賀保二千石
家が佐竹家に情報を尋ねた書状の断簡一通の合計九通が
一包になったものである。
以上の中から各領の被害を報告した六通の史料を中心
として領主ごと、被害項目別にしたものが表36である。
なお、表36には前述した史料で欠落している地域―すな
わち、幕府一〇カ村(小滝、長岡、関、中野沢、大須郷、
川袋、大砂川、小砂川、本郷、大飯郷)―のうち小滝、
長岡、関の三カ村については地域の史料から判明できた
分を加えている。
本町関係の被害を次に示すこととする。
○塩越町(本荘藩領)
死者 六九人 潰家 三八九
(表37による)
○関村(幕府領)
死者 八人 潰家 四四
(『象潟町史』資料編Ⅱ八六〇ページ「関村の被害報告」
による)
後年の村絵図で潰家の状況を示すと図17のようにな
る。
○小滝(幕府領)
表36 文化元年象潟地震の被害
侍家潰れ
〃大破
民家潰れ
〃大破
町屋潰れ
〃大破
寺潰れ
〃大破
社家潰れ
〃大破
土蔵潰れ
〃大破
潰れ合計
大破合計
ケガ人
死亡者
ケガ馬
死馬
本荘藩領
33
7
1,770
313
140
74
9
19
4
2
162
9
2,118
424
143
161
5
76
生駒宗家領
36
1
2
75
38
76
4
生駒伊勢居地家領
136
多数
136
多数
多数
12
27
仁賀保二千石家領
6
178
(2軒焼失)
3
5
1
多数
193+
多数
多数
11
4
仁買保千石家領
2
42
2
46
26
4
2
庄内藩領
30
141
2,826
413
424
27
16
25
3
182
392
3,503
976
150
142
幕府領
(3か村}
151
65
151
65
28
52
合計
219軒
5,517軒以上
1,051軒
82寺
37社
820軒以上
7,726軒以上
169人以上
366人
5疋
307疋
死者 二人 潰家 三四
(『象潟町史』資料編Ⅱ八五七ページ「小滝村家別被害
報告」より)
文政二年の村絵図から被害状況を示すと図18のように
五軒所在不明
図17関村絵図より見た全・半壊の分布状況
大小百姓居屋敷帳より 嘉永4年3月
なる。
○長岡村(幕府領)
死者 十八人 潰家 六六
(『象潟町史』資料編Ⅱ八六六ページ「横岡村の記録」
より)
今後、ほかの七カ村関係の記録が確認されれば被害数
は増加することになる。
本荘藩の数値は潰家二、一一八戸、死者一六一人と報
告されているが、地元に残る「文化元年六月四日亥中刻
地震届書写」(『象潟町史』資料編Ⅱ八五四ページ「本荘藩の
被害届」)によると各郷ごとの数値は表37のようになる。
また、その中から死者数を各郷ごとに示したものが図
19である。表37によると本荘藩の死者数は一六八人とな
る。そのうち四人は旅人であるため、領民の死者数は一
六四人となり前術した表36にある幕府への報告数―一六
一人―にかなり近い数値となる。表36から秋田・山形
両地域での被害は全半壊家屋
七、七二六軒余、死者三六六人
となり、これまでの数値―壊家
五、五〇〇余、死者三三三人(『理
科年表』)―より大きな被害で
あったことが分かる。なお、本
荘藩領の死者数を表37にある一
六八とし、その他を表36の数値
とすると死者総数は三七三人と
なる。
また、秋田県側の被害も二二
三人となり『秋田県史』年表編
にある一八三人も当然修正され
なければならない。上郷地区の
長岡村の場合、「人拾八人死ス」
図18小滝村絵図から見た全・半壊の分布状況
表37本荘藩各郷の被害内訳
A
B
C
D
E
F
G
H
Ⅰ
J
K
L
M
N
O
P
Q
R
城下
子吉郷
潟保郷
西目郷
石沢郷
琴浦郷
又右エ門久五郎扱
小友郷
打越郷
滝沢郷
出戸分
前川村
伊勢居地村釜ケ台村
冬師村塩越
西小出郷
大竹村
金浦郷
塩越の寺
社家合計
潰家
162
70
60
45
3
43
31
6
1
26
4
27
3
389
56
65
361
6
1,358
半潰
81
41
35
24
8
9
7
33
29
31
96
2
396
死者―
5
3
4
5
5
1
8
69
12
15
36
5
168
ケガ人
2
6
4
32
3
35
59
141
死馬
7
1
3
4
1
1
4
15
13
19
68
「七拾軒之村方」
「皆々潰れ候」とあ
る(『象潟町史』資料
編Ⅱ八六六ページ上
段)。家族被害は一〇
〇%でまさに壊滅的
被害であった。当時
の人口を地震の年に
最も近い天明二年
(一七八二)の「宗旨
人別御改帳」(資料館
寄託文書)にある三
〇四人と一応見なす
と、人的被害率は
五・九%となり、か
なりの高率であるこ
とが認められる。前
述した(六)の㋥にある
金浦村の場合、潰家
一〇〇と半壊八六で
合計一八六軒が全半
壊となる。文化元年
三月時の金浦は一九
○軒余りであった(『金浦年代記』文化元年三月の村家数
より)から無事であったのはわずか四軒のみ、被害率九八
%であった。地震に最も近い塩越を基点として金浦、三
森、玉ノ池、舟岡、埋田の五カ村の家屋への被害率を示
すと表38のようになる。
当然のように、震源地から離れるに従って被害が少な
くなっている。それでも二〇キロメートル余り離れても六%前後
とかなり高い率を示しており、地震の大きさが良く示さ
れている。しかし、「矢島ハ痛ミナシ、本庄辺ハ小屋百軒
[計|ばか]リト云々、亦亀田、石ノ脇辺ヨリ下筋ハ地震ハ強ケレ
ドモ土蔵ナド痛ミ潰レナシ」(『金浦年代記』)とあるよう
に、子吉川北岸に位置する亀田藩領および内陸部の矢島
領ではほとんど被害がなかったようである。
図19 文化元年地震の各領域ごとの
死亡者数(373人)
結局、被害の範囲は「総テ此度ノ大変ハ庄内川北郷ヨ
リ本荘迄ノ大痛ミナリ」とあるように庄内の川北地域か
ら由利本荘までの海岸部であったことが分かる。
(二)耕地への被害
家屋および人的被害と同様大きな被害となったのが当
時の人々の生活の基盤である田地への被害であった。こ
れらの被害はおよそ次の三つの型に分けられる。
その一つは、前述した(四)の大地の変貌のところで示し
たように、谷地、新開
地域を中心に各所で液
状化現象が見られたこ
とである。その結果、
「田地の破損夥しく砂
湧出して山の如し」と
なった。第二には、こ
れまで丹精を込めて作
り上げて来た田地が
「出水捕り水筋止ミ」
とあるように、湧水や
谷筋からの出水が停止
し「七八年も過ぎ又は
二〇年も過ぎ漸々田地
に成るもの、能々永代
荒地に相成候処も有之候」とあるように、水不足となり
耕地として維持不可能になったところも出てきた。
第三には、堤破壊による田地の被害である。由利海岸
部には沢水を利用した堤が各所に多数ある。これらの堤
の土手が崩れることが多かった。たとえば「浮嶋潟破レ
其別の堤の土手破レ何村モ皆ドロ水一円恐シキコトドモ
ニ候」とあるように、金浦付近では堤破損となり大量の
堤水が流出し、付近一帯の田地に壊滅的な被害を与えた
ことが分かる。このことは長岡村の『斉藤道郎家文書』
に詳しく示されている。長岡村の場合「浮嶋潟水まかり
大水村に押入つふれ家の家中迄上ケル、此水白水の如」
「露池もるゝ、えひ潟少水有くろはね池もる、此流の田
地荒ニ候小タキ七千苅長岡四五百苅大竹二三千苅西小出
四五千苅荒ル」。以上のように広い範囲で荒したことが分
かる。そのため「必づみ(水のことか)掛り之田地持へ
からす」として、このような水掛りの耕地を子孫は持つ
なとしてその流路にあたる字名を示している。
(三)動植物界への影響
これまで人間生活に直接かかわりのある方面の被害を
示してきたが、ここでは自然界への影響を考えてみたい。
大地のかすかな変化でさえも人間より早く感じとるこ
とができ、その予知能力が高く評価されている小動物は
この時どのような行動をとったであろうか。「狐、狸、狼
表38震源地からの距離と家屋の被害の関係
金浦村(現金浦町金浦)
三森村(現仁賀保町三森)
玉池村(現本荘市玉の池)
舟岡村(現本荘市船岡)
埋田村(現本荘市埋田)
塩越からの直線距離
5.5㎞
9.5㎞
20㎞
18㎞
20㎞
全半壊家屋
184軒
33軒
2軒
4軒
9軒
全家屋数(時期)
190軒(文化元年)
122軒(明治6年)
35軒(明治9年)
64軒(〃)
34軒(〃)
被害率
98%
27%
5.7%
6.3%
26.5%
の類皆穴潰れ夥しく子と共に死絶え申候」とあるように
彼らの予知能力は発揮できなかったようである。
それほどに地震は突然になんの前ぶれもなく発生した
ことを物語っている。
また、象潟の貝類は付近が一・八メートル隆起し陸化したこ
とによりすべて死滅してしまった。陸化した部分は後述
するが、文化六年から藩による開田工事が進められ耕地
と生まれかわることになった。
現在、これらの耕地の下(すなわち旧湖底部分)には
潟に棲んでいた貝の遺骸(貝殻)がたくさん埋れている。
渡部[晟|あきら](元秋田県立博物館学芸主事)がこの分野の研
究者であるが、氏によると二〇種以上の貝が地表から約
一メートル~五メートルまでの間に分布しているとしている。その中
でも量の多い種は、巻き貝ではカワアイガイとイボウミ
ニナ、二枚貝ではマガキ、オキシジミガイなどである。
その中にはカワアイガイ、ウネナシトマヤガイ、オキシ
ジミガイ、サビシラトリガイのように現在の秋田に生息
していないものも含まれている。
以上見てきたように、被害地域内の獣類や貝類に壊滅
的打撃を与えたことが分かったが、植物分野への影響は
あまり詳しくない。ただ、次の記録のみである。「大地震
の後、草木[以|もって]の外[能|よ]く生長也」(文化四年、『金浦年代
記』)。地震後には草木は以前より成長がよいとの報告で
ある。注目すべき現象である。
災害の復興
災害の後仕末の多忙さが人々の沈んだ心を活動的にし
た。「其翌日横死ノ人々ヲ葬ルニ有合、持合ノ桶ヤ箱ニ入
リ草鞋ガケニテ焼香シ墓所エ葬リ」、「当村ニ限ラズ海辺
ハ云フニ及バズ皆々津浪ノ来ルベシト云ヒテハ山上ノ高
キニ仮リ小屋カケ居リシ也」とあるように、まず犠牲者
を持ち合わせの道具で埋葬した。
浄専寺の場合、六月四日付けの過去帳人数は九名であ
った。埋葬が終わると再度の津波を恐れ、高台に仮の小
屋が作られた。本格的な家の再建は翌文化二年までかか
ったようである。すなわち「大地震の後子の秋丑の秋迄
は毎日の家建小屋土蔵古家片がかり出し普請の手伝え相
互に昼夜普請の沙汰」とある。
水岡村の場合で見ると、十月二十一日に新築されたの
が最も早い例で同年中に合計四軒が再建されている。そ
の時の「大工作料」は一日一五〇文であった。その後文
化四年一軒、同六年二軒となっており、各家の被害の大
小により再建の期間にも最大で五年の幅のあったことが
分かる(『象潟町史』資料編Ⅱ八六二ページ「(6)水岡村の記録」
より)。死者の埋葬、仮小屋の建築とともに素早く実施さ
れたのが倒伏した稲への対策であった。
「此辺も二番草取かゝる時節にて有しか稲ゆすり込ま
れ苗代之如くなり候処、翌五日早朝か稲起し候へは一日
も早く起候稲は生立も格別、秋之実入りも相応ニ相見候」
(子吉郷の場合)とあるように、翌日からの稲起こしに
よりかなりの稲が生き返った。
しかし、被害の大きい塩越、金浦周辺では稲への対策
がいく分遅れたようで、「夢の醒めたる如く六月十日より
毎日田の青稲を泥の中に寝てあるを起し漸々かなり半作
に刈取り申候」。被害より六日後の六月十日から稲への対
策を行った田では例年の半作であった。
また、長岡村の場合は「翌日より居小屋ヲ掛稲をおこ
し一日も早クおこし候者ハ吉、千苅者五百束」とあるよ
うに、一日でも早く稲への対策をとった者は半作までに
回復することができたことが分かる。
藩の災害復興策
人々の対策が素早いのに対して領主側の動きはあまり
にも遅すぎた。それは居城以下の各施設の破壊への対応
が先決していたためとは考えられるが、「其後十日計リニ
シテ領主ヨリ潰家見分、御代官作左部太吉殿下リ」とあ
るように一〇日前後であった。塩越町にとった藩の対策
は次のようなものであった。
㋑一七六俵余 一人一日、玄米三合の一〇日分×一九
四〇人分
㋺四九八俵 潰家一軒に一俵あての貸付
㋩ 八五俵 堤防破損の工事への手当
㋥ 七〇俵 潰家への貸付
以上合計で 八二九俵
この塩越町に行われた基準で㋑と㋺について本荘藩全
領への非常用の扶養米総量を計算すると、およそ次のよ
うになる。
㋑の部分
潰家 二、一一八軒×平均家族数五人=一〇、五九
〇人
一〇、五九〇人×〇・〇〇三×一〇日=三一七・七
石=九六三俵
㋺の部分
潰家合計 二、一一八軒×一俵=二、一一八俵
総量(㋑+㋺)は
三、〇八一俵=一、〇一七石余となる。
ここで試算された一、〇一七石余は災害復興の非常米
としては最低量である。藩にとってこの一、〇一七石余
の臨時出費は、当時の藩財政の中でどの程度の負担にな
ったのだろうか。文化元年に最も近い時期で考えると、
文化十四年当時(一八一七)、藩の年貢米収入がおよそ五
万俵(『本荘市史』史料編Ⅲ史料89)であった。一俵が三
斗三升入れであったからそれは一万六五〇〇石余とな
る。結局、非常米一、〇一七石は藩財政のおよそ一五%
余りに相当し、かなり大きな出費であった(蔵分の割合
等については「本荘藩家臣団構成」半田和彦『秋田地方
史論集』(みしま書房)の表9参照)。
また、藩は幕府から災害復興費として二、〇〇〇両の
臨時貸付を受けている(資料編Ⅱ、八四六ページ幕府の記録
参照)。甚大な被害を受けた上に大きな臨時出費を余儀な
くされた藩は天下の名勝地〝象潟〟の開田を企てた。陸
化する以前は領内最大の観光地であった。そのため塩越
町奉行を通して、その景観保持のため細心の注意を公の
立場から払ってきた。ところが、陸化したことで観光地
としての生命が失われたと判断した藩は、これまでの路
線を変更し文化六年に開田化へと踏みきったのである。
この開田にかかわる部分については後述するとして、
幕府から山本三尾之助と宮本安之進の両名が被害視察の
ため派遣され本荘城に来ている。これらの見分を通して
幕領に施された対策は次の二点であった。
①長岡村に五〇両を復興費として貸付。返済は三カ年
据え置の後、一〇年年賦
②幕領一〇カ村への倹約令を発令
長岡村に貸し付けられた五〇両は成行良好な一〇軒と
水呑一六軒を除く四七軒へ分配された。分配基準は持高
によるものではなく、個人の希望の金額であった。
倹約令は全文一二条からなるもので、同年十一月付の
ものである。各条の内容を要約すると次のようである。
一、地震で被害があった上に凶作となったから「小前
百姓」の朝夕の生活の仕方について「[奢ケ間敷|おごりがましき]」ことの
ないように村役人が取り扱うこと
一、戸主は当然として若勢や子供に至るまで傘や合羽、
塗下駄などの派手な品物を使用しないこと
一、冠婚葬祭など「分限」より軽くすること。多数集
まり酒を飲むことは禁止。料理は一汁三菜のこと。葬礼
の際の肴[者|は]三種のこと。
一、若勢らが大勢集まり鳴物で遊興することは禁止。
一、衣類については以前より注意してきたが近年派手
になっているので「百姓不似合風俗之者」は罰金を取る。
一、若勢たちの「連判休」は禁止する。
一、百姓たちが「最寄〳〵江宿を取」酒食を行なうこ
とを禁止する。
一、徒党を組んで要求することは禁止
一、地震で困窮して離村する者が多いが、村役人の許
可を受けた後に離村のこと。無断離村については本人と
村役人の双方を処罰する。
一、地震で破損した用水路については自分のものも他
人のものも区別しないで修繕すること。
一、今年の年貢米を金納とし、年貢米は村の中で三斗
二升入れの俵で保管のこと。昼夜番人をつけ火災と盗難
に注意のこと。
一、すべての通達は戸主には徹底するようであるが子
供や下女に至るまで言い聞かせること
以上のことを「村々大小百姓水呑迄寄合一村一夜宛留
置」きすべての者に「読聞」せることと注意書きされて
いる。
文化元年の年貢納入状況
前に述べたようにこの年の収穫は各地域で程度の差こ
そあれ例年の半作余りであった。それでも定められたか
のように秋になると年貢納入の時期となった。幕府の側
でも稀に見る程の大惨害であったから例年通りの年貢量
とは考えていなかった。『象潟町史』資料編Ⅰ近世史料131
にある小砂川村の「文化元年年貢割付」によると、この
年は[定免|じょうめん](五か年の平均生産量から算出した年貢率で豊
凶にかかわらず定められた年貢率で年貢を納入する制
度)を停止し(=このことを当時「[破免|はめん]」と言っていた)
検見法が採用された。破免はある一定の減収になると定
免の法則をはずし実地に検見を実施し、その年の実生産
に見合う形で年貢率が決定されるもので一般的に年貢率
は低下する。
十一月に代官所から示された内容は、たとえば上田八
畝二一歩の場合、五斗六升はこの年の検見による減と見
なし取米を四斗三升七合とするとある。
このことから検見が採用されなければ本来九斗九升七
合の年貢をこの上田から徴収することができたはずであ
った。すなわち、検見率(減免率)は五六%に相当する。
このような形式で本田畑、新田畑ごとにその減免率をグ
ラフで示すと表39のようになる。
翌文化二年七月に村に渡された「年貢米永皆済目録」
(『象潟町史』資料編Ⅰ近世、史料132参照)によると、村
が納入したものは
米年貢 三四石三三三四
永 三貫六五六文二分
とある。この永を時の米価で斗替すると最終的には
合計 三九石六七一四となる。
以上から文化元年の年貢納入高合計の三九石六七一四
に検見減少分の三二石二二〇六(近世131参照)を加える
と七一石八九二〇となる。
このことから最終的に小砂川村は文化元年の地震被害
により本来であれば七三石余を納入するはずのものを三
九石余の納入とされた。その減免率は五五・二%となる。
被害を受けた地域の中で文化元・二年の両年の割付と
皆済目録が都合良くセットで揃っている地域が今のとこ
ろ小砂川のみである。そのため、この数値がどの程度普
遍性を持つか疑問なところがあるが、一応当時の減免措
置を物語る事実として注目したい。
用水路の補修
小滝村では八五軒中五一軒が潰家となった(『斉藤忠兵
衛家文書』、「出羽国由利郡小滝村用水堰地震地沈普請出
来形帳」)と記録にある。泥をかぶったり泥に埋まった田
を一枚一枚起こして手入れをした。村の用水は、鳥越川
からの堰を利用してきたが、費用はこれまで自普請(村
負担のこと)であった。ところが今回の地震で堰が埋ま
ったり「堰筋下地沈」のように地盤が沈下したところも
あり、枝堰や高地への用水が止まり難渋していた。
これまで村では、独力で家ごとに人足を出す「家掛人
足」の方法で一、四六〇人を仮小屋に住む住民から出さ
せて工事をしてきたが、高地への用水ができないままで
あった。
調べてみると「石浜」付近で地面が九尺ほど沈下して
いたためであった。この沈下を直し元の状態にするより
は新しく堰を作る方が早く、手間もかからないと考えて
次のような工事計画を立てた。
文化二年五月、村代表の名主忠兵衛、長百姓吉右衛門、
丈右衛門らは一三カ所の工事で新堰工事に六四八間で人
足六六六人、新堰の土手を築く工事が五六八間で一三九
四・六人と杭一、二六三本が必要と試算した(表40参照)。
○さらに、長さ一丈、切口三寸の杭一、二六三本を切り
出すため一人一二本として……一〇五・二人
○かの木一六二本伐り出しに一人八本として……二〇・
二人
○杭打人足として一人一五本として……八四・二人
○志からみ拾人足一人五坪として……六二・八人
これら合計で 二七二・四人が必要とされ
総人足数は二、三三三・三人分と考えていた。これらの
者に賃米を一人一日一升七合とすると三九石六斗六升六
合一勺かかる。そのため手当として一五石を支給してほ
しいと考えていた。
以上から、家財を失い仮住まいの中でも生命の源であ
表39 文化元年 小砂川村の検見率
表40 小滝村地震復興の動き、用水堰普請の内容13か所
1.新堰堀通
2.〃
3.〃
4.〃
5.〃
6.元堰埋堀通
7.〃
(小計)
8.惣土手築立
9.〃
10.両土手築立
11.〃
12.〃
13.〃
(小計)
長さ
(間)
120
43
20
13
20
82
350
648
104
64
40
60
140
160
568
備考
幅4尺、深さ3尺
〃
〃
〃
〃
〃
〃
敷6尺、馬踏6尺、高さ4尺
1間に5本打杭
敷6尺、馬踏3尺、高さ3尺
5寸
1間に5本打杭
〃
〃
坪数
40
14.3
6.7
21.6
39.9
27.3
116.7
266.7
52
48
17.5
76.3
59.8
145
398.6
1坪当りの
人足数(人)
2.5
2.5
2.5
2.5
2.5
2.5
2.5
3.5
3.5
3.5
35
35
35
人足合計
(人)
100
35
16.7
54
99.7
68.2
291.7
666
182
168
61.2
266.9
209.3
507.5
1,394.9
打杭数
(本)
0
258
242
442
321
1,263
る耕地を必死になって維持するため、わずかの援助と村
人の多大の負担を自ら課しながら力強く復興工事に取り
組もうとしたことが分かる。
地震からの教訓と前兆(予知)
「納戸之内ニハまさかり、のこぎり、火道具用立有もの
ハ是ニテつふれ家の人家切屋ふりて救申候必金物火道具
提灯よく〳〵心得たへすべからす」と長岡村の記録にあ
る。これによると倒壊した家の中から人々を素早く救い
出すことができので、まさかり、のこぎり等を必ず用意
しておくことを子孫に書き残している。
また、同史料は地震の前兆として次の二点の現象をあ
げている。
(一)鳥海山が噴火したらその後必ず地震があると思え
(二)出水や流水が少しぬるみだしたり、または「金毛く
さぐ」なったら必ず四、五日後に地震がある。
現在、各地で地下水の微小な変化から地震の前兆を見
い出そうとする人々が多数いるが、この地下水の変化に
よる予知はかなり古くから行なわれていたことが分か
る。