[未校訂]島原大変と辰年の大水
寛政四年(一七九二)正月一八、九日ご
ろから島原雲仙岳の噴火が始まった。三
月一日熊本では地震六〇回をかぞえ噴煙が見られた。四
月一日暮六つごろの大噴火で前山(眉山)が崩落し大津波
を引き起こし、対岸の玉名・飽田・宇土郡の海辺村々を襲
い大きな被害をもたらした。この津波で藩内の流失家屋
二二五〇軒、死者は五五二〇人をかぞえた(「度支年譜」永育文庫蔵)。
田畑の被害は二三三〇町余、損毛高は三六万九八〇〇石
余におよんだ。
玉名郡での死者は二二〇〇余人をかぞえた。このうち
荒尾手永一四七〇余人、坂下手永七二〇余人、小田手永
二〇余人であった(『飽田町誌』)。飽田郡五町手永(現熊
本市)での死者の多くは青壮年で、生存者の多くはいち
早く非難した老人・子供・病者であったという(「寛政四年
津波記録」
熊本県立図書館蔵)。
玉名郡での田畑の被害七〇〇町余のうち小田手永二九
○町余、荒尾手永二三〇町余、坂下手永一七〇町余であ
った。
災害の復旧にあたり寛政四年九月、幕府から同六年よ
り一〇カ年の年賦返済で金三万両を拝借した。藩内では
明俵三二万俵の拠出を命じるとともに生存者の離村を禁
じた。
翌五年藩主斉茲は供養塔の建立を命じた。現在岱明町
扇崎に「南無阿弥陀仏」と刻む[鬼除|おんのき]の千人塚と称される
供養塔はこのとき建立されたものである(『岱明町地方史』)。こ
のような供養塔は寛政五年から同七年にかけて各地に建
立された。