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項目 内容
ID J3000428
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔肥前温泉災記全〕島原市教育委員会松平文庫所蔵
本文
[未校訂]爰に九州肥前乃国高来郡島原領并肥前国天草辺江大津波
有り民家牛馬共に流失し其由来を尋るに時ハ寛政四年四
月朔日乃事なりしか嶋原城下ゟ三里西に当り九州一の高
山あり其名を普現山共又は衣掛山とも申てふけん大菩薩
をこんりうし奉り次に妙見山と号則妙見宮をあかめ奉り
し清山也次を国見山温泉だけ爰において四面大明神を
(こ、カ)□んし奉り其外諸神諸佛数多おわします寺有一乘院申之
城下より道のり五里あり右普現山乃山下に七面大明神の
社有り此山をば前山共申拾八丁之登りなり右此山々おゐ
て七ツ乃谷七ツの峰有り南は千葉山次ニ多尾山梅木扇平
笠山金倉山前に満山右の間を倉掛山と申也然ルに去ル亥
ノ秋より地震度々致し候而人々いかなる事にやと思ひし
に前代未聞の珍事有り時々山なり志んどうする事限りな
く其音雷乃如し民家是に驚き段々彼山にわけ登り見るに
何国(回、ノ誤りカ)ともなく山中志んとう致けるにふしきの思ひをなし
立帰るも有り又心無き勇民共あるひ□巳か志んセううと
く成るにまかセ幸の折からなれハけんふつに行へし迚弁
当酒抔取揃右ふけん山江登りて山のなり渡るをたのしミ
として終日酒にゑひて帰りにはうかれるなと声を上て手
ひやうし打てたわむれ帰る事おふかりき心有る人は是に
驚きいか成事や出来らんかと恐入者も数多也されハ山な
りやむ事なくして日々夜々に志んどうし日をいたつらに
送りて世をうかかふ人斗也時に翌年正月十八日にふけん
山の頭にねつ火を吹出しけれハ其音郡中にひヾき烟ハ八
方にひろかりける中々其時に至りてハあたりに寄付事あ
たわす人々あきれて居たりしか同廿日廿三日の此まてハ
小石又とろなとをふかし草木其中に埋事おひたゝし深き
事かぎりなし夫ゟ地震弥々つよく民家岩山田畑諸ともに
崩けれハ人々したをまきていかゝ成行事やらんと今日の
渡世もやめ只命をかぼふ斗也然るに城辺におゐてふしき
乃やうくわひ(妖怪)有夜半斗に更行て空物すごき折からに隣家
も物音志づまりて眠りを催しける所に大地ゟ五丈程空に
大船走り行音志きり也
皆人是に驚き出て見るに帆かけし船ニ双かしを揃へて走
り行船乃内ゟ人声ありてあやうし〳〵とよはわりながら
舟ハ行方志らず成りしとかや人々打寄り申けるハいか様
前夜乃やうくわひ者いとふしぎなる事ども也此比山なり
志んどうするのミならす地震大地ゆるがす事只ことにて
ハよもあらしと皆人おそれをなし至る所に又一夜程へた
てゝ重ねてやうくわひをなす事有り夜半斗比白狐来りい
わくやう心すへし大□と三度よはわり飛去ける是一偏に
神乃御つげならすや(?)然共驚く人者まれにして由(ママ)断をかま
へし人多かりけり
穴底(ママ)谷より火もへ出る事
附千木本(ママ)焼崩事
然るに二月中旬乃比ゟ又烟吹出ししだひにしつまらすし
て地震いよ〳〵やむ事なしされハ普現山の東表に大築山
船石とう両山乃間に穴そこ谷といへる所ゟ火を吹出しけ
れハすさましくして大石を吹上焼る事言語道断也音ハ天
地にひゝき次第〳〵にひろくなりうへを下へとやけわた
りける事限りなり(ママ)穴底谷の両脇ハ毛路木山とて穴底谷深
サ弐百間斗程やけ下り又焼登りし事ハ山之頭を通る也火
さき烟と成りて吹上れハ大石荒砂を落する事ざんしか間
もやむ事なし中々近辺にハ寄付事あたわす日々やけ登り
焼下る有様ハ御上ゟ御改有之に付一日に五拾間七拾間程
つゝやけ下る也其上山下へ仮やかう本ノママ相勤ける七日七夜乃
ごまの御きとう被仰付温泉山一乘院是を相勤む養役三月
下旬の比より少しそうどうしづまりけれ共烟たへすして
やけやむ事なし焼下りし道のり弐里拾八丁斗にてとゝま
りける此所千本木といへる所也百姓家六軒やけ落ける右
ニ付城下町々在々共に甚あやうく成けれハ御上にも御心
もとなく御用心有之御手船ハ申に不及郡中ゟ大小船三百
艘程召寄られ兼而御用意あられけると也然共差たる儀も
無之故に村舟ハ二月廿四日に御帰へしあつて御手船斗差
置れし也さりなから人々さたしけるハ只今ハ養役鳴もし
つまるといへとも由断ハなりかたき事成り迚町家在々も
其心得肝要明暮ひらきまち〳〵とそ聞へける
町家在々乃者共地震ニ付遠在へ引越帰る事
附大津波の事
去程に三月朔日ゟ五日八日別て地震きひしくして一日が
間に五拾度七拾度に及ひける普現山乃いたヾき吹わりて
火烟空に散乱する事墨雲のことにて大石を吹上け谷に落
る事大雨乃ことし則前山その外所々大にくずれあやうき
事限りなし是に依城下盡町家在々の者共大きに驚き我家
をあけてこと〳〵遠在へにけはしりける其後ハ地震そう
どうもしづまりおたやかになりしかは同く廿八日比まて
に本の家に立帰りけると也かゝる所に四月朔日暮六ツ比
まで前山大きにしんどうし大地震両度におよび大地もさ
けるかとすさまじ人々又是におそれ家よりかけ出るも有
り其まゝ内にセつ死(ママ)致す者もあり外へ出たる人内に入る
間もなく前山の方より思ひかけなく津波あふれ来りて民
家并牛馬諸共時の間に流失セにけり前山乃様子を見るに
千葉山二ツにわれて夫ゟ大祢川湯を吹出す是縣津波なり
あたゝか成事ハたぎる湯のことし城下南の白土町古町上
町氷頭堀町迚右之町々不残山の下へ埋み堀川ともなりて
前山者海中にくずれ入にけり去に依て海中江は嶋おび
たゝしく出来しとかや猶又南目筋ハ今村安徳村是も山乃
下に成にけり城下の内三会町と申所家数七拾軒残る也其
時の有様ハ波引も跡を見るにいへにしかれ材木の下にな
りはんし半生の者数百有りしが流行節ハ助給へといふ声
とねんぶつの声うんかのことく只一こへによハヽりて是
そ此世のいとまにてあわれはかなき次第也
罪人共死がいを寺屋敷江はこぶ事
附筑前国姪の浜賈人か事
明れハ同二日津波乃うち崩レたる様子段々と御見分ニ成
けるに御城ゟ三丁程うへにあがりしかども御城内におゐ
てハ何たる別儀もなかりし事不思議なりし事とも也尤大
手の御門のきわまてハ右の津波打寄しと也其時少々のが
れし者共足を早めて何とぞ城内に走入たき思ひて命限リ
にはセ付しか内ゟ門をとしけれハ入るへき様なくうろた
へさわぐ折からかのなミ先来リて此所にておふくの人波
におほれて死したる者数多有リ時に役人衆大きに驚き大
手の門外江欠付まついきたる者共を助け町家のさわりな
き所江御あつけ有て様々御かいほふ被仰付けると也然と
いへ共かの波にしハらくたゝよひけれハ十人が八人まで
は生たる者共少なし生残りたる者ハ縁類を御詮議ありて
御渡し被遊且又縁類なきものハ同郡北目筋村々へ諸役人
を被遣庄屋組合の者共へ急度右之趣被仰渡御割方の上に
て御ふち下し置れしと也懸三日(別、カ)ゟ三大手乃御門外乃死が
ひ御かた付被成へきよし御役人衆ヘ仰渡されける死人か
た付候儀は国中のゑたに仰付られしこと也猶又牢家ヘ入
置し罪人をも引出し懸御(別、カ)役所ヘ連参り公辺より仰渡され
として汝とも深きつみとがいよ〳〵かさなりセいばいも
おふ方ならざる取斗也といへとも此度之大辺に付多く乃
人民山下の土にうつミ相はてし間いか成大石大木の下に
て死たるとも汝共是を出勢してほり出し兼而役人共に申
付置し所有其所ハ寺屋敷とて右の所迠残らすはこび届な
は命を助国外へもはひくわひ(徘徊致さすへきとの御事也是以
正しく御上の御志ひに依也おふ方ならさる御恵みなれは
難有相心得とかくりようけん違致さぬ様件乃悪事をひる
がへし冝敷渡世に元付へし汝共が以後の為なるそと其時
の役人を仁心深き志ひのまつたき人ゆへに志ミ付様にい
けんセられハ罪人共此理にふくし誠に頭を大地に付涙を
ながし申けるハ有がたき仰也加様乃御けうくんにあづか
り奉る上からハ悪心をひるかへしいくへにも仰にしたか
ひ奉るへし先右之死がひ一刻も早くほり出しかの寺屋敷
へはこぶへしと□□ゟ罪人とも人乃おほれし所をハ命限
りにほり出し老若男女のへたて無く勢のつゞく限りかの
所へそはこびける穴ほりの者共は村人是に仰付けられけ
るされハ津波引取り段々ほり出しける折から家居手比の
そうぼくなど皆流失ける中に山のかたわらに大きなる大
木有り此大木流すして有けるが諸役人是に登りたる壱人
を見付いか成者ぞととらめけれハ其時人心地になりて漸
く木のもとにおり立私事ハ筑前国姪乃浜ゟ数年かたひら
抔[賣|アキナ]ひ此御城下へかよふ賈人にて候此度久敷滞溜仕り
右のわさわひをかんかへ一刻もはやく立帰らんと思ひ
段々其用意致居ける所に件乃大波おもひかけ無くあふれ
出波さきに光り有て物すさましく鳴渡り間近く打寄来る
に付はやく旅宿をかけ出見るに二丁ばかり向ふになミか
しら瀬枕をたゝきておそひ来る是に驚きにけ行けるがの
がれがたなくかの大木に手を掛て夢見る心地にて登り見
るにいつの間にかわ七八人も此木空に登り枝にしがみ付
て身をふるわして居たりしが時に大波ざん時か間にあふ
れ来り家人牛馬諸共其物を知らずうきつしづみつ流行木
空枝に登りし者ともいか成うろたへものにてやありけん
又ハ病者乃人も有之やらん流行有様を見て向に眼くらミ
木乃実の落ることはら〳〵とさかまく波におちかさなり
一首之歌もよま□にそ波々もま□て流るゝ有様哀れ成け
る事ともなり然し私儀は其ていを見なからもおほへすか
の木にしがみ付佛神乃めうかうをとなへ夢まぼろしの心
地にており立けしきもな只今まで登り居申とてうきよの
夢のさめたることく語りけれは諸役人是を聞いか様一た
ん命を助り又命を捨る事是も前生乃しゆく縁ならん其方
儀は此中に命助りし事共一偏に神の見捨給ハん所也迚殊
外いたわり別同国ゟ道路の遣ひ銀など被遣役人を附筑前
姪乃浜へ送り被遣しと也ふしきに命を捨てかへる事うと
んげにあいしとハ是成へし
其後大変乃様子を御改有之右穴へ埋し人数千六百人乃余
外に又池にしつみ海中になかれ出たる人多し又城下海辺
に三ツ乃嶋有御宮山申此山にハ東照大権現をあかめ奉る
次に松島とて弁に弁才天おわします久衛兵(ママ)三ツ嶋何れも
大木しけり其間〳〵ハ皆湊也此所も掛りし船三百石三拾
七八石位の船数をしらす流失お□船数人ともに行方
しらすからずひ(ずら、カ)つ波に打流しけるとかや本ゟ山々こと
〳〵流今ハ前山洗ひ出し石土山と成さらに湊なかりける
城下海に嶋数以上百五ツ有此外に今村安徳沖まて嶋数
おゝし国主御手船大小三十艘廻船魚舟に至る迠弐百五十
艘程行方しらす成にけり右島原の津波に肥前并肥後天草
迠海辺不残流れ失し人数は凡三万人余程死失しと也嶋原
城下町数拾九丁也家数三千弐百軒余也
一白土町一古町一上町一桜町一堀町一萬町
一新町一風呂屋町一三間家一有間町一中町一宮ノ町
一片町一魚町一石カキ町一元船町一浦田一船津
一白土残りし町本三会町此所斗別条なかりけり
寺社流失之軒数
一江本寺 一桜井寺 一護国寺 一光伝寺
一善法寺 一快光寺 一崇谷寺 一安養寺
一浄源寺 一和光院 一叶寺 一福寿院
一水元院 一大正院 一金蔵院 一社人加賀筑前右寺社山伏也
一神佛堂拾三軒之内九社者四勧(ママ)音堂也
同北目筋七ヶ村
一三会 一三ツ野沢 一東空(カ)閑 一大野 一湯江
一多比良 一土黒 一西江
南目筋八ヶ村
一安徳 一深江 一布津 一堂崎町 一村環
一田村 一有江 一北有江
一面(カ)目筋者南有馬村口ノ津村也
右海辺不残流失民家ともにはか無くなりしと也北目南目
西目家居はい屋迠千弐百軒北目へ七十弐軒也御城下村々
家数凡三千二百軒也死人数弐万三千弐百五人此内御家人
四拾五人同御船頭御家人弐百七拾六人也右大山崩に依御
家中へも御ふれ有之北目筋ハ引越へき段被仰渡けれハ同
五日まてに御家中北目へ引しりぞき依之国主も守山村庄
屋方へ御立のき有ける事おふ方ならさるそうどう言語道
断とそきこへける也
国主守山村江御引越之事
附諸国より御見廻之事
紅葉御殿と申セしハ山田村法性寺へ御移り有之若殿は守
山村庄屋宅へ御出有奥方ハ土黒村へ御引越ありおとな方
へ御立のき被成候也然ルに前日ゟ右之村々へ御ふれ有し
故其所の庄屋組合乃者其万事之公役内夫走番其外諸用之
者共村々に入込そうじ万端に至る迠とゝこうりなくきれ
いに取はからひ国主の御出を相待ける程なく御引越有之
御附之役人衆夫々に宿所案内致ける猶又山田村庄屋方へ
近国御大名并ニ御使者の宿なり三室村庄屋ハ所々御飛脚
之宿□なり角て城下ハ御門中御番人并諸役人三会村より
御交代御日勤有之候と也御会所ハ北御門之内酒井源五左
衛門御屋敷なり御城下町人在々江しりぞき其節佐賀御領
神代長浜と申所に佐賀ゟ仮屋を御かけ被成嶋原領乃者共
へ湯茶被下猶又佐賀領山宿本ノママ願参候ハヽ別儀なく宿仕候様
被仰渡其外荷物抔持来り候者は其宿所迠持届くれ候様に
日々人足抔大勢さし出し被置かた〴〵御厚き仰渡されな
り城下流失の節神代へ頼参候者数多有之其節一日におゐ
て白米五合に味噌薪まで下し置れしとなり右大変に付佐
賀ゟ白米百五十俵并味噌樽十丁其後又御米五百俵進られ
しと也尤水主共又被遣山田村にかゝりける然れとも御船
乃儀は御頭有ゆへ罷帰り候也其後筑前ゟ米七百俵油樽弐
拾丁送り給ふ且又肥後ゟ米八百俵らうそく千斤是を進上有大
村ゟ魚油拾丁蠟燭一長持附鯨千斤進上有唐津水嶋ゟ油拾
丁蠟燭五百斤進上有之也左之通国々ゟ御到来のよしあさ
□□さりし事共也いか様寛政四年四月の比近国に地震
度々ゆる事右肥前国の嶋原温泉かたけ兼而そこ焼渡りじ
ねんに手□へて山の頭にもへあかりし間ついに吹□(灰、カ)ふり
て右大火黒烟石砂空にさんらんしけるにより其ひゝきに
依て左の地震近國にあびき来るゆへなりとぞ聞へける
されハ右之そうとうおふ方ならさる事□して去ル子年に
当りし比同様の大変有左之秋八月廿三日廿五日に至り大
風砂石をとはし昼夜さんらんしける折から爰にふしきの
事有右廿三日の夜乃風さきに光りそひて吹渡りし事度々
ありしと也是別肥前国温泉の毒火あびき其時の風ミな温
泉之方ゟ吹来りし風なりと人々さたしける左有れハ其時
稲こと〳〵ミな一夜乃内にしらかれと成し事いか様かの
毒火のゆへ成りとて其節に伝る也右之風ちりをまき吹け
れハ何国にも東西南北乃へたてなく当りけれは国々御物
入つよく御損失おふくして荒地と成りし所数々也嶋原に
も凡壱万五千石程乃御損失也
右大♠乃跡にて狂歌相催ける
白土町池と成りしかは
かくなると夢にしら土かセきため
かねし宝もいけにむめ草
堀町流跡を諸人ほりかへしけるに
津波にて家もやしきも皆流れ
なみだのあとを人は堀町
万町此所こま物斗有りしニ付
世の中を思ひまわせハよろづまち
波のそこにて□□ものをうる
風呂屋敷に
人々は何のりようじかしらねとも
しほ風呂に入命捨ふろ
仰(カ)東寺山乃下になりしに
極楽の出見セは山の下と成り
かふとしらねはやうしんもなし
花王井寺
春ことに花見の寺はつちとなり
いつくに花乃さくらひの寺
水頭町此所ニばい女居けるに
なかれ行二度ハあとをミづかしら
□ふんそふやうしでのたび立
追歌
極楽乃道をいそげど夕暮の
かねはめいどの道引の(行、カ)てい
抑人間乃からたは正しく此世のいきたへぬれハ其身ハ土
中に埋といへと魂ちらう本ノママに畄リ生有者ハ其あたをむくう
とかやすてに大変乃後死がひを所々にうづミしか其中に
も上下のかうおつ有リ殊更かふなんのくるしミ深く相果
しゆへにもうしう限りなくして夜な〳〵あたりの人を追
掛なやますゆへあるひハにげあるひハセつ死し相煩ふ者
おふしとかや其後はやり風となりおふく人民をくるしめ
言語道断にはつ(カ)かふす者に依て公辺ゟ右之御とむらひな
し被下候間やうやくれいこんしつまり今ハおたやかに成
りしと也しかし今に至りてかの山にハ烟折々たへすと皆
人も申伝るかよふにもうしう出る事国々に数多有るとい
へとも是にほこりていとひなき時はほむういよ〳〵いか
りをまし様々乃悪鬼ごうひやうと成りて世上にさまたけ
をなす事おふしかるかゆへに心有人は少しの香花をたむ
け皆打寄て寺も頼み御経乃声を聞しめ又はせがき抔をし
てもうしうの悪念はうしあとをねんごろにとむらひ乃心
ざしあらはいかてかもうしうのたゝり有へきや他人の身
として左様成とむらひ有まじけれとも左にあらすいろ
〳〵のれいこんはとむらひにあふ事少くちううをうろた
へさまよひ六道四しうにもいたる事あたらす只まよいが
ちにしてうろ〳〵野路をはしりあるく者ゆへ風となり病
とへんじうらみなき人にも便りて人をなやます事願くハ
御きやうにもあづかり度との願ひの筋とそ聞へける此事
浮世の皆人林本ノママ間違有つて只我身をくるしめる事のミ斗あ
んし其気の付ざる事むねんの至り也町々在々悪病流行な
す事皆是このうらみにふくすと也心なき人ハ迷惑の様に
思ひて帰て其病をうらむる事一とうの世間也たとへハ其
身親類もなく何のゆへ人無して相果し後ハおのづから其
もうしう無にしあらす此世になからへし人に便りてとむ
らひ□□をうくるより外有へからすかゝるはかなき浮世
なれハ必其心得有へき事かんやう也世の人兼て其心得あ
らは万の病も付事あたわす却而もうしう其身を守りうら
みをしりそく事うたかひなしよく〳〵此心をかんがへ万
の品に心をゆたねいよ〳〵諸神諸佛をしんじあらハ家内
栄へはんじやう成へしと愚心なから是をしるす者也
温泉山物語終
夫つら〳〵世の中をおもん見るに善をなすもの天道より
幸ひをあたへ給ひ人に悪をなす者ハ別其わさわひあたへ
給ふ也何も浮世をやわらかに取あつかひ人の悦を我身に
かへて悦ひ人のなげをば我身のごとくかなしみ孝之道を
相守り佛神乃御恩片時もわする事なく世の中を恐れつゝ
しみてじひ善根の心ざし高い人ハ朝夕に諸神諸佛付添ひ
其□(家、カ)に光りをはなつて守り恵ミ大なる悪事其家ニ有ると
いへとも師宝釼利釼を以て千里の外に拂しりそけ少しの
善ハ大山のことく重ね給ひて其身一生わさわひ無く延命
なさしめ冨貴栄耀のいへ守リ給ふ事うたかひなし又さま
〳〵の悪事を好ミ人を悪舌にてほろぼしよき事をねたミ
そねミもの乃あわれも見すして様々乃悪事に組せし者ハ
別其かうゐんにしたかひ其家ににしやじのられいたし元
ゟ短命にして数々悪事あつまり来つて色々しんゐ乃ほの
ふをもやす事かぎりなしついにハ其身をほろほし末乃世
まて悪名をながす事無念の至りならすや右躰の愚人佛神
乃御はつをかふむり別御見捨まします事おそれ多ふき事
とも也何れにも信心乃ゑみをふくんて万の悪事をはなれ
善根きとくのまとに向ひ正直ひるひなく天道のおはたら
きにおそれて世を全く取りおこのふ人は殊に佛神御慈悲
の光明かうへにてらし給ひて末は八千代と栄へて御めく
みをかふむる事兼て難有相こゝろふへき者也
天保庚子春日借覧大原氏所藏之書
謄写(朱)三日口五校原本謬誤多矣他ヲ淂善本校訂濱貞彝
絵図勝之助写
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 319
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 島原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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