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項目 内容
ID J3000427
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔大岳地獄物語神代西里 与次兵衞〕雲仙市教育委員会蔵解読、神代古文書勉強会発行H12・12国見町教育委員会(関係者にのみ配布)
本文
[未校訂](注、神代(現雲仙市)西里・思案橋の農民与次兵衛の書
いたもので神代古文書勉強会の方々が解読(よみ下
し)したもの。全七巻からなり、後半は災異記のよう
なもの、噂話も多く眞偽不明の部分も多い。全七巻の
うち第一巻のみを印刷する)
天向書地獄物語
 [抑|ソモソモ]九州肥前嶋原火水風出来立ち候事、其時嶋原御城主
松平殿主頭([主殿頭|トノモノカミ])様御代の事成るに、其時地獄焼出来
立ち、普賢岳、嶋原岳に其の前通りより段々[瑞相|ずいそう](予兆)
有る事、[亥|イ]の七月十四五日[比|ゴロ]より地震が致し、其の地震
常の地震に替りて地の底に当りてなり(鳴り)、叉大岳、
嶋原岳のなり(鳴り)立てる事大雷の如くなり。
[夫|ソレ]より段々地震も[稠敷|シゲシク]成立ち、此の嶋南一通りは別して
昼夜地震[稠敷|シゲシク]して石垣家[抔|ナド]は残らずゆり崩れ、[夫|ソレ]より叉
二月十四五日の間は御城下[斗|バカ]りの大地震にて木の葉も落
つる程の大ゆりなり。其時嶋原岳の前平に大崩れが致し
地獄が出来、寺宮の石垣、城の石垣迄皆[由里|ユリ]崩れ、[夫|ソレ]よ
り[亥|イ]の十一月十五日夜九ツ時に大岳の前平十七八反の
[帆掛|ほかけ]舩三艘通り、帆印には丸の内に弐ツ引わりと見へ、
其の舩弐艘は西へ通り、壱艘は空に上り其の後は知らず。
或時[子|ネ]の正月九日より大岳のなり立てる事昼夜大雷の如
くなり。[夫|ソレ]より又正月十五日の夜九ツ時に右大岳より火
玉三つ温泉山一乗院に飛行く。[夫|ソレ]より又正月十七日の夜
暮六ツ時より[二時斗|フタトキバカ]り大岳の空に弐定(丈)[斗|バカ]りの火の
柱弐本立ち、其の夜八ツ時に天地もひびく大雷の如くな
り。其時大岳の空に大地獄が吹出し、岳の空大火事の如
くなり。[夫|ソレ]より段々登りて見るに大[猛闇|くらやみ]に大雪の降るが
如くなり。火煙[稠敷|きびしく]して近辺に寄る事[叶|カナ]わず。何程有る
[共|トモ]知れずば見物致す事も[叶|カナ]わずして[空|むなし]く帰り。[夫|ソレ]より弐
里三里四方の所は灰泥[須|ス]な石の飛ぶ事大雪の降るが如く
なり。十人持[斗|バカ]りの大石吹上げる事[餘多|アマタ]の手まりを持ち
て[阿や取|アヤトリ]が如くなり。近辺の村は泥[須|ス]なの積る事五尺[斗|バカ]
り積る事成るは神代迄も[夥敷|オビタダシク]飛び来り。亦近辺の村の
者は十四五日の間は昼夜寝る事[叶|カナ]わず、皆[遁|ニゲ]仕宅(仕度)
にて牛馬を引出し[草鞋|ワラジ]掛けにて居る事也。
或時初手の大地獄は十四五日の内に[治|オサマ]り、から地獄に成
る。其の地獄深さ五十間[斗|バカ]りと見へ、或時五日も過ぎて
後其の脇の方に[壱所|ヒトトコロ]に叉四つ吹き出し、是叉初手のと同
用(同様)也。是は泥温(泥湯)地獄にて温玉(湯玉)
の上がる事五間[斗|バカ]り空に吹上げ、岳の空大[猛闇|くらやみ]の如くな
り。或時嶌原千把に火の附きたると見へ、肥後より早々
押舩にて数艘来り其の舩の衆も見[繕|つくろ]いに来りと[雖共|イエドモ]、火
水風の事成るは[肝|きも]を消して[早|ハヤ]本国に帰りける。
[夫|ソレ]より叉二月[朔日|ツイタチ]より大岳の底なり(底鳴り)が致し、
大地震の如く岳がゆるぎ、其の乙(音)大雷の如くなり。
二月五日には三會村より右前平に[薪|タキギ]取りに参り候者の
取沙汰には岳の底なり大地震の如くに有り、[依夫|ソレニヨリ]居る事
[叶|カナ]わずして[空|ムナシ]く帰り。
或時同六日の朝六ツ時に大岳の空に弐定(丈)[斗|バカ]りの火
の柱弐本立ち、同昼の四ツ時に天地もひびく大雷の如く
なり。其時前平大火吹出し黒煙大火事の如く成り。或時
大岳の五合目より[焼出|ヤキイデ]、二夜三日[斗|バカ]りに小山壱つは焼崩
れ、[夫|ソレ]より八方に焼登る事[咄|ハナシ]にも語るにも譬無難([譬方|タトエカタ]
なき)次第也。
見物事に取るは世に二度とも無き[珍敷|メズラシキ]見物事成り。
[雖然|シカレドモ]叉[恐敷|オソロシキ]事に取りても叉世に二度とも無き[恐敷|オソロシキ]次
第也。
此の所は二月十五日[比|ゴロ]迄はさゐ中(最中)の事なれば何
程に成る共知れず。其内少々[宛|ヅツ]の小地獄[抔|ナド]は数多く出来
立ち、右両所の見物人老若男女童子共に至る迄其の数を
知らず。神代よりも焼崩るっとが見へ、夜々は野火の焼
ける如くに見へにける。
此の所二月廿日[比|ゴロ]は少しは焼けほそり、[夫|ソレ]より叉別所に
谷へ二月十五日より焼出し、是叉初手のと同用(同様)
に猛火さかんに焼け、其の処に大萬石の焼落つる事、大
木の焼け落つる事雨の降る如くなり。其の焼け落ちたる
大萬石より火の出る事黒煙なり。
其の御山内に地獄の出来たる事四十八ヶ所出来立ち、
[依夫|ソレニヨリ]殿様も[焼|ヤケ]に日々に御登り成られ、絵図を御書き成さ
れて江戸に[遣|ツカワ]される御飛脚が再三立ち申す事也。右大岳
の[空|ソラ]、二番の大地獄はから地獄に成り、不思議有る事は
時々は泥温(泥湯)地獄に成りて温玉(湯玉)の上がる
事空に三間[斗|バカ]り上がりける。
或時書置難き次第成れ[共|ドモ]普賢菩薩も何程の御苦労遊ばさ
れる事にて候や御面像[拝仕奉|ハイシタテマツ]るに御汗に[飛|ヒ]たらせ[給|タマ]ふ
也。其の御面像拝見致すに諸人[諸共|モロトモ]に涙の出る事[留|トメ]難く
面白き見物事とは申せ[共|ドモ]、もったい無き次第也。或時右
大岳以前焼けたるより今に寛政四年[壬子|ミズノエネ]の年迄七百年
餘に成ると申す事也。[夫|ソレ]より二番に焼けたる弥左衛門焼
よりは同[子|ネ]の年迄に百七十年餘に成ると申す事也。其の
焼けた所に弥左衛門と申す者焼死にたる故に弥左衛門焼
とは申す成り。
其時嶋原殿様左近様と申して江戸に御登りの節かいりき
にあわせられたと申す事也。[依夫|ソレニヨリ]今度は殿様[御悦|オヨロコビ]直し
て目出度き吉慶と御悦び成られて下万民に不吉に申さぬ
様に[御觸達稠敷|オフレタッシシゲシク]有り。其上にて不吉に申す者は其の[科|トガ]申
し付けられ、叉右焼け所は広さ横弐町立(縦)弐拾五町
[斗|バカ]り有り。其の処不思議成る事は峯が谷に成り谷は峯に
成る。焼けたる所は高く峯に成る事誠に以て甚妙不思議
なる次第也。
右焼け所大木山にて東の谷を[朽木|クチキ]谷と申して壱定(丈)
廻り[斗|バカ]りの[朽木|クチキ]の大木多く有り。右大木に大萬石落ち掛
かれば右大木判(半)中より朽折れ、[夫|ソレ]より下は線香に
火を附けて立てたる如くに土ぎわ迄焼下る。誠に以て甚
妙不思議成る次第也。
[依夫|ソレニヨリ]見物人の登る事数万人、大市の如く成り。見物致す
には夜々が花火の散る如くにして見物事なり。[依夫|ソレニヨリ]買人
(売人)の登る事大市の如くなり。岳平も昼夜にぎやか
成る事世に[珍敷|メズラシキ]次第なり。岳の有様我人善悪とは知らず
して面白き事と申せ[共|ドモ]、普賢菩薩汗に流し[給|タマ]ふ御面像
[拝仕奉|ハイシタテマツ]るに涙の中に身の毛も[よ立斗|ヨダツバカ]りの次第なる故に
面白き事は無用にして、南無普賢大菩薩と唱う[可|べ]き者成
り。
岳の焼出しも我人犯否成るは善悪とは存ぜね[共|ドモ]、普賢菩
薩乗させ[給|タマ]ふぞう身(象身)よりは少しも汗は出ずして
普賢菩薩御面像[斗|バカ]り汗に流し[給|タマ]ふ也。仏神の御身より御
汗涙出させ[給|タマ]ふ事昔物語にも聞き及びたるためしもなく
[恐敷|オソロシキ]次第也。[猶以て|ナオモッテ]此事疑う[可|べ]からず。
叉二月[中比|ナカゴロ]は島原御城下近辺[斗|バカ]りたまらん〳〵と[謂|イウ]て
夜々廻る。[夫|ソレ]を取りて出せと御上よりは[仰付|オオセツケ]なれ[共|ドモ]、取
る事叶わず。是形は横八寸立(縦)は壱尺弐寸の是形は
[有共|アレドモ]取る事[叶|カナ]わず。
叉二月十四五日[比|ゴロ]より右焼処は大火の上に猛火さかんに
焼立ち、咄にも語るにも無譬難([譬方|タトエカタ]なき)次第也。或
時見物致す所は三方向の峯より見物致し、其所より[空|ソラ]の
焼口迄に三十六町壱里有り。其の焼所の乙(音)は昼夜
大雷の如く成り。[依夫|ソレニヨリ]時には大[猛闇|くらやみ]に成り、火風が立ち
見物致す事[叶|カナ]わずして皆[遁|ニゲ]去る程に有り。叉其所に小屋
を作り、せったいを立て、其の茶屋の者には殿様より金
三両下されて居る事也。其処より三會村千本木と申す所
は人家迄十町[斗|バカ]り、其所の人は皆働きも致さずして昼夜
[遁|ニゲ]仕宅(支度)にて居る事也。
或時[子|ネ]の二月廿九日の夜九ツ時に叉大峯に大地獄が吹出
し、是も初手の大地獄同用(同様)成り。
叉神代に不思議有る事は[子|ネ]二月九日昼の四ツ時に大門口
[椋木|ムクノキ]の大枝清天(青天)の時折れ、叉二月十七日の夜大
門口渡り上に[夥敷|オビタダシク]蛍が出、同二月廿九日晩北之崎河原
叉蛍同用(同様)に出る。
叉世上の取沙汰には、[子|ネ]正月元日の夜九ツ時に肥後国阿
曽(阿蘇)山の大峯より普賢山の大峯に木綿三はば[斗|バカ]り
雲引ばえ、其の上を火玉壱つ普賢山の大峯へ飛来りと申
す取沙汰成り。其時普賢山の大峯に弐定(丈)[斗|バカ]りの火
の柱二本立ち、其時より大岳のなり初めたと申す批判(評
判)有り。
元日の晩夜半時分に高位成る御僧が白装束にて馬に乗り
海上を渡らせたと申す事也。叉肥後の国阿曽大明神当嶋
に移らせ[給|タマ]ふか[共|トモ]申す事也。
或時叉二月廿九日に[瀬保木|せぼき]峯と申す処に叉大火吹出し、
初手のと同用の大火なり。或時千本木村の者は家を仕廻
(舞)皆思々に身類(親類)中に[遁|ニゲ]行く。
叉閏二月上旬[比|ゴロ]は柳谷、小桜谷の大焼も五十町壱里焼登
り、夫より八町[斗|バカ]り西大さこ谷と申す処に閏二月三日の
五ツ時に温(湯)地獄が出来、是は少し[斗|バカ]りの小地獄成
り。其の時分岳の大なり致す事大石火矢討つ如くにして
神代の者も夜には起きて見る程の次第也。
閏二月中旬[比|ゴロ]は焼下る処は千本木村迄焼届き、空は大峯
の[焼|ヤケ]と壱所に成り、横は弥左衛門焼と一所に成り、千本
木より大峯迄五十町弐里焼下り、叉[朽木|クチキ]谷と申す谷は大
岳壱番の大谷深谷也。其所大木山にて壱定(丈)七八尺
廻りの楠の大木多く有り、其の大木残らず谷底に焼埋ま
り谷は峯と同用(同様)平地に成る。
叉閏二月十五日には右焼所より大猪が壱疋出たるを猟師
が見合わせ七つつ(七筒)討っても[斃|たおれ]もせず。[依夫|ソレニヨリ]猟師
も[遁|ニゲ]去り、其の跡(後)にて猟師のせこ(勢子)の者壱
人其の猪が[伐|ウチ]、叉薪取り壱人[忽|タチマ]ち其の猪が[伐|ウチ]殺す。[依夫|ソレニヨリ]
右猟師が急いで登り、其の猪を弐つつ目に討殺す。其の
猪八尺五寸六分大猪なり。
其時焼処より東松木峯と申す所に[忽|タチマ]ち大割が致し、横三
間立(縦)百十間の大割が致す。或時閏二月廿七日より
三月四日[比|ゴロ]迄は三里四方の所は用心致せと申して昼夜[觸|フレ]
が廻り、[依夫|ソレニヨリ]温泉より御城内に十人の早飛脚が立ちて昼
夜往来を致す事也。
或時諸人[遁|ニゲ]仕宅(支度)にて居る時、只今迄は[遁|ニゲ]去るに
は及ばぬ程に[遁|ニゲ]去るなと申して細々(再々)[御觸|オフレ]が廻り、
叉[遁|ニゲ]去る時は御上より早く[遁|ニゲ]去れと申して[觸達|フレタッシ]が有る
程に其時早く[遁|ニゲ]去るべし。
或時三月[朔日|ついたち]の昼九ツ半時より地震[稠敷|シゲシク]成立ち、[朔日|ついたち]晩
暮六ツ時より大地震に成り、家も崩れる程の大地震なり。
或時島原御城下は別して[稠敷|シゲシク]大地震[終|つい]にやむ事無し。
其時[朔日|ついたち]暮六ツ前の御[觸達|フレタッシ]に只今より明日明六ツ前に
早く[遁|ニゲ]去れとの[御觸|オフレ]有り。[依夫|ソレニヨリ]町小路三會迄の者は多比
良土黒神代より西に[遁|ニゲ]行き、叉案徳(安徳)深江迄の者
は布津有家より西に[遁|ニゲ]行く。叉舩より[遁|ニゲ]る者も有り、松
嶋に弐千人[斗|バカ]り[遁|ニゲ]行く。[依夫|ソレニヨリ]神代に早飛脚が[御頼仕|オタノミツカマ]る
と申し来り[候得|ソウラエ]ば、神代も[忽|タチマ]ち昼夜大騒動に成る。
或時若殿様女中方五十人[斗|バカ]り三月二日の晩八ツ時に山田
の庄屋迄御越し成らる。叉鉄炮(鉄砲)町御家中は御城
内に[篭|コモ]り、[遁|ニゲ]る用心の舩は三十艘[拵|コシラ]えて居る事也。
或時[朔日|ついたち]の晩の大地震は三日三夜の間は[初中後終|ショツチュウつい]にやむ
事なく[由里|ユリ]続きの大地震也。或時御城下は石垣瓦家器物
残らず波滅(破滅)致し、其の時岳も八方にゆり崩れ、
岳の底なり(底鳴り)致す事、崩れる乙(音)は[恐敷|オソロシキ]事
無譬難([譬方|タトエカタ]なき)次第也。
鉄炮(鉄砲)町萩原の[由里|ユリ]割は立(縦)横十文字に[由里|ユリ]
割れ、横は三間立は弐百間、叉弐間三間少々の小割は町
小路、家の内迄皆[由里|ユリ]割る。
或時岳の[抜|ぬげ]崩れ見[繕|つくろ]いの役者三十人宿残りにして昼夜
申し上げる事也。或時[遁|ニゲ]る者は唯着の[儘遁|ママニゲ]る者も有り、
金箱を馬に付け馬[駕篭|カゴ]より[遁|ニゲ]る者も有り。叉老少の者は
そうかがりに入れて荷からいにして[遁|ニゲ]る者も有り。叉道
にて気分[悪敷|アシク]して跡にも先にも行く事叶わずして難儀苦
労致す者も有り。女は道にて産をして難儀する者も多く
有り。歎悲の涙で[遁|ニゲ]行く恐しさは言語同断(道断)の次
第也。
或時神代も大門口大還(往還)に差挟灯松明松([松明|タイマツ])を
出し、食を喰わせ、役者馬引夫丸(夫役)村々より[夥敷|オビタダシキ]
事出て居る事也。
或時肥後より加勢舩が押般にて百艘[斗|バカ]り来り。其時叉大
割が致し、大岳の焼所より嶌原岳に二筋割通り、其時嶋
原岳は弐つに割れ、鉄炮(鉄砲)町萩原水頭に割通り、
或時城下の酒屋〳〵の酒五尺の桶は[由里捨|ユ リスタ]りて七合に成
り、多比良土黒の酒屋の酒は壱合[捨|スタ]り、神代の酒屋の酒
は何事もなし。
叉神代参り宿致して居る者は檀那様より御助褒(助抱)
を下さる。或時神代舩留めに成り、早舩迄沖に下がり舩
[拵|コシラ]えを致して居る事也。佐嘉(佐賀)の方の御飛脚舩は
日々夜々に出入り、嶋原の加勢舩は肥前肥後天草嶋の舩
は猟舩(漁船)迄集りたる舩は千艘[斗|バカ]り一所に集る。
或時嶋原岳の大割に昼夜火の柱が立ち、大[抜|ぬけ]に晩々火が
出、岳の抜崩るる乙(音)は昼夜大石火矢討つ如くなり。
叉町小路岳迄地の底なり(底鳴り)致す事大雷の如くな
り、[恐敷|オソロシキ]事[咄|ハナシ]にも無譬難([譬方|タトエカタ]なき)次第也。[依夫|ソレニヨリ]三
會村より深江村迄七ヶ村の者皆[遁|ニゲ]去る時、跡は村目附[斗|バカ]
り置きて其の村目付の乗る舩は村々に壱艘[宛|ヅソ]舩[拵|コシラ]えを
致し、帆柱を立て帆[拵|コシラ]えを致し、[櫓|ろ]梶をかませ飛乗る[斗|バカ]
りにして居る事也。
或時三會の頭の出水は両処共に温(湯)に成る。[子|ネ]の三
月三日より西郷山の頭、丸尾の下の出水は白水に成り、
叉千々岩(千々石)の頭の出水は赤水になる。
叉百七十年前の弥左衛門焼、其年も[子|ネ]の三月より焼けて
七日七夜過ぎて後三月十八日に大水出たと申す事也。其
年より先五年の間は万作致し、米壱升は弐十文、大麦壱
升は銭七八文致したと申す事也。今度も三月十八日迄は
用心致せと申す事也。[依夫|ソレニヨリ]御城内には小早舩弐艘入置
く。叉殿様の御米は日々に千俵弐千俵[宛|ヅツ]有馬の鼻(原)
の城に積行く事也。或時殿様はしゃく御持病が出させら
れ九死一生の大病にて、其時、時の鐘夜の九ツ半分附く
(撞く)時、鐘はゆり落ち、家も波滅(破滅)致し、言
語同断(道断)の次第也。
今度の地震は常の地震には格別違いたる地震成り。此の
大変の事[小|こま]かには書置き難し、[荒増|アラマシ]に書置く。
叉殿様の御使者御目附三頭、殿様の舩三艘より御越成ら
れ、三月十八日には檀那様は竹崎迄陸地を御越し成られ、
[依夫|ソレニヨリ]神代より竹崎迄御迎舩押舩にて出る事也。神代も御
上下諸役者百姓迄昼夜大騒動成り。
叉三月七日より九日迄の間に佐嘉(佐賀)殿様より御使
者御目附日々夜々に御越し成られ、八百石以上の衆は三
十人四十人の御勢にて御越し成られ、三月九日迄の間に
七頭御越し成られ、叉殿様の御舩も十八反頭に[〆|シメテ]七艘神
代の河に来り。
[依夫|ソレニヨリ]神代も村々大還(往還)通りは番小屋を作り、夜に
は差挟灯を附け、役者夫丸(夫役)多く出て居る事也。
[依夫|ソレニヨリ]神代の百姓昼夜困窮致す事也。叉嶋原領より神代に
参宿致して居る者三百人其者には檀那様より御助褒(助
抱)を下され、壱人前に米五合味噌薪迄日に渡し下さる。
叉三月八日の晩は嶌原御城内より女中[斗|バカ]り三十人旅仕宅
(支度)に[出立|イデタチ]皆刀を壱本[宛|ヅツ]指して面々に[長刀|ナギナタ]を持ちて
伊福の寺迄[遁|ニゲ]行かせ[給|タマ]ふ。其時嘆悲の涙の中に世に[珍敷|メズラシク]
花やか成る[出立|イデタチ]也。
或時叉島原御城下村々迄不思議有る事[夥敷|オビタダシキ]事有り。御
上より其の不思議有る事一口(一向)取沙汰致さぬ様に
再三[御觸達|オフレタッシ]有り。[雖然|シカレドモ]不思議有る事は批判(評判)致す
者也。
[爰|ココ]に不思議有る事[荒増|アラマシ]書置く。或時嶋原中町綿屋作右衛
門と申す者の小庭の桃の木に桃は多くなりて居る所に赤
[保|ボ]たんの花が[夥敷|オビタダシキ]事咲き、叉代々([橙|ダイダイ])の木に大豆ま
めが多くなり、叉布津村の善右衛門と申す者の処には庭
梅の木に八升豆が多くなり。叉村々には[夜々|ヨナヨナ]大やくわん
(やかん)の様成る火が出、庭壁のね迄ころび廻り、亦
晩々は火の柱が立ちて、[夫|ソレ]に女のだき付いて居るも有り。
宇都山の桜は九州一の桜山成るに此の桜は咲かずして、
三會村洗切には桃の木に八重桜の花が多く咲く。
叉[夜々|ヨナヨナ]は[恐敷|オソロシキ]事と[謂|イウ]て廻る、[夫|ソレ]を出て見れば影もなし。
叉[中間|チュウゲン]□□の地獄の煙に巻かれて死にたるも有り、叉侍
の焼所に入りて死にたるも有り。右[躰|テイ]の有様多く有ると
[雖共|イエドモ]、[荒増|アラマシ]に書置く。
叉三月七日の晩より八日迄の大地震は城下より南通り
千々岩(千々石)小濱迄の処別して[稠敷|シゲシキ]大地震にて家も
[夥敷|オビタダシキ]事ゆり崩れ、宮寺の鳥居右の燈燭(燈篭)墓所の
石塔石垣器物残らずゆり崩る。其時千々岩村の喜惣次と
申す者の処には藏修理方が有り、大工壁ぬり迄皆居る所
に右家[忽|タチマ]ちにゆり崩れ[傷|けが]致したる人が多く有り。
叉三月九日には前山(眉山)の大[抜|ぬけ]は大木共に八百間[斗|バカ]
り下に抜下り、下の大木山は谷底に埋り、横は三十六町
有り。或時嶌原領南通り千々岩小濱迄の処は田地の石垣
苗代迄も残らずゆり崩れ、[依夫|ソレニヨリ]作致す事[叶|カナ]わず困窮に及
び迷惑至極と申す事也。
叉三月九日[比|ゴロ]は大岳の大焼は千本木に焼下り、二道に焼
分れ一口は大河を焼渡り御城に向うて焼下り、其の大河
を焼渡る時は川の底はゆり割れて、から川に成りて焼渡
る。此の火は雨降りには大雨程猛火さかんに成り塩水(潮
水)に[弥|イヨイヨ]大火に成る火なり。
或時若殿様山田の庄屋に[遁|ニゲ]行き[給|タマ]ふ時、右庄屋の所もゆ
り崩れゆり割れ致す。[依夫|ソレニヨリ]野江の庄屋の処に移らせ[給|タマ]ふ
也。其後自身も少しは軽く成り、[依夫|ソレニヨリ]若殿様女中旁
(方々)迄残らず三百人[斗|バカ]り三月十七日に嶋原の方に御
帰り成らる。
叉神代に居させ[給|タマ]ふ佐嘉(佐賀)御使者御目附旁も三月
中旬[比|ゴロ]は嶋原に日々に御越成られ[候得|ソウラエ]ば百姓も皆も困窮
致し、嶋原惣御家中は三月十八日迄に御帰り成らる。叉
嶋原に諸国より来る舩も三月十七八日迄に皆御帰し成さ
る。
或時叉大焼は三會の頭、平地原と申す處に焼下り其所に
[藪|やぶ]神の居させ[給|タマ]ふ。此の藪神の處に焼来る程に脇へ直り
[給|タマ]へと申して御[鬮|クジ]を上させければ此処は直る事[叶|カナ]わずと
有り、或時二三日の中に其所に焼来り。
或時其の藪神は迦違いして二つに焼分れ、焼けたる跡は
峯に成る。大岳の焼出しより乗りたる鼻石は其処迄も乗
りて下る。誠に以て甚妙不思議成る[謂|イワレ]なり。
或時叉六十一年跡の[子|ネ]の年も大凶年にて明けて[亥|イ]の年は
大万作致し、米壱升は十二三文、大麦壱升は銭六七文。
寛政四年[壬子|ミズノエネ]の年迄に六十一年に当りければ叉今年も
右[躰|テイ]の如く凶作致す。[依夫|ソレニヨリ]六十一年に当る年は末世に至
りても其の用心を致すべし。
叉[子|ネ]の三月下旬[比|ゴロ]は神代にも所々に花が咲き豆が成る。
楠高村判蔵と申す者の所には桃の木に[保|ボ]たんの花が咲
き、松田の兼右衛門の処にも庭梅に八升豆がなり、尻な
し地蔵の梅に八升豆がなる。
或時叉佐嘉(佐賀)より御越成られし御使者御目附[水主|カコ]
舩頭迄折々檀那様より御馳走の御振廻([振舞|フルマイ])が有る。叉
三月廿四日には御使者御目附檀那様迄佐嘉の方に御帰り
成らる。
或時三月十九日より嶌原鉄炮(鉄砲)町に家三間の処[斗|バカ]
り大地震の如くして家は天にあがる程に有り。[依夫|ソレニヨリ]其所
を夫丸(夫役)を取りて掘らせければ其所から岩の処に
て掘切る事[叶|カナ]わず。[依夫|ソレニヨリ]其のゆり割に三間[斗|バカ]りの竹を差
して見るに深さは何程知れず。其の家は昼夜天に上る程
に有り。地の底なり(底鳴り)致すは大雷の如くに有り
ければ、其所には居る事[叶|カナ]わずして脇に移らせける。
或時叉[子|ネ]の三月下旬[比|ゴロ]大焼も三會の頭迄五十町弐里[斗|バカ]り
焼下り、或時[子|ネ]四月[朔日|ツイタチ]は風雨も致さず天気好く青天に
て、其の[朔日|ツイタチ]の晩暮六ツ半時に諸人夢にも知らずして居
る処に嶋原岳片平大木共に崩れ来り。其時一同に大火大
水大抜海行きたる時、[忽|タチマ]ち大岳の様成る火の大浪に成り、
其の大浪が火と塩(潮)と水と戦いて天に上り、其の乙
(音)大雷の如くなり。其の大浪が弐十定(丈)も空に
上り、三浪掛り、[夫|ソレ]までに城下は野原磯辺山の如くに成
る。
城下案徳(安徳)迄は何百岳とも知れず、海は三里沖迄
何百嶋とも知れず、方角も知れぬ程に成り、案内取りて
ぞ行きにける。其内残りたる所は三會町上の町御城教堂
萩原鉄炮(鉄砲)町[斗|バカ]り残り、寺も七ヶ寺滅亡致す。其
内に生きて居る人が八十人[斗|バカ]り有り、其内にけがも致さ
ぬ者は三人有りと申す事也。
其の流れ跡の有様は書置くにも書置き難き次第[成共|ナレドモ]、[荒|アラ]
[増|マシ]書置く。
其処を見るに人間の死にて居る事は申すに及ばず、其外
金銀米銭刀脇指(脇差)[櫨|ハゼ]俵其外の物多く有る事[則|スナワ]ち磯
辺の石の如くに有りにける。其の[哀|あわれ]を見るに諸人歎悲の
涙[袂|たもと]を[拵|ひかへ]袖を[絞|しぼり]愁涙[肝|きも]を消す。是程[恐敷|オソロシキ]事は世に二度
とは[非|アラ]ぬ[恐敷|オソロシキ]次第也。
大手の門迄死人[夥敷|オビタダシキ]事、[雖然共|シカレドモ]死人改める者もなし、
死人取る者もなし、取りても送る坊主もなし、唯野原に
石を取り散らかしたる如くにして其の死人老若男女共皆
[裸|はだか]に成りて居りけるが雨に[曝れ|さらされ]、日に[照れ|テラサレ]其の[愍|アワレ]成る事
[咄|ハナシ]にも難譬なき([譬方|タトエカタ]なき)次第也。
叉案徳(安徳)村は岳の下に成り、御城下より愛津迄の
所は殿様の御舩其外の猟師猟舩(漁師漁船)に至る迄壱
艘も残らず波滅(破滅)致す。案徳より愛津迄の処は浜
辺一通りは人家塩屋作場に至る迄残らず破滅致す。
叉多比良の町濱の田土黒塩屋迄の有様を見るに野原磯辺
の如くに成る。或時濱の田河の頭平の前の田原中の寄せ
物、死人牛馬家酒桶俵物其外の寄せ物山の如くに打寄せ、
多比良の寺の坪中に大浪が上り、其の深さ壱尺[斗|バカ]り有り。
其の塩(潮)の高さは多比良土黒より東は十定(丈)も
空に上り、其の[謂|イワレ]は三會村の庄屋門を打越し、坪中に弐
間に三間の隠宅有り、其の新宅を一浪に打崩し破滅致す。
神代には破損処も出来ず、[併|シカ]し新町二三間破滅致し、其
内麦を流したる者も有り。叉普請所は[夥敷|オビタダシキ]事出来る。
[雖然共|シカレドモ]嶌原領より[大|おおき]によし。
叉[壬子|ミズノエネ]四月二日より御城二の丸の内にゆり割有り。[夫|ソレ]よ
り煙が吹出し、嶋原岳に吹ほげたる大穴は大地獄に成り、
岳に火の柱が立ち、海にも火の柱が立ち、海は月夜の如
くに明り、[依夫|ソレニヨリ]四月二日には殿様御子様女中旁(方々)
迄御馬より中道通りを成られて守山の庄屋の所迄[遁|ニゲ]行か
せける。叉四月三日四日の間は其外の女中残らず旅仕宅
(支度)にて刀を指し[鑓長刀|ヤリナギナタ]を持ちて山田の庄屋の処迄
[遁|ニゲ]行かせける。女の[軍出立|イクサイデタチ]は世に[珍敷出立|メズラシキイデタチ]成り。
或時叉神代も大浪が来ると申す[評判|ひょうばん]にて伊尻平馬町小
路須賀田町村方迄皆思々に身類(親類)中に家財等は預
置き、皆[遁|ニゲ]仕宅にて、叉山より山塩(潮)の来たるかと
も知れず、叉海より大塩の来るかとも知れず、[遁|ニゲ]行く所
無き次第也。
或時叉嶋原より神代に[遁来|ニゲキタ]り候者二三日の内に弐千[斗|バカ]り
[遁来|ニゲキタ]り。[依夫|ソレニヨリ]庄屋役人より大門口にて宿割りを致す。所
名迄帳面に附留め、旦那様より今度も叉御助褒(助抱)
を下され、壱人前に米五合味噌薪迄日々に渡し下さる。
壱日に五合当りと申しても弐拾俵三拾俵[宛|ヅツ]下さる事成る
は檀那様にも[夥敷|オビタダシキ]御難代(難題)なり。
大門口思案橋に小屋を作り、差挟灯松明松([松明|タイマツ])出し、
御役者村役夫の者馬引夫丸(夫役)迄[夥敷|オビタダシキ]事出、昼夜
番を致し、百姓も困窮に及ぶ大騒動也。其の流れたる処
に不思議有る事は土黒塩屋には母親の七つ子を連れて[遁|ニゲ]
行く時、子は跡に捨置きて[遁|ニゲ]行きける。其の子の申す事
は神か仏か[資|タスケ]下されと申してをらぶを人のつれ行き命
は持ち(保ち)、其の親は影もなく命果てたり。叉多比良
の町には三日めに[廿斗り|ハタチバカリ]の女、[須|ス]なの中より掘出して命
は持つ。叉流れ家の中より六つ七つ子共(子供)掘りて
命は持つ。叉嶋原には三日めに[須|ス]な三尺下より掘出し命
は持ちたるも多く有り。
叉三會村より舩に[多葉粉|タバコ]を積みて小深りに居られ、或時
大浪が打上げ大手の門に飛付いて命は持つ。叉大手の門
口の大松の枝に死人を数人打掛け其の死人を取る者もな
し。叉大手の門内に[遁|ニゲ]込みて死にたる人が[夥敷|オビタダシキ]事有り。
[雖然夫|シカレドモソレ]を取出す者もなし。栄花(栄華)栄用(栄耀)の
金持も[裸|ハダカ]に[其儘|ソノママ]腐れ[捨|スタ]る[哀|あわれ]さは無難譬([譬方|タトエカタ]なき)次第
也。
仏神の御蔭に命持ちたる者も[夥敷|オビタダシキ]事有り。叉神代に死
にたる人は嶌原に行きて死にたる人あり。神代に死にた
る人は壱人もなし。叉神代の内はあらたに替り、仏神の
御宝菩薩とは申しながら不思議成る[謂|イワレ]成り。叉嶋原には
右[躰|テイ]の[半|なかば]に四月三日には侍の弐人藏を[破|やぶ]り盗みに入りた
るを目附が見合わせ[忽|タチマ]ちに[伐捨|キリス]て、侍の事成れば沙汰無
しに成る。叉散りたる物を取りて牢人致して居る人も
[餘多|アマタ]有り。
叉濱の田孫右衛門殿は北目一番の大金持なり。或時大浪
が掛かり、唯着の[儘|ママ]にて遁られ、或時死人も有る二日め
にあづの中より馬を壱疋掘り出し此も命は持つ(保つ)。
跡は磯辺の如くに成り、初手の騒動の時は[遁|ニゲ]る用心に金
箱[斗|バカ]り舩壱艘積置たれ[共|ドモ]、今度金箱は壱丁も無く米蔵壱
つ残り。叉多比良の町千之助殿と申すは北目一番の大酒
屋也。或時大浪が打懸り人間牛馬何らも残さず跡は礒辺
と成る。千之助殿兼ねて親に孝好(孝行)の人也。故に
不思議有る事は浦(裏)に逆わら葺の薪小屋有るに、其
の小屋の上にあがるとは思わずして其の家の上に掛上
り、上ると否や向うの岸に当打ちして引浪に壱里半も沖
に引取り、叉弐番の浪に町の下の小山の松に打掛かる。
或時古空(虚空)に声の致す事は、[夫|ソレ]が小山の松の木夫
に取付け〳〵と申して声はすれ[共|ドモ]、取付く事[叶|カナ]わずして
叉壱里半も沖に引取られ、叉三番の浪には寺の浦門の石
段の上に打寄せられ、其時寺の坪中に[飛颪|トビオ]り難無く命は
持たれたと申す事也。
叉[壬子|ミズノエネ]四月[朔日|ツイタチ]の晩暮六ツ時分に嶋原宮の町より八つ
子六つ子[斗|バカ]り四人づれに隆嶋(猛嶋)参りを致し、或時
大浪が打懸り其後深促(探索)も致さず思い果して居ら
れし時、子共(子供)四人共に三會の頭折橋と申す所に
四人共に隆嶋大明神のつれ行かせける。[夫|ソレ]より御身胎は
御城内板倉八右衛門殿家の棟に飛行かせ[給|タマ]ふ。御社跡は
礒辺の如くならせける。叉四月[朔日|ツイタチ]の晩より其後[恐敷|オソロシキ]事
は大岳嶋原岳迄海は城下より多比良の下迄昼夜火の柱が
立ち、岳より海に昼夜火玉が飛び、海は悪の霊が[夥敷|オビタダシキ]事
出、言語同断(道断)の次第也。[朔日|ツイタチ]の大浪が肥後に行
き塩屋人家[夥敷|オビタダシキ]事破滅致す。西は竹崎迄浜辺一通りは
残らず破損致す。竹崎の観音の石段迄浪上りたと申す事
也。
叉嶋原御殿様も今度の御[出立|イデタチ]は女中旁(方々)迄皆白装
束に白はち巻[鑓長刀|ヤリナギナタ]にて荷を荷なはせ、世に[珍敷立|メズラシキイデタチ]
也。
叉四月五日には佐嘉(佐賀)より御使者御目附十七頭御
越成られ、舩も十七艘神代の河に来り大騒動成り。
叉四月四日五日には嶋原に出来たる嶋岳より煙が吹出
し、前山(眉山)の大穴は大地獄に成り、大浪は南教留
り(京泊)迄行き、千々岩(石)小濱は大水が出、天草
は大浪の渡りて二嶋破滅致す。[依夫|ソレニヨリ]一嶌中昼夜[大軍|オオイクサ]の
如く言語同断(道断)の次第也。
或時四月四日五日[比|ゴロ]より海は壱里半も沖迄海の底より煙
が出、湯を吹出すと申す事也。叉権現山と申す所は広さ
十町[斗|バカ]り大木山成り。叉弁天山と申して八町[斗|バカ]り有る大
木山成り、其の嶋続きに壱日に塩千俵[宛|ヅツ]も取る塩屋有り。
此の塩屋隆嶋(猛嶋)蓮堀迄残らず破滅致す。
叉沖田の平松と申して嶌一番の大木有り。此の松は土ぎ
わよりねり切れ沖田の立(縦)道城したに流れ附く。叉
案徳(安徳)今村迄の所は岳の下に成り、人間牛馬に至
る迄少しも残らず、夢にも知らずして岳の下に成る事[哀|あはれ]
成る次第也。
叉大浪に流れたる人久留米、柳川に流れ附き、其の人は
難儀苦労も致さずして流れ行き、生きて居る人は柳河よ
り舩七艘に乗せて八十人[斗|バカ]りつれ来り。其の大浪の来る
処は田原中畠の中迄[夥敷|オビタダシキ]魚の類を打上げ、其の魚を
[夥敷宛|オビタダシキヅツ]ひろい取り其外の寄物初手はひろい取れとの
[仰付|オオセツケ]成れども[聢|シカ]と取る人もなし。其内に散りたる物は取
らずして、藏を破り盗みを致す者多く有り。[依夫|ソレニヨリ]其後寄
物取る事[叶|カナ]わず[御法度|ゴハット]に成る。[雖然|シカレドモ]十四五日の間は段々
となしに成る。
叉嶌原三會町上の町沢屋六左衛門と申す者の七つ子壱人
[須|ス]なの壱定(丈)三尺下より三日めに掘出し、其の子は
難無く命は持て(保て)[共|ドモ]、足に[疵|キズ]を致し、其の子は[夫|ソレ]
より神代に[遁|ニゲ]来り東小路利喜右衛門の所に宿致す。叉三
會三之沢より城下迄のつばさの鳥渡り来ると否や玉子を
持ちて其の子は育てずに玉子を喰い割りては落し〳〵壱
羽にても子は育てず、親鳥は皆[遁|ニゲ]去る。鳥畜より教えら
れても知らぬ犯否也。
或時叉檀那様は四月五日より陸地を御廻り成られ、[依夫|ソレニヨリ]
諌早迄御道具飯米諌早迄舩より積越し、御迎えが行く。
檀那様は御越成られ[掛|ガケ]に守山の庄屋の所にて殿様の御代
使は御勤め成られ、四月七日に神代に御着き遊ばす。
或時嶌原御領地当嶋は四万三千石の処成るに人間数十万
三千八百五十人有り。昔より[謂伝|イイツタ]えにも十万人に成るは
悪事が出来ると有ると謂う事也。叉三月[朔日|ツイタチ]より四月十
日[比|ゴロ]迄一嶋中昼夜境なしに東西を懸け人間の通路致す事
何万人とも知れず、蟻の堂廻り致す如くに成り、[依夫|ソレニヨリ]百
姓も田植、麦取納の儀を致す事一口(一向)叶わず困窮
に及□何程の[大軍|オオイクサ]と申しても昼夜境なし
の合戦は世には□。叉大名は敵より責(攻)落され
て城は[遁|ニゲ]出る者成れ[共|ドモ]、右[躰|テイ]の有様で大名の城を[遁|ニゲ]出す
事は日本始めては今一世には有るまじ。右の通り大騒動
乱国の事は昔物語にも聞き及びも無き[恐敷|オソロシキ]次第也。
[依夫|ソレニヨリ]此の物語の事は天向書日本一乱末世大平成ると申
すなり。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 308
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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