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項目 内容
ID J3000230
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔紀州経済史文化史研究所紀要第26号〕二〇〇五・一二・二八和歌山大学紀州経済史文化史研究所発行
本文
[未校訂](江戸期、城下近郊海浜部の防災堤防―紀州西浜村水軒堤防の築造期を中心に―)藤本清二郎著
はじめに
 二〇〇五年五月、道路拡幅工事と関わり、和歌山市内
西浜地区にある和歌山県指定史跡「水軒防波堤」の確認
調査をしたところ、見事な石垣堤防が検出された。(1)『和歌
山県史蹟名勝天然記念物調査会報告書 第二二輯』(以下
『調査会報告書』と略す)(2)の説明文によると、この遺構
は長さ三〇余町(三㎞余)で、内「石突堤」が一五町余
(一・五㎞余)とされている。史跡指定時には石垣はそ
の一部しか姿を見せておらず、大部分は土の防波堤とし
て存在したようである。一九〇三年(明治三六)頃までは、
石垣が全部露出していたとも記されている。そして史蹟
指定の解説文には、江戸期の初期に属する寛永年間(一
六二四~四四)に初代藩主頼宣が、藩士の朝比奈段右衛
門に命じ、二五万五千石の知行をもって工事を促進し、
一三年掛かって竣功させた。工事中三名の人柱を出した。
三度目の工事でようやく完成した。又和歌山城修築に使
用した和泉砂岩・雑賀崎石(緑泥片岩)を使用している、
などの伝承を記している。
 説明文中の「二五万五千石の知行」は領主紀伊徳川氏
の知行の約半分(おおよそ一ヵ年の年貢収量)であり、
説明文は意味不明である。人柱も信じがたい。残念なが
ら出典や根拠資料が明示されておらず、寛永年間の一三
年間築造説を検証することはできない。
 ところで、以下に紹介するように、吉宗がこの石の堤
防を築いたとの説が『和歌山県海草郡雑賀村郷土誌』(3)

記されている。そこで、可能な限り関連史料を博捜して
この石垣が吉宗の時期に築造されたものか否かを検証す
る。
一 吉宗による石垣堤築造
 『和歌山県海草郡雑賀村郷土誌』(以下『雑賀村郷土誌』
と略す)は明治四二年(一九〇九)に編纂された地誌で
ある。雑賀村は近世の西浜村等を含む、明治二二年(一
八八九)成立の村である。この書の「第一編自然誌」の
「四、地勢」の「(ホ)海岸(一)」には次のような記載があ
る。
何づ地も同じ砂浜の特徴として海岸の出入少なく、
本村も亦一例たり。特に本村は西方僅かに荒浜の海
岸を有するのみなれば、湾と名づくる場所、岬と称
する地、島と呼ぶべきものも有せず。従って海岸線
の如きは延長僅かに拾七町余に過ぎず、而してその
海底遠浅にして弐参拾間の沖合と雖も、尚ほ且つ徒
渉し得べし。また海底の大部分は砂地にして、沖合
いに至るに及び漸次泥地となる。海岸一帯は砂浜に
して、岩磯、山などと称すべきものなし。之れ昔(イ)時
本村西部の地方、海浜なりしも海床の変動によりて
海岸は漸時沖合い遙かに退きて、遂に現今見るが如
き砂丘を波打際に築くに至る。こ(ロ)れより後丘東に人
家、北より南に軒を連ねて建て並べ、農を業とし、
かてはら(傍らカ)漁を業とするに至りて、村落此処に開けた
れば、一(ハ)朝大浪の襲い来たりて此の砂丘を奪い去ら
むか(が)、民家、畑地を流失し、村落此処に滅落するの
悲境を見るに至るのみならず、この辺一帯の難を避
くること能わざれは(ば)とて心(ニ)あるもの松樹を植え附
け、保安林として以って今日に至る。後(ホ)ち、徳川氏
中興の祖と仰がるる明君吉宗公の未だ紀伊国の領主
たりし時、この砂丘は国防上より見るも一層堅固な
らしむるの必要ありとし、石垣堤を築づき上げ、安
全を永久に保たしめんとせられしも、工時全く終わ
りを告げざるに急かに将軍職を継がるるに及びて、
此の大工事も中途にて止むるの巳むを得ざるにいた
りしなりといふ。然れども本村海浜の大部分は出来
して、斯く堅固なる防波堤を作り残せる。之れ吉宗
公の賜物とこそいひつべし。
 また、「第弐編人文誌」の「十二、交通」には次のよう
な記事がある。
特別工事
特(ヘ)別工事として見るべきものは只本村西部海浜
に、砂防工事として旧領主徳川吉宗公の築かしめ
し石垣堤あるのみ。
 傍線部(イ)には、雑賀村の西部(近世には西浜村)
海浜部波打ち際の東側に砂丘があり、(ロ)にはその東部
に南北に延びる集落が形成されたことが記されている。
なお、この集落形成期は一七世紀前半期から一八世紀前
半にかけての頃と指摘されている。(4)
 ついで、傍線部(ハ)(ニ)には、「大浪」に襲われた
ならば砂丘が破壊され、水軒の集落が壊滅し、さらに周
辺(雑賀村の他の大字等)の集落・耕地も被害を受ける
から、その防災のために松を植え、保安林としたと記さ
れている。「第弐編人文誌」「二、大字区画」には「水軒
は本村の最西にあり、北より南に延亘す。西方ハ一帯に
松林を帯び、紀の海に臨む。東方は水軒川を隔てヽ西浜
に対す。農を業とし、傍ら漁業を営む。」とある。すなわ
ち、水軒集落の西部に松林があると記されているが、こ
れは上記の保安林のことである。本書ではこの保安林の
植樹の時期について明言していないが、集落形成期であ
る一七世紀に遡ることを暗示していると判断される。
 そして最も注目すべきは次の点である。傍線部(ニ)
につづいて(ホ)に、吉宗が藩主であったときに、この
砂丘を「堅固」にするため「石垣堤」を築くことが計画
された。吉宗が将軍となったためこの「大工事」は途中
で終わったが、これにより雑賀村(内、近世の西浜村領
域)の海浜部に「堅固なる防波堤を作り残せ」たとの記
事である。(5)また別の箇所でも(ヘ)のように吉宗が築造した
ことを明記している。吉宗が紀伊徳川家の五代藩主とな
るのは宝永二年(一七〇五)で、将軍となるのが正徳五
年(一七一五)である。すなわち『雑賀村郷土誌』によ
れば、石垣堤は吉宗が藩主在職中の一〇年間の内に築造
されたこととなる。ちなみに朝比奈水軒について『雑賀
村郷土誌』は、「水軒の村名は徳川時代郷土朝日(比)奈段右衛
門なるものこの地を領主より拝領したり、朝日奈、号を
水軒といひしより遂にこの地の名とせしとぞ。」(「第弐篇
人文誌」「二、大字区画」)と触れているが、同人と石垣
は結びつけられていない。
 ところで、これらの『雑賀村郷土誌』の記事が何を根
拠として書かれたかは不詳であるが、同書は石垣堤が全
面的に露出し、それが人々の記憶にある時代に編纂され
ており、かつ同書は地元(雑賀村)が編纂し、海草郡役
所に提出した地誌であることが注目される。この本書の
成立経緯からすれば、上記の伝承が水軒地区(近世西浜
村の小名)に伝わっており、『雑賀村郷土誌』編纂者がこ
れを採録、採用したと推測されるが、この伝承が他の事
実によって傍証されうるかが問題となる。(6)
二 宝永大地震と石垣堤
 宝永四年(一七〇七)一〇月四日午後二時過ぎ頃、紀
伊半島西部を大地震が襲った。このときの様子を和歌山
城下近郊の名草郡岩橋村に在住する湯橋吉郎太夫長泰
(当時一七歳)は自著『長泰年譜八 歳時外記』(7)に次の
ように記録している。(8)
一、宝永四丁亥年(中略)一〇月四日午下刻、大地震於当
国前代未聞候、潰家多、圧死所々ニ有、田畑・道堤
等ゆりわれ、水或ハ青砂吹出し候、同日未ノ刻坤ノ
方ニ当て夥敷震動、其音大筒鉄炮ノことし、此時海
辺江津波上り、黒江・日方・弘(広)・湯浅其外熊野筋
浦々、波ニ引レ大舟にしかれ、家・蔵大分流失、尤
死人所により五百、七百ニ及ふ、高波壱丈或ハ弐丈、
海魚陸地に踊り、人馬大海ニ漂ふ、亥刻ニ至り高波
(太)平也、但、和歌山・加田浦・塩津なとハ津波上り不
申、惣し而遠浅之浦々高波揚ル、乍然、湊口大潮港へ、
川口より大船押シ込、伝法ノ橋三ニ切レ落ル、大阪
も大地震津波上り、死亡七千余人也、已後地震之後
十日程ノ間者天水こほるゝ程ノ地震十度、十五度も
昼夜ゆり候故、庭に小屋をうち、寝臥せしむ、町屋
等累地無ノ者ハ在郷又ハ寺林をかり、仮屋かけすへ
(据)て、和歌山本町一丁目下馬或ハ追廻し馬場、或ハ柳
堤等小屋にて空地なし、十一月中ハ一昼夜或ハ二、
三度宛、地震次第ニ軽相成、十二月ニ入候而地震静り
申候、此節之儀、難尽筆紙、予ハ其節栗栖山下五株
庵端門禅師方ニて致学問居候而、早速令帰宅見候処、
蔵之壁落有之、家座敷等も少ゆるみ申候而、戸障子柱
たてつけ透申候、地震以前之家々町在共如此ナリ、
 湯橋吉郎太夫は地震がおこったときは近隣の栗栖村に
いたが、直後に見分し、また入手した情報を記録したの
であろう。伝聞も含まれるが貴重な記録である。これに
よれば黒江以南の海浜部へ津波が押し寄せ、大きな被害
が出たことがわかる。傍線部のように和歌山(おそらく
湊村・西浜村の海浜部)や加太の遠浅の海岸には「高波」
が「揚」った。津波と区別される「高波」がいかなる実
態を指すかは今後の地震学における研究を待つこととし
たい。
 同じ頃、紀州蕃に抱えられ、水利灌漑施設築造の指導
をしていた大畑才蔵は伊都都の市原村に滞在していた
が、この地震を次のように記録している。
同四日(一〇月)未上刻、道七、八丁あゆみ候、その内老人も
覚え無之と申程の大地震、地一、二寸つゝわれ(割)ひゝ
き、地方にては床よりとろ(泥)水・砂なと吹出す、家々
ゆかみ(歪)不申ものなし、
 大畑才蔵は一〇月一日から九日まで同所に滞在し、一
○日から一三日まで和歌山に滞在した。そして
同十三日夕より廿日朝迄 海士郡浦方塩浜御用 三
葛村 紀三井寺村 西浜
と記されている。三葛村・紀三井寺村はいずれも近世初
期から塩浜が多く存在し、小物成高が決められていた。(10)
西浜村にも一七世紀末頃約四町歩の塩浜があった。(11)
 大畑才蔵はまず城下近辺の塩浜の様子を見分したが、
その後に、領内海岸部の塩浜が大打撃を受けたことを知
ることになる。
 大畑才蔵が記録した日記(仮題「才蔵勤書」)(12)によると、
地震の翌年宝永五年(一七〇八)正月一九日から二一日間
「海士(郡) 浦方破損」を見分し、閏正月には「海士・有田・
日高(郡) 浦」の「破損所」を見分し、五月二一日より一九
日間「海士・名草(郡) 在々破損所見分」、七月四日より「有
田・日高(郡)はそん(破損)所見分」とある。また八月一日から三一
日間「有田・日高破損所見分」をしている。このように
同人は藩役人(おそらく勘定奉行)の指示で、藩領沿岸部
の地震による被害調査をおこなった。
 さて、七月~八月には西浜村領の堤を見分したとの記
事がある。
一、七月八日ゟ八月一日迄若山詰ノ内、西浜堤破損
し、地方損亡見分 十二日
 すなわち、領内沿岸部各地を見分した後で城下に連な
る西浜村領を見分した。地震直後には塩浜の状況見分を
行ったが、今度は「西浜堤」の「破損」状況と、周辺の
「地方」(耕地と集落)の「損亡」を見分していることが
わかる。まず堤については「西浜堤」と呼称されている
こと、それが「破損し」ていることが注目される。ここ
で注目されることは、宝永四年段階で西浜村領に「西浜
堤」と称される「堤」が存在していたことである。地震
で「破損し」たこの「堤」はどこにあり、どのような形
状・構造であっただろうか。
 まず、この堤が塩浜堤を指すことも考えられる。次の
史料は貞享三年(一六八六)七月の台風被害を記録した
1ものの断片である。(13)

一、新塩浜三町九反三畝拾八歩 西浜村領
小碁惣兵衛様御組同心衆
此高三拾九石三斗六升
一、堤切口五ヶ所ニ九拾壱間
一、四間ニ五間 居家壱間 つぶれ
一、四間半四方ノ釜屋壱間 つぶれ
(以下略)
 この塩浜の所在地は、のち西浜村領古川口南側の大浦
地区に塩浜(塩田)があったことから、近世前期にあっ
ても同じ地域に存在したと推定される。(14)しかし、宝永四
年地震直後に「塩浜御用」で「西浜」を見分しているの
であるから、「西浜堤」が塩浜の「堤」とすれば繰り返し
となり、不自然である。「西浜堤」は塩浜堤ではないと考
えるのが適当であろう。塩浜であれば「塩浜堤」と表現
するのではなかろうか。塩浜の所在地は「塩浜通り」(15)と
記されるのが一般である。
 さて、大浦の塩浜堤ではないとすればやはり西の荒浜
に面した海浜部に堤があったと考えるのが妥当であろ
う。このように確かに堤が存在したが、これは石垣であ
ったとは記されていない。『調査会報告書』は、十七世紀
の早い時期の寛永年間に築造された防波堤をはじめから
石垣と考えているが、その点が問題であろう。後に石垣
である物が最初から石垣である必要は全くない。『調査会
報告書』が寛永年間に築造したとする堤が石垣ではなく、
川や池の堤防と同じく土堤であれば整合的に理解しう
る。
 先に引用した『雑賀村郷土誌』の記事には「この砂丘
は国防上より見るも一層堅固ならしむるの必要あり」と
ある。松が植樹された堤は砂丘に連続するもので、この
存在を前提として、その「堅固」化のために石垣修復が
採用されたと考えることができるであろう。なお「国防
上」との表現は明治四〇年頃の表現であるが、吉宗の時
期には沿岸一帯が大打撃を受けたことから判断して、領
内塩生産確保や浦方集落の保護の観点から沿岸地域の防
災を重視したのではないかと推測される。就中、湊村・
西浜村は城下と連続する地域である。すなわち、城下の
防災対策、防備の観点から西浜堤の石垣化、堅固化を図
ったと考えることができるであろう。
 ところで、一九世紀初め頃に編纂された『紀伊続風土
記』巻二一海部郡雑賀荘上の「荒浜」の項には(16)次ぎのよ
うな記事がある。
雑賀荘西の方向に向ふ浜をいふ、波打際より二
町許にして高き砂山長堤を築くが如く、南の方古川
口に起りて、邐迆として西北に連り、今の川口に至
りて尽く、其長殆三十町許西の方は西浜領にして北
の方は湊領なり、長堤の上長松万株駢列して蒼翠掬
すべし、其下波打際に至り白砂雪の如く清潔喩ふる
物なし、
 傍線部二ヶ所の記事によれば、砂丘が長堤のようであ
り、その上に松が植生しているとのことである。(14)一八世
紀前半期(吉宗藩主在位期)に築造された石垣堤に関す
る記載は無く、「長堤」=砂丘の記事しか見えない。同所
が編纂された一九世紀に石垣は亡失したのであろうか。
次に見るように一九世紀後半期に描かれた絵図に石垣堤
が見えることから、「長堤」は当時砂に覆われ砂丘に見え
たと理解される。編者が生きた時代には石垣の姿が見え
なかったので記されなかたのであろう。
 幕末期にはペリーの来航後、海岸の軍事的防備が図ら
れた。大阪湾から紀伊半島にかけて砲台場(お台場)が
造成されたが、これを描いた「異船記」には明らかに西
浜村領海浜部の石垣堤が描かれており、「水軒石垣辺」と
場所特定の表示として使用されている。このような描か
れ方からお台場築造以前から存在したことが明らかであ
る。同時期作成の別の「海防図」にも同じ位置に石垣堤
が描かれている。
 以上、宝永の大地震をきっかけに、元からあった堤が
石垣堤に修築されたのではないか。つまり石垣堤は宝永
五年(一七〇八)~正徳五年(一七一五)に築造された可
能性が高く、その後、時に全面的に砂をかぶり、埋没し、
時に露出しながら今日まで維持されたことを述べた。
三 朝比奈段右衛門
 石垣堤について、以上のような事実が想定されるなら
ば、朝比奈段右衛門はいかなる活躍をしたのであろうか。
図1 異船記
図2 海防図
この点を検討しておこう。まず朝比奈段右衛門について
みておく。
 朝比奈段右衛門の史料上での初見は「御家中諸士先祖
書」の次の史料である。なお、同書は記載事項から、寛
永一八年(一六四一)以降おそらく一七世紀半ばに成立
したと推定される。
朝比奈段右衛門
一、先祖の系図朝比奈源六所ニ御座候、内々承候得
共しかとハ不存候、重而系図懸御目可申候、(中略)
 さて、朝比奈段右衛門及びその親の詳細は分からない
が、決して上級家臣ではなく元々は軽輩であった。段右
衛門は約一六町歩(二一五石余)の広さの拝領地を得、
次男は家臣団へと登用された。これは約束事であったと
も理解される。このような藩主からの朝比奈段右衛門へ
の賞与は何に対してであろうか。(石垣堤の造成に対して
でないとすれば)土製防波堤・防風林(防砂・防潮林)
の設置の功績に対してであったと解釈することができよ
う。
 防波堤・防風林の築造には軽輩の単独の力でなせると
ころではなく、土木工事の技術、労働組織などについて
も検討しなければならない。
 それにしても一人段右衛門のみが注目されるのはなぜ
だろうか。それは、段右衛門の移住目的が耕地開発とい
うよりは、むしろ防風林の継続的な維持管理(継続的な
植樹)、防波堤の保守管理にあったからであり、担当者の
移住が不可欠と判断され、段右衛門とその末裔がそれを
担ったからであろう。この地の耕地開発は移住後にかな
りの時間を要したが、初期の藩政にとって重要と判断さ
れた内容は、西浜村領の耕地拡大ととに、その前提とな
る西浜=荒浜、古川口の防災対策であったといえよう。
むすびに ―西浜村の開発と関わって―
 慶長六年(一六〇一)検地で西浜村は四五八石七九三
(約三〇町歩)であった。これが「元和以後」水軒川の
掘割と築堤(東堤と西堤)により「左右に新田畑」とい
う開発が進んだ。宝永三年(一七〇六)新田畑改めで「七
百石許」が新田畑に登録されたとある。年不詳(近世後
期)の「御領分御高并村名帳」では、西浜村一二二九石
七六六、外に万引高四〇石六三九、長賢寺九石二五七が
あった。小物成高五九石九二二を除き、引高・寺領を含
めた西浜村高一二一九石七四と朝比奈水軒拝領地二一五
石二九七四の合計が『天保郷帳』『紀伊続風土記』の高(幕
府届出高)一四三五石〇三七四となっている。
 要するに、小名水軒を除く西浜村領で一七世紀中に約
七〇〇石の耕地開発があり、小名水軒で一七世紀後半期
以降に約二〇〇石の耕地開発があった。石垣堤の新築造
は城下と隣接地域の防災対策であろうと考えられるが、
これらの耕地開発、集落に形成にも対応していたであろ
う。

(1) 二〇〇五年五月一六日から発掘調査がなされ、同
月二八日に現地説明会が行われた。またその成果を
元に七月九日に和歌山県文化財センター主催でシン
ポジウム「県指定史跡 水軒堤防を考える」が開催さ
れた。
(2) この『調査会報告書』は戦前の調査を元に、一九六
○代に刊行されたものである。
(3) 同書は海草郡役所が編纂を命じ、当初は同役所で
保管していたものの、何かの事情で小滝徳五郎氏が
所管するところとなった。拙稿「戦前期海草郡加太町
の小滝徳五郎とアーカイブズ―海草郡の『郷土誌』
と和歌山県政資料」『紀州経済史文化史研究所紀要』
第二三号、二〇〇三年
(4) 垣内篤麿「新田村としての水軒―社寺関係から考
察して―」(和歌山地理学研究会『和歌山地理学研究
会報告 第2集―和歌山市水軒地区の研究―』、一九
六四年、一九頁)。三尾功氏のご教示による。
(5) この工事が雑賀村(内、近世の西浜村領域)以北の
湊村領の海浜部までを計画していたものの、中座し
たとのことであるが、湊村領海浜部の砂丘の高さか
ら考えてこの部分は予定されていなかったとも考え
られる。
(6) 「大字区画」の項に「水軒の村名は徳川時代郷土
朝日(比カ)奈段右衛門なるものこの地を領主より拝領した
り、朝日奈号を水軒といひしより遂にこの地の名と
せしとぞ」とある。これら、水軒の地名由来や朝比奈
水軒については『紀伊続風土記』の記事によったこと
が推測される。
(7) この『外記』を作成するに至ったきっかけは「丁亥
之災変堪驚」であると記している。一一月二三日の富
士山噴火についても伝聞を記録している。
(8) 概要は『和歌山市史』第二巻二九四~五頁に紹介さ
れている。三尾功氏のご教示による。
(9) 「大畑才蔵日記」、『南紀徳川史』第一〇冊、六九九
頁。
(10) 拙稿「近世和歌の浦の歴史景観」『和歌山地方史研
究』一七号、一九八九年
(11) 拙稿「襖下張の紀州藩郡奉行役用文書について」
『紀州経済史文化史研究所紀要』第一六号、一九九六

(12) 大畑才蔵全集編纂委員会編『大畑才蔵』(橋本市発
行)に収載、一九九三年刊。一六〇頁。三尾功氏のご
教示による。
(13) (11)に同じ。襖の下張り、前後の年代関係、寅年か
ら推定。
(14) 『和歌山県地名大辞典』西浜村の項。一七世紀三九
石であったが、近世後期は五九石余に拡大している。
おそらく古川の沿岸地域で拡大されたのであろう。
(15) 年不詳(近世後期)「御領分御高并村名帳」『南紀徳
川史』第一〇冊
(16) 完成は天保一〇年(一八三九年)。
(追記) 本論文は、シンポジウム「県指定史跡 水軒堤防
を考える」で報告したことをきっかけに、その会場
でいただいたご意見・ご批判を含めて再構成して
執筆したものである。この場をかりて関係者に心
からお礼申し上げる。
(追記2) 図1、図2にみえる古川口の西へ突出した突
堤も併せて防災設備と考える必要があるのでは
なかろうか。和歌山市立博物館『’〇五秋季特別
展 和歌浦―その景とうつりかわり―』掲載の
資料Ⅰの19、20(三七頁)にも描かれている。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 157
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 和歌山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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