[未校訂]宝永地震
宝永地震は宝永四年(一七〇七)十月四
日未の上刻頃に遠州灘沖を震源に発生し
た。マグニチュード八・四といわれる。この地震は広範
囲にわたって揺り動かしたもので、北は出羽国から南は
薩摩国まで揺れたという記録が残っている。この地震の
あと十一月二十三日に富士山火口が爆発し、宝永山が生
じている。
刈谷付近の震度は六であったと推定されている。また
地震による津波の被害も遠州沿岸及び伊勢・志摩地方を
中心に甚大であった。碧海郡伏見屋新田(現碧南市)で
も津波の高さが三メートルであったと推定されているから
(『愛知県被害津波史』)、この津波は衣ケ浦を逆上ってきて、刈谷付近
にも多大な被害を与えたものと思われる。
刈谷の被害を示す資料はほとんどないが、『明応地震・
天正地震・宝永地震・安政地震の震害と震度分布』には、
「刈屋 潰家あり」とあり、また『新収日本地震史料』
補遺別巻には、「岡崎・刈屋・横須賀城内櫓・塀・石垣等
所々崩之旨告之」とある。このほか、城内の櫓が一か所
崩れ、残りの櫓と多門渡櫓が破損した。また石垣の大方
崩れ、塀は残らず崩れてしまった。藩主阿部伊予守の居
宅は少しの破損ですんだが、三の丸の家中屋敷は破損の
状態がひどかった。外曲輪の侍屋敷や町屋は別条なかっ
たが、城内のあちこちで地割が生じていると藩主阿部伊
予守は地震の状況を幕府に報告している。東海道の被害
状況を調査したものには、岡崎は少し橋が落ちており、
池鯉鮒は無事、鳴海・宮は随分破損していると書かれて
いる。城の被害のほか農村地域の被害も大きかった模様
で、正徳四年の(一七一四)小垣江村年貢割付状に「六
斗二升七合 大地震已来海被成、甲午年ゟ引之」とあり、
これは明治四年(一八七一)までずっと年貢が引かれて
いる。