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項目 内容
ID J3000197
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔静岡県史通史編3 近世一〕H8・3・25静岡県編・発行
本文
[未校訂]僧教悦元禄大地震覚書
沼津市[東熊堂|ひがしくまんどう]に浄土真宗の大泉寺があ
る。この寺に元禄の頃(一六八八~一七
○三)教悦という住持がいた。教悦は元禄大地震を経験
したことから、「末ノ代ニ見ル為ニ右ノ通リアラアラシル
シヲキ候」といって、「元禄十六癸未十一月□(廿三カ)一日夜丑之
刻大地震事」(旧『県史料』一―五三一~五三三ページ)
という覚書を残している。これによって元禄大地震の各
地の被害の状況をみると、
①地震の発生は、元禄十六年十一月二十一(三の誤り)
日の夜の「丑之刻」、つまり午前一時から三時頃の間で
あった。
②地震は駿河国より東、とくに相模国箱根・小田原で激
しく、家は倒壊、火災も発生、死者も出た。とくに大
久保加賀守の小田原城は倒壊し、数え切れないほどの
死者がでた。
③下田から東浦(伊豆東海岸)の浜方の村々に津波が押
し寄せ、家も人も被災し、甚大な損害が出た。
④小田原より東の浜方の村々は人も家も大変な被害をう
け、地震と津波で死者三十余万人であるという。
⑤駿河国より(伊豆西海岸も含む)西の方は地震は軽徴
で、津波もなかった。
⑥一方、東熊堂より北の山方、天盛より上尾尻(現在の
御殿場市の南端、裾野市境の地)へかけ、だんだん地
震が強くなり、二枚橋・御殿場(以上御殿場市)・竹ノ
下(小山町)などでは家屋の倒壊も激しく、死者もま
た多かった。大地には七~八尺の地割れが生じ、また
山崩れも発生して、寺などを埋めてしまうなど、被害
は極めて大きかった。
(三)⑦この山家の地方(御殿場・小山地方)は二十一日より
日に五度、三度と揺れ、翌宝永元年(一七〇四)正月
末まで余震は続いた。
⑧[御厨|みくりや]地方は毎日大揺れで、小屋掛けした仮設の住宅で
年を越した。熊堂付近では小屋住まいが十二月十三日
頃まで続いた。
⑨十二月二十八日の余震は相当激しく、御厨地方では早
朝卯の刻(午前六時頃)より揺れ出し、小屋掛けの仮
設の住宅も揺り崩すような強い地震が一日中続い
た。
⑩十二月二十二日の小田原付近の余震は相当に強く、人
も大分死んだという。
というように、教悦の住む熊堂を中心に、相模・伊豆東
海岸・御厨地方、さらには駿河国以西それぞれの地震の
状況を伝聞を交えて伝えている。
伊豆東浦の津波
このような教悦の書いた「覚書」の中で
注目すべきことは、伊豆東浦、つまり伊
豆半島東海岸を襲った津波であった。伊豆東海岸を襲っ
た津波についての研究は、これまでも旧町村誌の中でも
取りあげられてはいるが、総合的に考えられたことは少
なかった。
 この津波については、『静岡県史』別編2「自然災害誌」
で詳論するので、ここではその概要についてみておこう。
 『[増訂豆州志稿|ぞうていずしゅうしこう]』巻一の祥異の頃を見ると、「同十六年
(元禄)癸未十一月廿二日大島大震[海立|ツナミ]富ノ池欠壊与海連」とあ
り、また「同日地震伊東・川奈・宇佐美・諸村海嘯和田
村民居百六十余、田畠蕩尽シテ海原トナル」などとあっ
て、伊豆東浦を襲った津波(海立)の様相について伝え
ている。
 前者は伊豆大島の南部に、大島の成因にも連なる噴火
口があって、これは富ノ池とも波浮池ともいわれて水を
湛えていたが、元禄地震によってこの火口壁が決壊して
海と連なり、現在の波浮港の原形が形成されたことを伝
えている。また後者は、元禄地震が引き起こした津波が
伊東・川奈・宇佐美の諸村を襲い、和田村では民家一六
○余を流し、田畠にも浸水して海原と化してしまったと
いうのである。この記事について伊東市の現状に合わせ
て考えてみると、伊東市内を西から東に貫流する松川が
あり、この松川の河口から約三キロメートルほど上流に
溯った伊東競輪場の北方に通称「船のほら」という地名
がある。この「船のほら」は、元禄地震によって発生し
た津波によって流された数隻の舟が流れついた所といわ
れている。また、その北方には津波地蔵が祀られていた
といわれている。この津波地蔵は伊豆急行線南伊東駅の
開設にともなう市街地の開発にともなって、どこかに移
されてしまい今は見ることはできないが、津波地蔵のあ
った所は津波の到達点を示したものであったと伝えられ
ている。また、この付近には「塚田」という字もあった
という。「塚田」は、元禄地震の津波で溺死した死体が津
波によって運ばれてきた場所に建てられた供養の墓石に
由来するという。
 このように「船のほら」「津波地蔵」「塚田」などと伝
承されている事実から、『増訂豆州志稿』の伝える「田畠
蕩尽シテ海原トナル」という記載が、あながち誇張では
ないことが知られるのである。
津波供養塔さまざま
現在伊東市内には元禄地震にかかわる三基の津波供養塔がある。一基は日蓮宗仏現寺、一基は川奈の曹洞宗恵鏡院、残る一基は宇佐美の
日蓮宗行蓮寺にあるものである。
 仏現寺の津波供養塔は、もと海岸に近い山平旅館付近
にあったものを仏現寺に運んだものであるとか、山平旅
館の近くにあったものと同じ供養塔が仏現寺山中にあっ
て長いこと放置されていたものを、昭和二十年代に仏現
寺住持が祖師堂登り道の石段横に運び安置したものとも
いわれ、関東大震災による犠牲者の供養塔とともに並ん
で建っている。この供養塔の碑文には、「妙法三界万
霊等(塔)元禄十六癸未年十一月二十二日夜丑時地震津波当
所水難亡魂老若男女壱百参拾余名」と記されている。仏
現寺の下方に広がる集落では襲い来る津波によって老若
男女一三〇余名が水難に遭ったので、それを供養するた
めに建てられたものである。一方、『増訂豆州志稿』の玖
[須美|すみ]村和田の頃には、「元禄十六年十一月廿三日ノ夜地震
海溢シテ人死スル者百六十余人、田地皆蕩尽シテ砂原ト
ナル」とあって一六〇余人の溺死者が出たと記されてい
る。この両者では三〇余人の差がみられるが、仏現寺下
の地域にあっては一三〇人ないし一六〇人余の津波によ
る溺死者があったと理解すべきものであろう。
 なお仏現寺には、祖師堂付近の松の木の枝に鉄瓶がか
かっていた(一説には海藻)という伝承もある。この伝
承には信じがたいところもあるが、仏現寺北側の斜面の
標高二〇メートル付近は古くから墓地になっていて、
木々も繁茂しているから、その下方部の木に鉄瓶でなく
とも海藻などがかかっていたとすれば、その高さこそ津
波の押し寄せた高さであったのかもしれない。
 また、川奈の集落を眼下に見る高台に曹洞宗恵鏡院が
ある。この広い庭の一隅に「有縁無縁万霊供養塔」があ
る。この供養塔は、川奈の集落にあって今では廃寺とな
った林光院の門前に建てられていたものを、恵鏡院に移
転したものであるという。それには次のように刻まれて
いる。
元禄十六年未十一月念二日
有縁無縁萬霊供養等
(塔)地震並津波村中死人数二百余人
川奈は小さい集落ではあるが、二〇〇余人の尊い命が地
震にともなう津波により失われたのである。
 また、川奈には海蔵寺という寺がある。この寺には元
禄地震の津波や関東大震災によって発生した津波につい
ての伝承がある。海蔵寺には正面から本堂に登る二三段
の石段があって、関東大震災の時の津波はこの石段の下
から七段目まで達したといい、元禄地震の津波にあって
は上から数えて二段目か三段目に達したと伝えられてい
る。これはNHKの調査研究によると、ハンドレベルに
より海面からの高さを測ると、関東大震災の津波は五・
三メートルの高さのものであったであろうとされ、元禄
地震の津波はそれよりも二・九メートルも高い八・二メ
ートルもある津波であったであろうとされている。こう
した強烈な津波が深夜に襲ってきたのであるから、逃げ
場を失った多数の犠牲者の出ることとなったのである。
 次に伊東市宇佐美の場合について見よう。宇佐美[留田|とまた]
の海岸近くに日蓮宗行蓮寺がある。この境内にかなり高
い供養塔がある。供養塔は、元禄地震の発生から数えて
六〇年目にあたる宝暦十二年(一七六二)十一月二十三
日建てられたものである。
供養塔には、次のように刻まれている。
(正面)宝暦十二壬午天十一月二十三日建之
津浪流死之諸聖霊第六十年忌
(右側面)元禄十六年癸未年十一月廿二日夜半東国大地震、
動寝席欲起転欲立倒、皆思惟天地滅却、震止後
心地如甦、邑老相集謂、伝聞、寛永十癸酉年正月
十九日大地震之時、河井水乾、海面潮退五六町、
魚在砂上数多也、壮父走取之、帰陸後津浪漸
来、民屋漂破、溺死者両三人、今正当七十一年、
今又然哉与否哉、隣家互音問臨河井水不乾、窺
海上潮不退而津浪俄来、周章騒動雖逃走家屋漂
流溺死者大凡三百八十余人、運命尽期乎、将(又)□前
世之宿因所感乎、
今正当六十年、天運遷還無不往復、願後人為今遁
復轍之難記 旭光山(左側面)行蓮寺 願主 題目講中 現
住日全
これによると、元禄十六年十一月二十二日夜半の地震
揺れは激しく、寝ていたので起きようとしても起きられ
ず、立つこともできない激しい揺れで、これで天地は滅
却し、この世も終わりかと思うほどであったという。こ
れに関して古老の語るところによると、今から七十年前
の寛永十年(一六三三)正月十九日の大地震の時は、川
は涸れ、海水は五~六町(約六〇〇メートル~七二〇メ
ートル)も退き、多数の魚が砂上にバタバタしていた。
これを見た屈強な村人たちは我先にと魚を獲りにいき、
獲り終えて帰ると間もなく津波が押し寄せて来た。津波
によって民家は流されたり壊されたりしたけれど、亡く
なった人はさいわいにも二~三人であった。
 けれども元禄地震では、川はかれるということもなく、
ましてや海水の退くこともなく、急に津波が襲来したの
で、暗闇の中を慌てて逃げまどい、津波で溺死したもの
は三八〇余人に達したという。これら非業の溺死した
人々の菩提を弔うため、行蓮寺十三世日全がこの供養塔
を建てたというのである。また、行蓮寺から少し山寄り
の花岳院の過去帳にも、この寺の三十八世学峰禅海の見
聞した元禄地震の様子が記されている。
 これらの記録によると、地震による津波には、地震が
揺り止んでしばらくたって襲来するものと、直後に来る
ものとの二つのタイプがあることがわかるが、これが何
に原因するのかは必ずしも明らかではない。
 元禄地震による津波は、伊豆半島南端の下田にあって
も相当激しいものであったらしく、流失家屋三三二軒、
半壊家屋一六〇軒、破船八一隻、溺死者は三七人とも二
○人ともいわれ、下田湊の復旧には相当の時間を必要と
したという。
富士山の山鳴り
沼津市東熊堂にある大泉寺の僧侶教悦の
覚書に記されている「伊豆之国之内モ、
下田ヨリ東浦浜方ノ分、皆津波上リ、家モ人モ皆ナ破損
ナリ」という記事の具体的な様相を、伊東・川奈・宇佐
美等の場合について津波供養塔を中心にみてきた。あま
り大きくない村々であったが、合わせて八〇〇余人の溺
死者がでたことは、真夜中であったこともあるが、地震
と津波の恐ろしさを教えてくれるように思うのである。
 ところで、僧教悦の記した覚書の中で、いま一つ見逃
してはならないのは、「扨又極月晦日ニハ富士山ナリ(鳴)、正
月二日、三日両日ニハ大分ニナリ、ソレヨリ地震少ヅヽ
ニナリ、自然トユリヤミ候」とある記事である。
 すなわち、元禄十六年十二月晦日になると富士山で山
鳴り(地鳴り)が始まり、翌年正月二日、三日にはかな
り激しく鳴ったというのである。こうした山鳴りをどの
ように解釈するのか。元禄十六年十一月二十三日以降に
発生した関東一円の地震は、その後も余震がおさまらず、
翌宝永元年正月になっても続いていた。とりわけ御厨地
方の余震は、他地域の余震が静まりつつあるなかにあっ
ても依然として大揺れ続きで、小屋掛けしての生活は正
月になっても依然として続いていた。
 こうした御厨地方の地震は、小田原周辺の余震よりも
若干性質の異なる群発地震へと変化したもののようにも
思われ、それがやがて元禄十六年の晦日(大晦日か)か
ら翌年正月二日、三日の富士山の山鳴りに連なっていく
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 76
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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