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西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

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項目 内容
ID J3000068
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔近畿地方中北部・中部地方西部〕
書名 〔天龍村史上巻〕○長野県天龍村史編纂委員会H12・11・24 天龍村発行
本文
[未校訂]一〇 地震崩れの伝説
 宇連の大蛇に「大蛇が池」の伝説がある。昔、大蛇が
棲む池があったが大地震で崩れた。大蛇は和知野川に下
って天竜川に出、千木沢川をさかのぼって深見ノ池をつ
くって移り棲んだという。
 この伝説にコメントする。深見ノ池は寛文の地震で崩
れた記録が残っている。寛文地震は寛文二年(一六六二)
に近畿北部で起きた大地震で被害は三河・信濃までおよ
んでいる。この余震は寛文三年も続いている。松川町長
峰にもこの時に崩壊したらしい言い伝えがある。
 大蛇の上流に鬼ヶ城がある。蛇や鬼は崩れに関係した
地名といわれる。栃沢の四五〇メートル付近の谷底は平坦で最
近まで水田だった。崩壊地だったかも知れない。
(注、次の記事は何時の地震によるか不明である。一応こ
 こに掲げておく)
五 十久保の地震跡
 十久保は満島から三キロメートル下った天竜川左岸の集落で、
136 大蛇の栃沢。450m付近は平坦となり、水田をつくっていた
133 十久保の地震たんぼ。熊谷猛夫さんの水田(矢
印)は地震のとき二つに割れ、谷側が2.5mずれ
落ちた
134 十久保の出道石(デードイシ)は波田野茂富さ
んの畑にある。地震で山から飛んできた。家の
守り石にしている
標高四五〇メートルから二五〇メートルの天竜川に下っている斜面
上にある。急斜面を登ってやや緩やかになったところか
ら集落が始まる。取っ付きに波田野さんの畑がある(標
高三七〇メートル)。そこに一つの石がある。出道石(デードイ
シ)と呼んでいる。主人の茂富さんによると、「仕事のじ
ゃまになるから壊そうとした時、父から聞いた。地震の
時、山から飛んできた石でわが家の護り石だから壊すな」
と。
 石は頭だけ出して埋まっている。付近にある領家変成
岩で、角張っている。飛んできたときの衝撃で割れ目が
目立つ。波田野さんの井戸を見せてもらうと、表層部の
地質が三メートルまで観察できた。すべて変成岩の角礫で、礫
径一〇センチメートル以下、固結度はよい。出道石は推定で一メートルく
らいあって斜面の堆積物に比べて大きい。この石が何時
の地震で飛んできたかわからないが、熊谷家伝記にある
大勢の死者は、このような跳び石の犠牲者だったと考え
る。
 集落最上部(標高四四〇メートル)に熊谷猛夫さんの畑があ
る。今は梅林になっているが元は水田だった。真ん中で
割れて芦沢に面する北西側が二・五メートルずり落ちている。
これも地震時の地変であるという。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 40
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 天龍【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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