Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J3000001
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0678/99/99
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0678/99/99
和暦 天武天皇六年十二月
綱文 天武天皇六年十二月(六七八)〔筑紫〕
書名 〔小郡市史第一巻通史編 地理・原始・古代〕小郡市史編集委員会編H8・7・1 小郡市発行
本文
[未校訂]二 天武朝の大地震と「筑紫小郡」
筑紫国の大地震
最近、久留米市や三井郡北野町の遺跡調査
で、一三〇〇年ほど前に起こった地震によ
る噴砂や、地割れ跡などが十数ヵ所で確認されている。
天武七年(六七八)に起こったこの地震について、『日本
書紀』は、「筑紫国」で幅六メートル、長さ九㌔にわたって土地
が裂けたと記している。しかも、「百姓の[一家|あるいえ]、岡の上に
有り。地[動|ふ]る[夕|よい]に[当|あた]りて、岡[崩|くず]れて[処遷|ところうつ]れり、然れども
家[既|すで]に[全|また]くして[破壊|やぶ]るることなし」とある。発掘調査で
姿を現した地震の痕跡を分析すると、九州では最大規模
の直下型地震であったことが判明している。もちろんこ
こでいう「筑紫国」は、間もなく筑前・筑後両国に分割
される地域内(現・福岡県内)を指している。
 だが天武朝の地震は、『豊後国風土記』(日田郡条)に
も、山や岡が崩れて「[温湯|ゆ]の泉、処々に出ず」とみえて
いる。耳納山脈には約三六〇〇年ごとにマグニチュード
七・一規模の地震を起こす活断層があり、その地震によ
る被害は久留米市から大分県日田市の東部にまで及んで
いたのである。だが年代が特定できるこの地震による遺
跡の破壊の跡が、筑後の古代遺跡の年代測定に活用でき
る状況をつくりだしている。
 浮羽郡田主丸町[大慶寺|だいぎょうじ]地区には、この時の地震で巨大
な岩が幾重にも重なって肌をむき出しにしたと考えられ
る標高五三〇メートルほどの山がある。[白建石|しろたていし]の字名が残って
いるが、地震からそう遠くない時期、つまり岩肌が酸化
して黒ずむ前にその一帯が「白建石」と呼ばれ、それが
後に地名として定着したのであろう。
 ところで山頂にある江戸時代後期の[祠|ほこら]の前では、今も
里人による祭事が行われている。ところがその周辺には、
なんと八世紀中ごろの祭祀用土器片が散乱したままにな
っていた。山の東と北側の斜面は縦・横数十メートルに
及ぶ巨岩が重なり合って絶壁をなし、人を寄せつける足
場もない。耳納連山の緑を背景にした白壁のような巨石
は、古代には遠くの平野部からも目立つ神秘的な存在と
なっていたに違いない。
 現在の甘木市と朝倉郡の行政区域が接する所には古代
の[上座|かみつあさくら]郡と[下座|しもつあさくら]郡を分けたときの直線道があって、
今も農道として使用されている場所がある。しかもその
道路の一方を延長すると、それは明らかに白建石の山を
指している。古代の郡境を決める起点の一つに、目立つ
白建石の山が選ばれたのではないだろうか。
 大化改新直後の政府は、地方の実状を把握するため、
国司と国造に「境を観て」文書に記すか、図にして報告
することを求めていた。ところが壬申の乱(六七二)に
大勝し、浄御原令の検討や国史の編さん、あるいは[八色|やくさ]
の[姓|かばね]、爵位六〇階の制定など、律令体制の強化をはかっ
た天武天皇は、伊勢王や官人たちを全国に派遣し、諸国
の「境界を限分」させている(『日本書紀』)。筑紫国の地震から
は六年後のことで、白建石の巨岩もまだ白くて目立った
時期である。上座郡と下座郡の直線による分割は、大地
震から間もないこの時期に実施されたのではないだろう
か。
((注、榎本福寿「日本書紀の災異関連記述を読む―日本書紀
の文献学をめざす試み―」(『日本史研究』通巻四九八号、
二〇〇〇四・二、日本史研究会編)は日本書紀の災異記事
を読む前に一読すべき報告である)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 1
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 福岡
市区町村

検索時間: 0.008秒