[未校訂] 二〇〇〇四年一〇月二三日に発生した新潟県中越地震
は、その激しい頻繁な余震を特徴としている点で、貞観
五年(八六三)六月の越中・越後の地震記事を注目させ
るものであった。まず『日本三代実録』貞観五年六月十
七日条(1)では次のようにある。
越中、越後国地大震、陵谷易処、水泉湧出、壊民
廬舎、圧死者衆、自此以後毎日常震
次に右史料の読み下し文である。
越中、越後国の地が大いに震った。丘と谷の場所
が変わり、地下水が湧き出し、民の住宅は壊れ、圧
死するものが多くいた。これより以後も毎日常に震
った。
右の史料は、越中、越後国で地が大いに震ったとある
が、地域の記述はこれ以上になく、立ち入った限定は容
易ではないのでこの両国の検討は後にするが、記載順は
国の文書記載順を意味し、被害の激しかった順を意味す
るものではないことをまず述べておこう。
地が大いに震ったとは、その本震のことを指している
ようである。第一撃のすごさが、丘と谷の場所が変容し
水泉が湧き出したことで察せられ、且つ悲惨な民家の倒
壊、下敷きとなった多くの死者発生の様子が伝えられて
いる(2)。ここまでは大地震の他の普通の記事に近い。この
時期の記事としては、いかなる神の祟りであるのかなど
陰陽寮のト占記事がないことも気になるが、これより以
後も毎日常に震ったという記述は、この時期の地震記述
として注目される。菅原道真も編纂に加わったという『類
聚国史』の巻百七十一(3)に災異部五地震の記事が掲載され
ているが、そこには日を追って頻繁に起こった地震の記
事が記載されたりしていることはあっても、毎日常に震
うという頻々とした余震の様子を伝えている事例は他に
ない点で特異であることが注意を引く。
この貞観五年の地震による建物倒壊と噴砂の痕跡は、
新潟県三島郡和島村八幡林遺跡から、また噴砂は新潟市
黒埼町釈迦堂遺跡から、そのときの痕跡に間違いない遺
構が出土して報告書などでも指摘されているものであ
る。また、平安初期の長岡市越路地区岩田遺跡に地割れ
遺構の報告がある(4)。
今回の中越地震の本震は、震源地の川口町では震度七
を記録しているが、三島郡和島村小島谷では震度五強で
あった。その後に、和島村のフィールドワークをしてみ
て教えられたことであるが、この地域も至る所に地割れ
や陥没(噴砂現象)などが確認された(5)。前掲の小島谷に
ほど近い八幡林遺跡付近も同様な現象が見られた。しか
し先の発掘調査の折には八幡林遺跡の遺構からは貞観五
年以後における鮮明な噴砂などを他に見出してはいなか
った。
今回の地震本震は、新潟市黒埼町釈迦堂遺跡に近い新
潟市大野で震度四であり、また上越市大手町での震度は
五弱であったが、八〇〇余人が避難をした。越中の富山
市石坂で震度三であったが、石川県珠洲市、輪島市では
震度四であった。越中方面への震度はそれほど大きくは
なかったし、新潟市やその周辺での地割れや噴砂現象は
確認できていない。
だが以上の検討から貞観五年記事に見る地震の震源地
について考えてみると、本震後の余震の記述から今回の
中越地震と同一であったと仮定することができそうであ
る、というのが地震の専門家ではない一古代史学の印象
である。
その場合に、貞観五年地震では、越中国にも被害があ
っておかしくない表現であること、八幡林遺跡には倒壊
建物の遺構が出ていること、新潟市黒埼町釈迦堂遺跡に
噴砂があったことなどから考えてみると、今回そこまで
の被害や現象が知られていないことなどから、貞観五年
地震の方がより激しいものであった可能性が推測されて
くる。
このように歴史文献情報を、地震の地下埋蔵情報とう
まくマッチできるならば、あるいはその震度や震源地の
特定と関わり、今回の中越地震と比較する道も切り開か
れ、また未来の災害・地震の予見や対策にも意味ある理
解ができるように思われる。
注
(1) 新訂増補国史大系『日本三代実録』
(2) 古文書・民俗資料の移転保存の作業に加わり二〇
○五年五月二二日、豪雪の消えた長岡市山古志地区
に入った。山の斜面が至るところでずり落ちていた。
文中「圧死するもの[衆|おお]し」は、土砂崩壊による圧死も
あったと考えられる。
(3) 新訂増補国史大系『類聚国史』
(4) この点は、山本肇氏(新潟県埋蔵文化財調査事業
団)からご教示いただいた。記して感謝したい。
(5) 田中靖氏(三島郡和島村教育委員会)と共に歩いて
ご教示をいただいた。記して感謝したい。