[未校訂](南海道地震における芳養湾の津波の状況)池田 孝雄著
はじめに
昭和二十一年(一九四六)十二月二十一日未明、大地
は大きく揺れ動き、海は吠えた。南海道地震である。震
源地は潮岬南々西五〇キロほどの東経一三五度七分、北
緯三三度〇分の地点でマグニチュード八・〇という。
まれに見る大地震で、家屋が倒壊し、鉄道線路が崩壊
し、道路面が波打ち亀裂が走り、あるいは崩落等で交通
は寸断され、電信・電話の不通、送電線の切断による停
電、水道管の破裂による断水等々地震の直接の被害も大
きかった。新宮市では地震直後に出火、水道管の破裂で
防火用水の確保が出来ず、延々一七時間に及ぶ火災が大
きな被害をもたらした。また紀伊半島沿岸部では早いと
ころで地震の後一〇分、遅いところでも四〇分くらいで
津波が来襲し、多くの人命と財産を海の中に引き摺り込
んだ。
田辺湾沿岸も津波による激甚な被害を受けた。その被
災状況については管見ではあるが地震直後の記録として
『昭和紀伊洪浪の記』があり、新庄村では、当時公民館
主事だった福島右衛門氏が中心となって『昭和の津浪』
を残している。その他数氏の個人的な回想を『田辺海兵
団神子浜』が記録している。また『昭和紀伊洪浪の記』
をベースにした『和歌山県災害史』のほか『田辺市誌』
にも南海道地震の記述があるが田辺市内の被害について
はそれほど詳しくは触れられていない。
平成八年(一九九六)南海道地震五〇周年記念に当た
り、和歌山県は『南海道地震から50年』という冊子を刊
行したり、新宮市・田辺市と共催で「南海道地震から五
○年~防災の集い~」の開催、各地で関連の行事を行っ
た。田辺市新庄公民館では、『昭和の津浪』の復刻を軸に
しながら被災者の聞き取りを中心とした出版物刊行の予
定と伝えられるなど、南海道地震を記録する活動も進ん
でいる。
また芳養町松原西部地区の大西信雄氏は、その当時の
被災者数人からの聞き取りを『南海道大震災 被災記録
と教訓』という小冊子にまとめられて、南海道地震と、
その津波を風化させないようにと努力されている。本稿
はその小冊子を軸としながら芳養湾一帯の南海地震にお
ける津波の状況をいくらかでも明らかにすると共に多少
の教訓を引き出してみたい。
欠如した報道
地震は十二月二十一日午前四時十九分六秒七に起き
た。冬至を二日後に控えた、一年中でいちばん夜の長い
時期だから夜明けにはまだ間があり、辺りは暗く、且つ
初冬の夜明け前は冷え込んでいた。
地震は北海道と東北地方北部以外のわが国のほとんど
の地方で感じられたが、殊に和歌山・奈良・三重をはじ
め、徳島・高知各県は激しく揺れ、また沿岸部は津波に
襲われた。
当時田辺市内で発行されていた『紀州民報』社は活字
ケースが倒壊して新聞の発行が不可能となり、朝日新聞
や毎日新聞も交通通信の途絶のため情報が充分入手でき
ないうえ、当時の用紙事情も加わって、当地の被災の様
子はあまり伝えられなかった。
そうした状況の中で、同年十二月二十三日付『和歌山
新聞』は、恐らく紀南地方の地震の第一報と思われる記
事を掲載している。その中から田辺地方に関するものを
抜き書きしてみよう。
「田辺以南は電話線と鉄道が不通で被害状況は不明
であるが同方面の被害も更に深刻なものがあるとみ
られる」「(二十二日)午後二時現在田辺市内は屋根
瓦、土塀、ガラス戸などの倒壊多数、高潮は六尺以
上にのぼり倒壊家屋による死者二名あり会津橋は沈
下して交通不能、負傷者五名、市内の全壊家屋六戸、
半壊多数、紺屋町、片町、本町は各半数浸水、芳養
町では死者七名(男四、女三)行方不明六名、浸水
家屋一一〇戸のうち一五戸は流失、新庄村は文里湾
高潮襲来により被害もっとも甚だしく家屋倒壊一
〇、流失五〇、半流失五〇、被災者二五〇〇名以上、
死者二〇名以上、東富田村では富田川鉄橋が高潮に
より六〇米押し流され田辺、芳養間の鉄道線路も一
五〇米押し流されている。田辺、岩代間の鉄道被害
が最も多い模様だが未だ詳細不明。田辺湾内や江川
浦は流失木材、魚網等に埋められ未だに余震続き潮
の干満も異常に連続しているため市民の恐怖は去ら
ず高地へ避難している。進駐軍の飛行機が再三飛来
図1 南海道地震における田辺湾周辺の
津波被災概念図
芳養川
大屋4.5
松原5.3
会津川
江川
橋谷2.7
名喜里川
文里
跡の浦2.7
滝内2.7
内の浦5.6
坂田
綱不知
大浦
細野
富田川
栄
十九渕
中
高瀬
「数字は潮位/単位メートル」
して状況凋査を行っている。白浜方面にも相当被害
甚大とみられるが電話不通のため不明」
(引用に当たって、誤植などを適宜直した。以下同じ)
被害状況の生々しい第一報だが、交通通信が途絶え、
米軍飛行機による収集以外に情報も欠けた当時の混乱し
た状況が窺える。
当地方の被災状況は大まかに言って、白浜町では富田
川下流の東富田・南富田付近から、田辺湾に面したリア
ス式海岸の景観のすぐれている坂田・綱不知・立ヶ谷・
細野、田辺市では内の浦・滝内・跡の浦、そして新庄地
区一帯から文里湾口の文里地区、さらに会津川下流や芳
養川下流が地震直後の津波で大きな被害を受けた(図
1)。
田辺の被害
田辺地方の被害であるが、ここでは旧田辺市域に限っ
てその被害を見ていくこととする。地震直接の被害であ
る家屋倒壊は『和歌山新聞』に「倒壊家屋による死者二
名」としている。これは栄町で家屋が一戸倒壊したもの
であった。
南海道地震の被害は地震そのものよりその直後の津波
の被害が大きかったことはつとに知られている。文里周
辺では現田辺商業高校付近から大戸付近までの道路沿い
一帯が波に洗われ、流失家屋二〇余戸、死者三七人に及
んだ。死者だけで言えば文里は新庄の二二人の一・七倍
に達していた(表1)。
次に会津川を逆流した高波は、川口にかかる会津橋の
本町側橋脚一基をおよそ一メートルほども沈下させ、橋
面は「く」の字のように曲がった。波は次の切戸橋と高
山寺前の大師橋を押し流し、龍神橋付近まで逆流した。
龍神橋付近で川は左会津川と右会津川に分かれるので波
のエネルギーが二分されてそれ以上は逆流しなかったの
だろうか。
逆流と共に川口付近に係留されていた伝馬船が一〇数
艘押し流されたが、潮流の具合か会津小橋の下に固まり、
潮流の背戸川に逆流するのを妨げた。そのため『和歌山
表1 水死者家族の年令一覧
南海道地震/田辺市文里周辺
A家
B家
C家
D家
E家
F家
G家
1家
J家
K家
L家
M家
N家
53
61
30
37
32
73
28
9
41
14
64
58
44
32
48
6
33
8
20
3
8
16
6
28
23
4
5
5
16
1
3
3
18
3
1
3
2
『田辺市誌』より・ゴチックは女性
新聞』の記事のように紺屋町、本町、片町に床上・床下
浸水の家屋が出たが、人命に被害はなかった。
西岸の江川では川べり付近で約二メートルの高波とな
り、かなりの家屋では床上浸水した。また切戸橋付近で
も多少稲成川に逆流し、付近の田畑が浸水したが、ここ
もそれほどの被害はなかった。
江川西部では現在なぎさ保育所付近の埋立地も冠水し
たほか、南紀スポーツセンターの北にある背の谷二つ池
から南に流れる水路に波が逆流し、JRの線路の南側と
西八王子神社の高台に挟まれた低地に冠水している。こ
の付近でも線路沿いに船が押し上げられたという。現在
この水路は線路と海までのおよそ二五〇メートルほどの
間は一部下水同然の水路となっているが、そのほとんど
は県道田辺港線などの下を通る暗きょで、河口部は埋立
地に挟まれた幅一四〇~一五〇メートルほどの海に入っ
ている様である。
芳養湾一帯の津波
芳養川周辺も大きな被害を受けた。まず当時の地形と
現状の違いを簡単に見ておきたい。第一の相違は芳養川
の川幅が現在の三分の一ほどしかなかった。第二に海岸
線の著しい変化である。南海道地震後の地盤沈下で海岸
線が後退しているし、現在芳養湾の埋立て等で砂浜の形
が変化しているといわれている。次に道路であるが、現
国道や新松井橋は地震以後のものであり、現在旧道とさ
れる道路が県道で、松井橋ももっと低かった。県道のお
よそ五〇メートルほど北側に鉄道線路が高さ約六メート
ル程の堤防上を走り、松井橋の上流五〇メートルに鉄橋
がかかっていた。線路跡は現在道路となっている。そう
したことを念頭に芳養川周辺の津波を見よう。
「突然、真暗闇の中で家中の家具の揺めき、ガラ
スの割れる音や瓶の割れる音。咄嗟に主人と共に
幼い三人の子供を抱いたり手をとって、安全な裏
庭の畑に出て余震の治まるのを待とうと数分間蹲
っていました。するとゴーという地鳴りの音が数
粁先の闇の中から聞こえてくると同時に、這うよ
うに寄せてきた波の音にいち早く気づいた時には
逃げるより早く背後に迫っていたのです。先端の
大波が来るたびに屋根瓦が落ちたり、建物が毀れ
たり、それは一瞬のことでした。私がしっかり両
手で抱きしめて離さなかった乳のみ子も、その恐
ろしい波は、あっと云うまにさらってしまいまし
た。怒り狂う海の力には、到底非力な人間の力で
は及びません。主人は泥の中や無残に押し倒され
た物や色々な器物の中を探し求め、二人の幼い無
心な遺体を我が手で抱きしめ、自分たちが守って
やれなかった非力さを男泣きに泣いたのはあとに
も先にもこの時だけでした。斯うした災厄に逢っ
たことを、世間は運命だとも天命だとも諦めのい
いように表現いたしますが、さまざまな悔恨が若
い当時の私たちを長く嘖んだ事でした。
現し世に幼い命果てるとも親の嘆きは年輪数う」
芳養小学校『はや百年史』に収められている井上富貴
子さんの文章である。井上さんは当時二九歳、津波のた
めに二人の子供さんを失われた。
(以下、体験談は省略)