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項目 内容
ID J2900852
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔信濃・越後〕
書名 〔信濃部稿懲震毖鑑 坤〕小泉蒼軒著本間幸雄氏蔵、小泉蒼軒文庫新津市図書館寄託
本文
[未校訂]懲震毖鑑坤之巻
目六
信濃国地理大概
ヽ同地図
震災提要
犀川千曲川
ヽ山♠廃塞河図
驛程見聞
ヽ善光寺町震災狼狽之図
ヽ同延焼ノ図
ヽ水害之図
ヽ松代城図
ヽ飯山城図
ヽ吉村泥押之図
ヽ笹川泥押之図
ヽ大谷村山崩之図
地理大概信濃国ハ東山道の一にして越後につゝきたる大国なれハ
周囲十州に隣り海のなき国なり其国東西ハ陜く其廣き処凡三十里南
北ハ長し其長さが五十五六里これを十郡にわかち伊奈郡ハ南の方に
ありて三河国につゝき諏訪郡ハこれに並ひて東方にあり
其地駿遠甲の三州に境を接筑摩安曇水内の三郡ハ伊奈に
つゝき西北にありて飛騨越中越後に隣る高井小縣佐久の
三郡ハ東方にありて又越後上野武蔵にならふ埴科更級の
二郡ハ国の中位にありて千曲川を堺ひ東西にわかる此国
山おほく平地少く東南西に高嶺魏々と聳え飛騨州につゝ
きて高けれハ甲斐美濃越後なとより入ところ悉皆のほり
なりされハ他国より入る水なくて流出る江河おほし抑此
国四辺を原(源カ)とする川々を考れハ飛騨境に出る犀川甲州堺
に出る千隈川二流合してなほ千曲とよへる大河ハ国の中
を北流して越後に入数郡を過て新潟にて海に入水源より
凡何十里もつとも長流とすへし遠江国天竜川ハ諏訪湖に
出美濃国の太田川ハ小吉蘇より出て水上を木曽川といふ
駿遠の境をなかるゝ大井川又大猪トモハ甲州堺に出駿河国富
士川ハ八ヶ岳より出る釜無川を原(源カ)とす武藏国隅田川ハ川上
山の東に出て其源荒川といふ関東の利根川ハ浅間山の後
に出ると碓氷川蕪川と合して烏川といへるが落合たるを
源となす其他越後の姫川の急流ハ佐野嶺の西北に出戸隠
山の[渓|ケイ]流又野尻湖のなかれともに合して越後に入関川と
唱ひ高田のほとりに至てハ荒川とよふすゑハ今町にて海
に入これらをもても国の高きこと思ふへしかく高き国な
れハ寒暑も又はけしされと国小ならされハ東西南北寒暑
おの〳〵ことなり凡越後にちかき飯山善光寺の辺ハ雪の
降ことおほく木曽の山中諏訪佐久の両郡雪ハおほからさ
れと寒気の烈しきこと日本無双ともいはんか暑も又これ
に准てしかるへしさて国廣大の山国なれハすへて産物ハ
おほかれとも田畠ハ少し元禄十四辛巳にハ六十一万五千八
百石を貢今ハ□七十万をもてかそひ里の数ハ千七百にあま
れりこれをおさむる諸侯の城十所其他官吏の出張陣屋と
いふもの廿余所故にあら野のはて千山の奥まても昇平の
餘澤至リいたらぬ隈なしときけり
驛程見聞の前に出す国の中にふたつの道あり中仙道とよひ北国道と唱ふ上野
国境碓氷嶺より美濃国境十国嶺の下釜か橋中央に至る行
程凡四十七里又北国道ハ同し道を五里余此方追分驛より
越後国境野尻のさき関川さかひまて凡弐十六里半
(貼紙)
「追分三里半小諸二リ半田中半里海野二里上田合八里
半」
(貼紙)
「松本より五千道通塩尻三里洗馬三十丁本ト山弐里熱川
一り半奈良井一里半[藪|ヤブ]原弐り宮越壱里半福島弐り半上
ヶ松三里九丁須原壱里十三丁野尻二り半[三留野|ミドノ]壱り半
[妻籠|ツマゴ]二里[馬籠|マゴメ]一里五丁美の落合シホシリより廿六里廿
一丁」
(貼紙)
「坂本上州より二り半十六丁軽井沢一り五丁沓掛一里三丁
追分一リ半 此□北国道□[小田|ヲタ]井一里七丁岩村田一里十三丁[塩|シホ]
[名田|ナダ]廿七丁[八幡|ヤハタ]三十二丁[望|モチ]月一里八丁[芦田|アシタ]一里半長久
保二里和田国ノ中位ニアタルチ五里八丁下ノ諏方湯の町三里塩尻
コレマテ廿三里廿九丁」
震災提要
これの信濃国にていにしへよりおほくの人を失へるほと
の天変地妖のたくひにハ天平宝字六年壬寅四月廿四日大
風吹大地震動山川の破壊せしことなと口碑に伝へいへれ
ととほきむかしのことハくハしくもわきまへしらすちか
くハ寛保二年壬戌八月朔日千隈川の洪水□て此水害六郡
におよひ溺れ死るもの数千人是を合葬して諸死塔なとい
へる碑石所々に見え又書にも詳にしるしあれは目のあた
り見るにひとしく又天明三年癸卯七月浅間山の焼出し時
のさまハ書にも残り稀にハ其災にあひし人もなからへた
れハつふさにこれをしれりとこの時ハ信のよりハかへつ
て上野国の方変おほかりし□ときこゆこれらにまさりて
今年弘化四年三月廿四日夜四時頃大に地震ふりて暫時か
間に更科水内埴科高井の四郡にて山獄の崩れたる数百所
平地とある所強土ハ破裂し泥水を吹出し弱土ハ陥て家蔵
を埋む池川の浅きハ土を押出して岸より高くなれるもあ
り許多の村里民屋を倒しぬりこめを破り堂舎塔廟ひとつ
も全きハなく凡稲荷山宿より飯山城に至南北何里東西直
量八九里の中にて死うせる人馬万をもてかそひあまさへ
倒たる家より火出て家財調度ハものかハ手足を物にはさ
まれて逃れ出ることもえせてあるものさへまたゝきの間
に灰烬となせるも所々に在夫か中に善光寺の里ハ尊き御
仏のおハせしとて常にも諸国より詣つる人のおほかれは
おほよそ三千はかりの家々軒をならへいと賑ハしき土地
なるを此月何日より仏の開扉とて京大坂堺名古屋のほと
り奥羽の尽処よりも詣来し人のとゝまれるがおほかりし
に市中の家々おほかた倒れ所々より火出て壓うたれ焼う
するもの幾許なるや是につゝきて新町稲荷山飯山なんと
も同く焼失てかなしく浅ましきことおほかりこれはかり
かハ吉村笹川なンといふところハ其里より奥なる山くく(ママ)
つれたるうへに水落て泥となれるがおほひに押出して其
あたる処数十の家を倒せるあり又□大谷村ハ山崩れ
て家の上に巌石土木を飛ばしひた潰になせるもあり又山
脱て川を塞けるもの所々あるか中に其おほひなる憂患を
なせるもの犀川の辺なる岩倉山といふ高峯一山両端に崩
れて犀川のなかれを止む其塞ける所廣く高くしてなか
〳〵人の力もて突崩すことも得叫ハてむなしく日数ふる
ほとに湛水いと高うなり湖水とやなりなむなと口〳〵い
へあへれと若おのつから破るゝ時あらハ河辺の里〳〵い
くはくの憂苦をまさなんと其土地領す君達より各心かま
ひを此にしめされなとして一日二日とすくすほとに十八
九日を経たれはかの川を塞きしあたりより水上六里はか
りの内廣さ三里ほとに押とをして湛る水の深きところ凡
六七丈南傍におほかりし里々の家皆水底に入是より上な
ほ四里はかりも溢れし水に水田種もの陸田種ものを損ね
床上に水のあがれる如きハあれと家を押流せる類にハあ
らす又水のなかるゝことのめにミえぬほとなるハ松本ち
かきあたりまてと聞ゆさるを四月十三日といふ日ノ夕か
の塞かりし所おのつからやふれて出つ 件ンの湛水大山
のくつるゝ如く押出しあたるところ木をこぢ石を穿ち家
を倒すおと百千の迅雷一度にとゝろき落るか如き響き五
六里に聞えかくて三四里も押出し小市村に至るほと此所
にも山崩れて岩石川中へ押出せるに突当りてしハしかほ
と向ひの岸を打越川中島五万石とある平地へ押出して思
ハぬかたにても此難をうくさるに此辺も地震強かりしか
ハ民戸大かた倒れ左なきも大に破壊す高地に辛くしての
かるもの稀にハあれとまつハ押流さるれハ人のなかれ失
るもいとおほかりしとそきくたに魂きゆるはかりなるに
其難にあへる人々ハいかゝあるらん次々にくハしくもし
るせるをミて其おそろしかるへし此度ハいかなる故に歟
其国人のミか他国の人々をもおほくまねきよせて時のま
にかくさまの三つの艱苦をさすることいかなる狂神のし
わさにやあらむ我神国にすめる人夜に日に天神地祇をま
つりてかゝる患難をまぬかるへきこゝろかまへをなさて
やは
犀川千曲川
犀川ハ源天龍川木曽川二川の中間筑摩郡駒ヶ岳の辺に出
二川ハ南流して参遠に入犀川ハこれにそむけて北流し奈
良井贄川共に木曽驛十三宿ノ内の東をすき本洗馬と洗馬駅の中間を
なかれ松本城の西に至るほとクサリ川塩尻川其外の小川
も一になり犬飼橋を過飛騨国堺乗鞍岳ちかき山水も合し
て熊倉橋を過会田宿の西方をなかるゝあたりにて越後国
糸魚川に至径路の傍青木の池よりなかれ出ると大町宿辺
の山水落合たるタカせ川といふなとも合していよゝ水高
うなり筑摩安曇両郡の境を過く川路凡七里□□更料郡に
入て二三里をすく水源より此辺まてすへて北流大平牧の
島の舟わたり場の辺よりをれて東流更料水内の両郡の境
を流れ新町水内の南を過水内橋の壮観あり又小市村南側
を過丹波島驛の北涯をすきて尚東流千曲川と合す此辺を
中世より川中島四郡と唱ふ
変事丹波島驛より水上何里山平林村岩倉山山上虚空蔵堂有故
に虚空蔵山ともいふ大山あり三月廿四日夜地震ふりし後一山両端崩
れて犀川の流れ二所を埋む其半面川を塞く土石長廿
間余巾十六間ほと水底より高百六十間余山の脱あと
横巾凡廿町山下山平林村人家百廿軒其土石に家居を
埋めひとつとして残れるハなく壓死のもの百七十人
と馬三拾疋又半面山崩て川へ押出す処凡拾六間余巾
八間に余る水底より高八十三間余山の脱跡五町程山
下藤倉村人家三十軒土中に埋壓死の者七十人其他山
下ある里々[入有旅|イリウタビ]山中組桜井岩倉組孫助組荒屋組古
屋なといふ処なる民戸凡三百五十軒も皆山の下にな
りて壓死三百人もありしとそ虫倉岳大場権現山なと
崩れて竹生川ドヂリ川トモ云かを塞く所長八間ヨ巾五間ほと
水底より高五間程此川ハ巾五間ほとありて下流長井
村下にて犀川に入此ふさかりしところ日数十四五日
を経て四月九日といふ日おのつから押破れて湛水一
時に押出し夏和青木中条なといふ里々にて民戸百五
十はかり流失死せるもの百五十人ありとそ岩倉山崩
おちしところより二里はかり下流小市村より上にて
山崩れて巖石犀川へ突出し又川央を埋む
戸隠山の東南より出るすゝ花川といふ小流ありて街
道ちかき小柴見九反の辺にて犀川に合す善光寺の町
中をなかるゝ川も此川の分流也件ンの川筋にも又山
崩にて塞ける処ありこは三日はかり水湛廿七日早旦
おのつから破れて泥水押出し河辺の里々ニすめる男
女なきさけひて東西に走る命をしミて其難をのかれ
んとする人心にふたつハなきはつなるへきを夫より
おほなるわさハひのいてきなむと思ふところあれ
人々小事としてかへりミるものなしあハれむへし
今岩倉山にのほりて四方をのそめはめにさえきる処
長井山水内山小井戸山新町の後に在大平山萱野山なといふ
処とて各山崩ありまた案内の人のいふ変地ハ南方ハ
かろく北方ハつよしといへは見ぬところに幾許の変
地あらんやしらす
かくところ〳〵川路ふさかりて水の通ひなく何里か
ほと水底あらハれぬれと水上に落溜る水は夜るひる
の差別もなけれは日かすをも経で水かさまさりて海
なすさまになりぬ此処のわたりハ川を隔て更科水内
と郡ハわかりぬれと村里ハむかひもこなたもおほか
た松代の殿の領地にあなれハ此変出来てより小市とい
ふ里のむかひ鳥打山小松原とある里に野小屋といふ
ものを三所まて建られて家老川奉行道橋奉行御使役
御目付道橋奉行なといふかた〳〵下臣供人三百人に
余れる人々こゝに出られてかれもこれも司さとりて
おほくの人夫に截判あり人品の上下をいはて凡三千
はかりの飲食をまかなふ人段の原といふ地にまたか
り家建て其事司とる吏炊のわさをなさしめて五十人
はかりのものに是を持はこはせてとりまかひ給ひ丹
波島の舟渡り場にてハ善光寺の方より出るをゆるし
入るをとゝめ小市村の山の川中へ脱出し岩石をとり
ぬけてハなかるゝ水の思ハぬかたへなかれ行て又此
上の患やますらんさらてもかのふさける川を押破ら
は小山の如く押来りて河辺にすめる人〳〵ハいかて
此難やのかるへき老たる若き差別をいはて丈夫ひと
り家を守らせ其他ハ山へ逃のくへし其残れるも湛水
の破れ出しと相図せる火かけを見なは必貨財にめを
さけていちはやく其所を立さり危難をのかれ命を全
ふするそ肝要なりとゝきさとされ実にさることにあ
りなから此わたりハ大かた地震のふりかたはけしく
親にわかれ子にわかれ妻を失へる類ひいとおほかれ
は其恩あいにひかれて得さりあへぬあり又貨財のす
たらんことを思ひて其命にそむけるもありしハ是も
又人情のさりかたき所なるへしさて一日二日と過る
ほとに其月はつるころハ七八丈の水嵩とはなれりと
そさるからにふさかりし水上にて北の河辺にて長井
村ハほとり近き山脱出て三拾軒はかりの家土石の下
になり七十人斗の人を損へり水内ハ戸数凡百五十此
内五十はかりハ流失して三十人にあまれる人を失へ
り此地に犀川にかけわたせる水内橋といふあり土人
ハ撞木橋又曲り橋ともいふ川の北涯の半腹をうかち
て梯をなす西東より東へ行其長五丈四尺夫より南へ
をれて川にわたす処の大橋長十丈五尺廣リ壱丈四尺
爛基の高さ三尺からさまにかゝれゝは竒工の橋なり
橋と水との間尋常の水にて五丈余にいたるといへり
さるを此度の湛水このはしをうかミて水上にさかの
ほりせしといへは水のふかさ凡にハしられぬへし夫
より相久保ハ三拾戸上條ハ百戸に余りし民家寺三軒
ともに潰れしうへに流失せりとそ新町ハ民家凡三百
はかり山中なから家々町のかたをなして商戸のきを
ならへ月毎六度の市をたてゝ賑ハしきところなりし
か地震にてハあら〳〵家潰其潰れし家所々より失火
一戸ものこらて焼うせたるかまれに残れる小屋蔵な
んといふものハ水のために押なかされ壓れて死せる
と水におほれて死せるもの百人はかりもありしとそ
里穂刈百五十戸寺壱軒大原百五十戸はかりこれらも
皆潰し家を水にておしなかせり死せるもかたわつく
ものもありときけとこゝにハはふきぬ又つゝきて日
名村是迄水内より凡六里此辺まてハひとしほ難おほ
しときけりなほたらひ水の目にたちて見えしハ是よ
り安曇郡上野平舟場辺まてなりといへり又向ひの川
辺にてハ[三|サ]水村にて戸数八十はかりのこらす潰れた
るか流失て今残れるハ土蔵二所たてるのミ地京ヶ原
村ハ山崩にて七十斗の家土石に埋れて三百人はかり
の人皆壓死いかなる高運のものにや両三人近邑へ出
て家にあらて此難をのかれしとそ伊折村も又三十斗
の家土中に入六拾人はかりの死失あり竹房下市場槙
島なンといふところもおほかた潰れたると大破せる
家はかりにて死傷の人も又おほかりしに又過半水冠
となり和田吐順川口ノ三邑ハ家居入交りて弐百戸は
かりのこらす潰れし上に水冠となり皆押なかされき
この辺まて一円大湖にひとしき水湛にて所によりて
八九丈の水嵩なれハ平地の樹木端山のひくきなとも
水底となれは田畠の損亡想像へしこれより上上生坂
下生坂辺まて岩倉山より凡十里はかり田畠水冠りと
なれと地震も強からされは家のなかるゝほとのこと
ハなし抑岩倉山脱出て川を塞きしより日数十九日夜
ひる片時も休らふことなく此処かしこより此犀川に
落入水幾許なるへくやさらに此川筋両方山遠からさ
れハ脇へに水のもるゝ事少なけれハいやかうへに水
高うなれるはかりなれハ水の深サ五十丈七尺なとこ
と〳〵しく咄しあへりても今さらことわりにおほゆ
さハかり大海なす湛へる水の四月十三日夕おのつか
ら破れて一時に押出せる勢ひのときことたとゆるに
ものなかるへし下流一体川床高くなるのミならて小
市山の崩れて岩石川の央ヘ押出せるところさらへも
つくさぬに水押出せしかは只川中島の方へ水筋それ
ておもハぬかたまてもふたゝひ此難をうけしことせ
ひもなしあゝ天なるか命なるかおそるへし
千曲川ハ甲斐国境佐久郡金峯山に出て西流海尻の東傍を
過北流岩村田城の西南に在西北流塩名田駅と御馬寄村の
間を過小諸城の西傍に至小縣郡の内を西流上田城の坤を
過何橋在北流稲荷山宿塩崎村の東を経て東流矢代篠井の
中間両宿の渡を過艮へなかれ松代城北を過犀川合流の所
に至下流尚千曲川の名を唱へ布野の渡を過善光寺の東須
坂城の西をなかれ浅の今井の舟渡を過て飯山城の東をな
かれ尚艮流して越後国魚沼郡寺石村の西岸を過く二大河
合流の下此所に至川の央高井水内両郡の境となせりこれ
より同国三島古志蒲原四郡を過て新潟にて海に入
驛程聞見
松本次宿ヘ壱里
此地松平丹波守殿六万石御城下ニて東西南北基盤割の如
く商売諸職の家居軒並へ寺地もおほく造酒家数十軒名
酒のきこえあるもあり地狭からす物足り日々市立あり
ていと賑ハし東入口馬喰町より西北出口安原町端に至
る凡壱里余其上口より本町を行着あたりに追手の先め
とり川といふに大きやかなる橋をかけわたす
(貼紙)「松本三里成相新田一里八丁保高二里半池田二里半仁科
大町二里海の口一里青木一里佐野九丁[沢渡|サワド]十八丁飯田
九丁飯森一里塩島新田二里[千国|チクニ]一里宮本一里石坂一里
[成馬|クルマ]三里大網二里白池□一里山口二里大野一里糸魚
川チクニより糸―十二里松本より糸川迄廿九リ八丁大網よりはしバ二里山ノ坊三
里小滝二里青海ハシハよりすへて七里 」
追手へ入にハ橋をわたる此所ニて城の構あさやかに見
ゆ此橋際より仁科大町を過て越後国糸魚川へ出る道あ
り此地より廿九里八丁ありとそ又松本より木曽街道に
出るにハ一里半行て□出る一里半□□又一里半□洗
馬ニ至すへて四里半あり善光寺方ヘ出るにハかの橋よ
り右へ曲リ東町めとわ川といふ町中を流る橋有夫より数町行安原町とい
ふ足軽町並町を過て松岡の茶屋あり右に山辺の温泉浅
間の温 (ママ)洞原の牧の跡左に芝宮大明神といふ有
変事松本家中場末にて潰家壱軒町方にて蔵壱ヶ所潰町
端にて傾家壱軒其他庇廻りの潰破損所〳〵有
岡田より次宿へ弐里
宿はつれに松本よりの番所在此所に追分□(在カ)り右ハひな
くら峠を越保福寺へかゝり上田へ出る道岡田より二里保福寺夫より五里
浦野三里上田ニ至すへて十里左リハ善光寺道也刈屋原峠をのほる此地
天文中の古城跡也甲州方米倉丹後昌友此城責にはしめ
て竹束を製て利を得しより万世の軍器の一つとなれる
よしいへり
刈屋原より次宿ヘ壱里
町を出て反町村過き会田に至
会田より次宿ヘ三里
此地より大町通越後国糸魚川へ出る道あり善光寺道ハ立
峠といふ坂をこえて乱レ橋村を過又中峠といふ坂下れ
ハ法橋村すへて此里まて山坂なり
青柳より次宿ヘ壱里
切通しあり夫より砂原村箱田村下井堀村を過てをミへ
至る
変事会田乱橋西条刈谷澤青柳なとこゝかしこに傾け
る家見ゆめれとめとまるほとのことハなしすへて松
本よりこなたの道筋およひ道の左右ともちかき里
〳〵に潰たるハ□(さ、カ)らかたむけるいへもなしときけり
麻績より次宿ヘ壱里
此地より左の方ハ会津村下岡村なンとを過て水内橋を
わたり新町ヘ出戸隠の山中へ入る道なり右の方善光寺
道ハ猿ヶ馬場といふ峠にかゝる此所筑摩更科両郡の境
也峠を登り詰山上右の方に大なる池有馬塚火打石なと
いふあたりより川中島郷一目ニ見えて其佳景愛すへし
此所より右姨捨山八幡方ヘ出る道ありたりは稲荷山道な

変事麻績宿庇廻リ小破のミ宿の出口に地破裂せし所
壱所見物猿ヶ馬場峠下リ口に破裂壱所あり桑原村の
辺にも小破の家わつかにミゆるまて也越後人京都帰
国の時三月廿七日猿ヶ馬場峠にかゝる此時善光寺詣
を志て上筋より来れる道連の人々あり此峠に登て山
鳴地響を聞又善光寺の方をのそめハ一円煙り立空ま
てくらくなれるにおとろきおそれて参詣の出来かた
きをほきなく思ひ善光寺の方にむかひ仏にさゝくる
心持とて髪を切当百小銭の類ひ囊中より摑ミ出し道
の傍山中へ投すて此所より引かへせりとそかくもの
狂ハしきしわさも信仰のすきたるにてわらふに堪た

稲荷山より丹波島ヘ弐里半
よき町なり右の方に八幡村八幡宮在大社也別当天台宗
八幡山神宮寺御朱印地百石信濃五ヶ寺の一神主ハ松田
某御朱印の地百石を給る禁官にて従五位下に叙す下社
家数家あり姨捨山ヘ壱里半あり」塩崎村此里に白島康
楽寺といふ一向宗の大寺在開山を西仏上人木曽義仲の状筆□明実坊
といふ又此里ハ松平飛騨守殿五千石の陣屋元なり此所
より左の方山よりに長谷観音とて古跡在よき眺望の所
也夫より篠根村に本名しのゝ井村出て北国道と一つになる
変事上田領稲荷山ハ戸数凡五百軒大半潰れ失火して
またゝきの間に皆皆灰烬となり宿の上下に大破の
家十四五土蔵十所はかりわつかにのこれり男女死す
るもの弐百三四十人これはかりかハ善光寺詣ての人
の宿りて死せるものいとおほかれと宿やのあるしと
もの死うせたるうへ宿帳といふものさへ焼すてたれ
はしるよしなし但我知れる人三月廿五日岡田宿にや
とりて大坂人尾張国人善光寺の参詣かへり稲荷山宿
丸屋八左衛門方にやとりし夜地震ふりて危難をのか
れかへると同宿ス其人々話す八左衛門がいへにハ凡
六千余人の客人ありときくさるを家潰れ辛くして難
をのかるゝものおのれらはしめ僅に拾壱人大坂の弐
人ハ壱人の連にわかれ尾張の客ハ八人の同士のもの
を失ひ独りすこ〳〵国にかへらんとすとかたれりと
そ此駅ハ越後国出羽国なとより木曽通をなして京大
坂に至る通路にて常さへ往来たえされハ旅籠やとい
ふを産業とするもの少からす此度ハ善光寺にゆきか
へる人のやとれるがいくはくもあるへしさる中にも
潰し家におしうたるゝとも火災のうれひなかりせは
遁るゝ人もあるへきをかうまていたくくるしましむ
るハいかなる禍神のしわさにやあらんあハれむへし
北国通駅程見聞
上田より次宿ヘ三里
此地ハ松平伊賀守殿五万三千石御城下にて毎月十二度の市
立ありて松本にひきつゝきたる繁花の地也右に大宮大
明神の社あり祢津矢沢等ヘ行道もあり此所よき茶屋数
多夫を過て番所あり引続常田村皆これ上田の内なり横
丁より左へ折れて海野町向に御城の追手番所見ゆ此所
を札の辻といふ右へ折れて原町土橋左ヘ折れて木町柳
町紺屋町つゝきて鎌原村右のかたはるかに八幡宮西脇
村新町此所より左ヘ別れて松本街道あり保福寺越といふ岡田宿の下ニ記
又別所の温泉へも行千曲川に掛わたせる諏訪部の大橋
をわたり行時として舩ニても渡す右に浄土宗芳泉寺といふ大寺あ
り仙石家代々の菩提所なり此所迄家居ひきつゝきて惣
名を上田といふひる澤川の橋をわたりて高橋村右に大
なる石(カ)地又真言宗正福寺あり此門前に壬戌の洪水に溺
死せし尸を集め塚となし上田侯より供養塔を建られた
るあり其銘流死含霊識と見ゆ生塚村秋輪村右に禅宗長
間寺夫より少し上塩尻村を過右ハ山左につゝミあり塩
尻堰といふ此所螢おほく成この時ハ人群参す宇治瀬田
にもはちすといへり下塩尻村右にある大山ハ虚空蔵山
といふ古城地也又岩ばなとて礬石をつむか如き千仭の
岩道におほひていとあやふく見ゆ此所小縣埴科両郡の
境なり夫より鼠宿入口に熊野宮あり土俗鼠の宮と号し
怪談をなす宮の後大石そばだちいとすさまし此石金輪
際より湧出せる故地震にも動かすといへり此地あしけ
れとも諸侯の止宿もありて馬継をもなすことあり右ヘ
折て町つゝき新地村今井村横尾村此地玄古煙草の出所
也道の右傍石碑あり其銘往海玄古庵主此僧煙草を作り
はしめたりし故玄古の名あり引つゝきて中の條村御代
官の陣屋在当時川上金吾助とのゝ支配所なり行程壱里
はかり四ッ谷村道の右に馬頭観音小堂あり側に村上義
清の碑あり按るに義清ハ越後にて病死此碑ハ家臣のも
のなとか報恩のために建る所なるかといへり夫より坂
木に至る
変事上田ハ城中にハ難なし市中も手弱家の傾けるか
稀に見ゆ鼠村新地金井横尾の辺も傾家ハあれと潰家
ハ見えす中ノ條陣屋構錬塀所々震倒し其外中の條近
所村々農家手弱の分下家廻リなと震倒せりとそ又此
辺ニて廿四日の夜大地震のあと明に及ふまて八十余
度の震あり又北方に雷鳴の如き響きをきくといへる
ハ山崩れんとして此鳴動をなせるなるへし
坂木より次宿ヘ壱リ半
此地昔ハ板倉甲州侯の城地なりしか廃して後御代官ノ
陣屋許となれりしか今又陣屋を中ノ條に移す賑やかな
る町にて売色なともあれハ尓今繁栄せり曹洞宗大永寺
といふ寺在又村上義清か開基せし村上山満泉寺といふ
曹洞宗寺在宝暦年間□古墳を再建して銘を鐫る町を
出離れて横吹といふ坂有右ハ屛風を立たる如き岩石左
ハ千曲川の深淵に臨み樹木其間に繁茂森々天を掩ふ万
仭高崖水湛て藍の如く見るに目くるめくはかり也岩坂
道を下りて刈屋原村此里にも千曲川を向ひに渡る綱こ
しの渡舟あり麻績宿へ出る道なり
戸倉より次宿ヘ壱里半
上下二村ありて半月かハリに馬次をなす川より向ハ更
科郡なり下戸倉の町中左姨捨山に至径路あり
姨捨山田毎月の名所也右の方有明山引つゝきて一重山
何れも歌枕の名所也□の方弐里程隔て鐘台山といふ在
田毎の月ハ此所を最第一といへり下戸倉村原地を過て
寂蒔ク村宝暦の頃より此地にて打緒を製て諸邦へ出す一
村何れの家にても此わさをなす今ハ名物となれりいも
じや村此辺も壬戌の満水より道遥に山際へまハりて遠
くなれり小島村
変事上戸倉ハ傾家ハあれと潰家ハひとつもなし下戸倉
ハ戸数凡弐百はかり三軒[潰|ツフれ]家其他傾ける家おほし
されとも怪我死等ハなし下戸倉より西北千曲川を隔
中ノ條支配所八幡村戸数七八拾はかり皆潰家となり
死人も又おほかりしといへり
矢代より次宿ヘ三里
宿の中山王社在又「右の方松代道あり道程弐里余」北
国道ハ矢代を出て千曲川の舟をわたる川の中央をすき
て向ハ更科郡なりしの根村本名篠野井といふ此里の中に追分あり
「左ハ稲荷山町より松本ヘ出京師の往来松本より此地迄別にしるす」右ハ
北国道[御平川|オンベカハ]村「此里より右の方松代道ハ下モ[氷鉋|ヒガノ]村ヘ
出謙信信玄の古戦場八幡ン原へかゝり西寺尾村にて千
曲川をわたる川より此方道のかたハら杵淵村に武田左
典厩信繁の墓あり今禅宗典厩寺といふ有」北国道ハ布
施高田村南原村北原村上ひルの村中氷鉋村なとを過て
丹波島に至る「又犀川満水の時しのね村より左小松原村
へ出犀川を舟渡りして小市村ヘ出夫よりスゝばな川
戸かくし山より出をかちわたりして茂♠村なと小村かす〳〵過
て善光寺に至るあり道甚あしゝ」
丹波島より善光寺ヘ壱里半
此所寿永年中城太良資永と木曽義仲との古戦場横田川
原といふ也宿の後に犀川舟渡二タ瀬にて渡川の中央郡
境にて向ハ水内郡なり
変事布施高田ハ戸数凡百五十軒地震ニて拾軒はかり
潰家となり水押のため大半破損におよふ此辺の押水
ハ大概四五尺位ハあるへく聞ゆ上氷鉋中氷鉋何れも
大村なり地動にハ潰れし家もおほからすさるを水押
にて潰家流失となれるもの百軒余にもおよへりとそ
此辺往来筋堀込或ハ埃砂押出し大木大石流失の家氷
鉋の辺に目通り廻り七尺位弐俣の槻中より折れて土
蔵造りの家に流れかゝりてありしをミる又往来筋
所々流水ありて江筋の如くミゆるもあり丹波島ハ戸
数百五六十軒地震のをりに傾ける家ハおほかれひた
潰れのもの凡六拾軒壓死のもの僅に四五人さるを過
急の水押に家を潰し家財をなかし怪我人死人ハ其数
をしらすたま〳〵屋上にかけあかり木にのほりふた
日を過し辛くして助かりしものもありときけり此郷
内を川中島と唱ひ更科埴科高井水内の四郡に係り凡
村高五万石おほかた松代家の領地にて水田ハなく陸
田に麦菜種なとを植置けるか押なかさるゝあり泥の
下になれるあり壱畦も用に立へきものなくすへて此
郷内ハもとのさまハひとつものこる所なし
犀川をわたりて吹上村少し行て中御所村左に明肋(カ)山普門
院観音寺に頼朝公守本尊の馬頭観音を安置す問御所村石
堂村右に庚申堂かるかや堂西光寺常念仏なとありほとな
く後町に入則善光寺町の入口なり
善光寺より次宿ヘ壱里余
(欄外)「毎月一四六九の日市立あり
□□の傍に本堂建立の始皇極帝勅願」
善光寺ハ惣名にて入口を後町権堂田町なといふ門前町
をさして善光寺といふ此所領主所々入組なり「善光寺
ハ天智天皇三年甲子の草創にて寺号四あり其三一南命山無
量寿寺其一二定額山善光寺其弐三不捨山浄土寺其四四北空山雲上寺
といふ浄土尼寺大本願又本願上人といふ御朱印地三百
石を給る別当天台宗大勧進法印御朱印の地七百石を給
ハる各代官と云有山内すへて四十八坊此内清僧三十弐
坊妻帯十五坊ありて塔中の取扱ハ大勧進の差配なりと
いへり如来堂ハ南西十五間廿九間三尺三門四間弐尺四寸十一間壱尺三寸二王門
六間四尺弐寸四間壱尺弐寸堂前より町四方四丁の内廣サ三間余の敷石
在勢州白子の産にて江戸にすめる大竹某といへる商家
の寄附なり境内輪蔵鐘楼其他諸堂数多堂前必至と常夜
燈ありて夜るも白昼にひとし」後町より入て二王門前
に至左ハ戸隠山道右ハ北国道町を出てほともなく横山
村あり
変事吹上荒木中川町問御所石堂下後丁の辺傾家ハお
ほかれと潰家ハわつかに此所かしこに見ゆ善光寺町
のことハおほよそに申さは駅中残らす皆潰皆焼善光
寺囲の内にハ如来堂山門経堂血脈堂及ひ鐘楼別蔵大
勧進郷蔵一所民戸につゝきてハ西方に正法寺の本堂
のミ無シ難とはいへと今見るところ如来堂礎少崩
れ土台柱根なと三寸ほとも曲りてミえ本尊檀上大破
につきて四方の出入口を釘しめにして差ふさき出入
の人を止め今本尊ハ堂の裏囲を離れたる麦畑を押な
らし仮小屋を補理て安置せり堂前左右許多の石燈或
ハ砕け又は所々へ飛散金燈石仏金仏の類台座崩れて
散々に見え本堂より二王門前まて凡四町の間敷石
所々震あけて全からすかゝる大変になんなしといふ
所あるへきもあらすされ□只其大破小破の別をいふ
のミにて其他無難とある所もおしてしるへくなむ善
光寺民戸凡三千軒本堂の右横沢町桜小路の辺にて五
七軒残れる家あり土蔵弐三所□のミにてさすかに
廣き焼跡廣々として野原を見るにひとし四月十四日
代官今井忠蔵に其あらましをとひの答に公辺の届向
のため去月廿九日塔中良性院并家老上田丹下出府せ
り東叡山へ申おくれる其大意ハ塔中并小吏の家にて
死せるもの百三十八人町家にて死亡のもの千三百六
十八人合千五百余人此度開扉につきて諸国より三(ママ)詣
人群集り□利を得んために来れるもの通りかゝり
の旅人の宿れるなと幾許なるや宿屋の主も宿帳とい
ふものも皆焼失てたしかにかそふへきやうなし又宿
屋茶屋なとにて遠近より雇せし人数いまた町の人別
の数に入らてかり住居スるもの芝居見せもの香具商
人の産業のため入込たる河原ものゝ口をこするため
に詣来し類ひに至るまて何によりて是を□らんゆゑ
に旅人の死せるもの凡千五百人と見てかれこれ三千
人の人を失ひたらめと定めいへるなりといはれしと
そ江戸牛込横町藤介忰藤次良といふもの此ときに詣
来て危難を遁れ立かへれるが話せるうちにかれか宿
りし綿や仁右衛門か方に相宿する客凡三百五六拾人
助命のものわつかに拾八人なりとあるを思ひはこれ
らのほとを考へて其程量を定めいへるなるへし我し
れる人〳〵のかへり来れるが話せるを聞ても旅人の
死せるもの尚増とも減せる事ハあらしと思へりさて
其潰れし家より失火の事をたつねとへは銭湯風呂を
家業とするものさてハ旅籠屋まハり其他所々より火
出たる故暫時によく焼失せりといふこハさもあるへ
し但居家皆潰といへとさにハあらさるへしそは今よ
り廿年前我すめる今町も大に地震ふりて三所より失
火せり是を防くの人なくて数多の家を焼失なへり其
さかんに燃る其さまを見るに大破小破の家ハよく燃
潰たる家のおほき所にてハおのれと火きゆ此理をも
ておさ□此地も潰れたるよりハ破損家おほかれは必
よくもえたるなるへし何にまれ家を失ひていけるも
の塔中の族ハ本堂の右後の方に町のものハ境内をは
なれ右の方或ハ南方町裏なとに小屋を掛わひしき住
居して過せるありおのか家あとに仮宅補理て商店出
せるもまれに見ゆ焼たる跡を其まゝすておけるハ一
家死絶の家又火元のいへなりと聞えて見聞事皆肝を
ひやせるはかりなりかゝる中にも遠国より仏詣に来
れるがかの仮堂前の庇に参籠せるが三四十人も見ゆ
其ほとりに大勧進より町のものゝ困窮するやからに
粥を炊てあたへる小屋ありはしめのほとハ此手□を
受るもの千人位もありしか今ハ弐百人はかりになり
ぬとそ此事はかりにて行とゝくへきやうもあらねハ
寺領のもの松代領の者心をあハせて領主へ願によっ
て百文に壱升弐合相場は百文に壱升 の直安の御米を御払あ
りしとそ日々の入目三田米にて十五六俵と聞ゆ如来
堂を仮に補理するにも五六日のうち松代領より日々
六十人の夫を加勢あり又町中をなかるゝカネ川とい
ふ江の埋まりしを此ほと堀立にも松代よりおほくの
人夫出されてありそも〳〵廿四日の夜地震ふりてよ
りけふに至凡二十日幾許領主の洪恩をえて露命をつ
なく♠浮檀金にまされる事はるかに遠し世人此一事
にてもおほやけの有かたきを思へ
横山村相の木村上宇木村押かね村を過吉田町此所も馬
次なれと大かたハつがて荒町まて行吉田町中右の方神
代村へ出松代飯山等への往来あり此町に善教寺といふ
一向宗の大寺あり宿を出て浅川といふなかれあり常ハ
小なれとも水出れは大河となりて田畠を損ねることあ
りといへり
変事横山宇の木相の木ともに家つゝきにて戸数凡百
八十軒不残潰れ失火して死せる人九拾人三輪押鐘家
続にて弐百余軒皆潰れて厭死のもの百六十五人怪我
せるもの三十八人吉田ハ凡四百軒ほと潰れし家ハ百
七十軒死亡の七十五人怪我するもの九十三人禅刹善
教寺に折から受戒おり戒を受るもの凡六百人此寺潰
れて死せる人五百余人ときけり
あら町より次宿ヘ弐里半
(欄外)「道中ノ記
黒住村徳間村稲村稲泉村四村新町といふ黒住入口小坂在
地図
上稲積下稲積徳間東條
□云是則新町也千曲真砂四村にわかつ
イナ積ノ上ニ吉田下ニ[上野|ウヘノ]粟ノ□アリ
道中地図上中下新町三十日代馬次高札三所ニ在」
此間に坂あり吉村坂といふ吉村但「北国よりのほりて江
戸ヘ行もの犀川の洪水あれハ此地より神代道松代矢代
と出る道あり」「又此所ヘ下飯山ヘ出て千曲川の西岸を
通り越後国魚沼郡寺石村夫より小千谷に至る道あり水
内郡谷通リといふ北国道」此辺より越後国高田辺まて雪
おほく降て五尺八尺丈余にもおよふ行人雪車橇を用ゆ
かゝる時ハ一日の行路五六里にすきすといへり
変事新町宿戸数三百弐十余軒半はハ潰れ半はハ大破
傾家となり修理をくハへでハ住居すへき家ひとつも
なし死亡のもの百五十余人怪我せるもの七十三人田
子村家数六拾軒皆潰死失拾三人怪我人拾壱人吉村戸
数百弐拾軒両側に立並へりはしめの程は如何ニあり
けんしらす今見るところ上下の村端にて五十九軒の
家平体より三四尺も陥り或小破傾家となれり六拾壱
軒ハ南ハ側ともに泥に埋む其ゆゑハはしめ地震ふりし
時此里より西方壱里余十八谷といふところ所々山崩
ありしかそれか上に此所かしこの溪流押出てどろと
なれるをうしほのわくか如く山なして押出せるか其
道を得て此里の下山間より平押になせるか其勢ひ当
るものをなきたをせることゝ聞えて凡東西六町南北
四町ほとの地家居田畠皆押埋たりし也此時壓死の者
百七拾人ありしとそ其押出せるハ何れの日にやしら
ねと我しれる人三月廿七日此所にさしかゝりけるに
此里地陥り泥出て往来叶ハすとてわき道を通れるよ
しなれ廿五六の両日の事にも今ハ其泥の上に道つき
て我も人も往来してミるに道の傍に立てる木立六七
尺上まて泥の跡見ゆれは初発山なして押出せるさま
目前に見るこゝちせられていとおそろし今其埋れし
家を堀出せるわさなす所をミれは其地の高低により
てか泥の厚薄ありて大低六七尺より壱丈位に見えて
ほり出すのわさ容易からす此地ハ飯山領にてその御
領地飯山をはしめ皆難なきハあらされハ加勢する人
もなくてはか〳〵しくハ其わざなし終ぬもことわり
に聞ゆされとも四月十三日まてに漸九人の死骸をほ
り出せりとそ此里村高四百三十石此度の変事に百石
の地ハ亡所となりぬらんときけり平出新田戸数凡八
十軒皆潰にて死亡八人
牟礼より次宿ヘ弐里
宿を出て平地小坂もあり古間村此里柏原と半月かハり
馬次をなす古間川はね出しらんかんのよき橋かゝる此
橋をわたりてすくに柏原なり
変事牟礼戸数百五拾軒皆潰の上失火拾七軒焼亡に
至戸(ママ)数百軒はかり皆潰落陰戸数四十軒皆潰死失弐十
人此頃家を立ていまた人も住まさる如くミゆるもの
弐軒のミたてり小古間戸数弐十八軒四軒ハ小破其他
潰れて死亡四人大古間戸数百軒斗悉潰れて死失三拾
人怪我するもの拾八人
柏原より次宿ヘ壱里
此間平地道の左に戸隠山飯綱山黒姫山右の方にハ剣ヶ
獄鰐ヶ岳共古城山ミえて佳景なり野尻の入口右に湖水あり
中に六七町方はかりの島あり弁財天の小堂別当の庵も
あり松杉物ふり湖水も山を廻りて小ならすいと眺望よ
し寒中ハ波たちて氷らす陽気を得て氷るよし里人ハい
へり文正の頃越後の士長尾政景宇佐美定行湖中に舟遊
ひして溺死せる所也此辺ハわけて深雪のところなり
変事柏原宿戸数百余軒四十軒はかり潰死失拾六人あ
りとそ
野尻より越後国関川ヘ壱里
宿を出て坂に登る坂の半ふくにて跡を見かへれは湖中
眼下に見えてなかめよし坂の上に茶店ありさかを下り
て関川の端に出信濃越後の国境なり右に熊坂村在関川
のなかれに板橋かゝる此川の水上に地震滝の壮観あり
其水源信濃国戸隠山越後国妙高山の谷合より出つ野尻
の湖水の水もなかれ入て末流北国往来の右をなかれて
越後国今町にて海に入橋をわたりて少し登れは左の方
御関所在つゝきて関川宿に入
変事野尻宿戸数百三十余軒皆潰死失拾八人中野御代
官高木清右衛門殿御支配所なり此地より関川に至る
道筋所々破裂山崩れてもとのさまを失へるもあり関
川橋ハ両岸石もて畳上たるが震崩されて橋落たり
関川上原より次宿ヘ壱リ
宿の入口左の方に御関所あり当時高田侯の御預なり化
祝坂村に至る間左に班尾山右に妙高山手にとるはかり
にミゆ小田切坂といふを下りて谷川橋あり又坂をのほ
りて小田切に入
小田切次宿ヘ十八丁
天正の頃森勝入小田切口の合戦といふ此地なり二俣と
十五日代に馬を継
二俣次宿ヘ一里半
西の方一本木温泉ヘ行道ありしだひのぼりの山道廿四
丁妙高山の半腹にあり宿を出て大田切坂を下る谷川橋
をこゆ此なかれの源妙高山姥堂のほとりより出る又の
ほりて大田切村あり此坂路明暦元年造リかえしとそそ
のはしめハ何れの所をゆきゝせしやしらす小野沢をす
きてほともなく関山の宿に入
変事関川上原二俣辺傾ける家ハあれと倒れしハなし
小田切川橋の両たもと欠崩れたれは当時かりはし
□(かけ、カ)さす大田切にて倒れし家六軒其他かたふき家と
なる往来路一二尺はかりつゝかたさがりになれる所
又左右の山々少しつゝ崩れ□□れるもミゆ此辺より
南方一里はかりに大谷村といふ有高田侯の御領地な
り此地山を所〳〵押ならして家を立村高八拾六石民
戸弐拾七軒村東蛇崩山半腹より崩れ落て木樹土石を
飛ばし山間所々に建る家を十五軒倒し四軒ハ全く土
の下なり死せる人六拾壱人馬の斃るゝもの拾三疋小
破にてたてる家僅に六軒と道場寺一所残れるのミ其
他川あせ谷を埋ミ田畠ハ皆荒て亡所となる郷蔵一所
西の方百四五十間斗押出し微塵毀ち壱戸のいへを川
上へ押出し一戸のいへを北方山の中段に刎上ともに
潰家となる山より根こぢとなりし樹木十株斗数百間
飛ひ落杉槻の大樹道場の前に植おけるにひとしくた
てるなと其さますへて竒といふへし
関山次宿ヘ一里
宿の中左に関山権現の堂あり御朱印の地百石を給ハる
別当天台宝蔵院此地治承五年木曽義仲陣所とせしこと
もあり妙高山ハ宿の西南にありて宝蔵院持なり山上に
阿弥陀堂あり毎歳六月廿二日の夜里人参詣をなす山間
関の湯とよふ名湯ありて五月より八月まて入浴あり関
山より温泉まて三里夫より絶頂へ三里終路人家なし関
山宿北極出地三十六度五十六分高田呉服町へ五里廿五
丁廿三間ありとそ宿を出て稲荷山村関川より此辺まて
妙高山の麓ともいふへきか福埼(崎)片貝をすきて小川橋を
わたりて道の傍義仲太刀割石といふ在市屋村をすきて
ほとなく松埼(崎)駅なり
松埼二本木次宿へ二里
両駅にて戸数百百(ママ)軒はかり伝馬半月かハり天正十年森
武蔵守此所まて攻入といふ三ッ屋藤沢より板橋新田に
至る間右の方舩岡山又富坂古城山ミゆるをいづも坂四
丁斗下りて小出雲村あり天正六年上杉景勝と三良景虎
家督を争ひ合戦の時武田勝頼此所に陣をはることミゆ
信濃国新町より此辺まて道あしゝ村中右の方信濃国飯
山城に至る富倉越といふ道あり新井宿より何々の駅を
すきて凡七里村端渋江川にかゝる辻屋橋をわたりて小
出雲新田新井と里つゝきなり
(欄外)
「姫か原除戸□島猿橋長沢原長沢□富倉笹川飯山」
新ラ井高田町ヘ二里
一村を三つにわけて上町中町下町とよふ毎月六十ノ日
市立ありて村端左方に東本願寺掛所あり関川より此所
まて中山八宿といふ此地より下平地を行石塚中川稲塚
柳井田大曲田中吹上一本木の里々を過て矢代川橋あり
長三十間余此川古昔ハかちわたりなりしを元禄中より
橋をわたすといへり橋上にて望む所左の方醒ケ井ノ城
山とて天正十六年お□の時上杉謙信の養子三良景虎
生害せしところ又難波山も見ゆ右の方遠く米山もミえ
て打ひらけたる景色いとよろし橋をわたりて茶屋町今
泉脇野田荒町をすきて高田に入
変事関山宿民戸二百はかり八軒倒れたる家ありて死
失弐人二本木にても七軒倒れ死失弐人此間の里々に
一弐軒つゝの倒れし家見ゆ松崎より下往来長拾間斗
突下りたる所あり小出雲村辺倒れ家ひとつもなしさ
れとも関山よりこなた皆傾き家となる飯山道ハ所々山
崩あれはしはらく往来の人をとゝむ新井の宿ハ本願
寺掛所塀の石垣六七間崩れ下リ其他あちこちに傾け
る家ミゆるのミ是より高田に至る道所々破烈せるあ
り此間道の右箱井村の地大に破烈して砂を吹出し水
涌出おのつからなる堀拔井の如く当時水田の用をな
すときけり
高田町直江津今町ヘ二里
此地慶長のすゑはしめて城を築かれてより領主数世今
ハ柳原式部太輔殿十何万石城下にて土地ひろく繁昌の地に
て民戸凡六千はかり町に入て伊勢町出雲町関町横春日
町縦春日町府古町横町茶町呉服町上北町中北町下北町
紺屋町上橋町陀羅尼町新田町に至る南北一里余是を加
賀口と唱ふ此地より中屋敷宿ヘ一里十丁あり今町へ行
にも此口より出出入の口に番所あり又町の右に城左の
方少しはなれて寺町在上件ンの紺屋町より右にわかれ
て善光寺町長門町中屋敷町直江町本誓寺町鍜冶町鍋屋
町に至る伊勢町入口より凡一里拾九丁はかり鍋屋町
より荒川の橋をわたる長五十間川に添て又稲田町あり
こゝを奥州口とゝなへ下越後に行奥羽に出る道なり此
日高田より春日新田宿ニ至何里又稲田町より右にわか
れて一里はかり川□村に御代官小笠原信助殿出張陣屋
有かの加賀口を出はなれて西村町[移|エ]多の住居数十軒土橋藤巻天
正六年六月十九日上杉景虎へ加勢として武田勝頼此藤
巻原まて押寄春日山ハ此地より西北一里中ヤシキ宿の
後ニ在にあり追分村より左ハ中屋敷宿に至る道右ハ今町
道木田四ッ谷薄袋石橋轟安国寺左に御館の古城あとあ
り右に荒川を隔て春日新田の駅あり又同所より渡舩場
あり此所いにしへハ橋□にて往来す是を[大下|オホゲ]の橋と
いふ此橋を古歌によめる名子の継はしといへるなりと
て烏丸光廣卿へ言上せしものありしかハ吹風の便につ
けてふミゝれとまたわたらすになこのつぎはしとあそ
はされしとそ今町の入口八幡村あり左の方に府中八幡
宮の標石たてり宮居に詣つれは日吉諏訪祇園三社額を
さゝく其書上杉輝虎の筆跡なり此宮に御朱印の地百石
を附せらる是より今町ハ家つゝきなり
変事高田町倒れし家ハ弐三軒にすぎすさすかにひろ
き町家おほかた傾家となれは人おそれて凡三分のふ
たつはかりハ蔀戸しめきりてかり小屋に住居家に入
らす城内も壁を突おとせる類ひの外させる難もきこ
えす死失怪我せる人なとハひとりもなし今町への道
すちの里々も破損大体ひとしくひとつふたつと倒れ
し家ハこゝかしこにありしと聞ゆ八幡村にて倒れし
家五七軒府中八幡の社柱根浮上リ地形の崩たる所も
見ゆ石燈かさなと飛散てあり
今町湊
変事今町にて倒るゝ家五軒壁落柱くぢけなとせして
傾ける家かぞへもあけす川縁新川端町といへる片側
町にて凡百戸はかりも有へく思ハるゝ処地形一尺斗
も陥りしといへりこは新地なれハなるへし川へり烈
破する所数所泥水を吹出し道路小川の中を行にひと
しき所もあり高田侯の御城米倉行(ママ)間八間梁間弐拾八
間なるか三戸前ありともに倒れぬれと納おける米苞
ハさせる難もなしとそ此地ハ廿四日の夜小破せるか
上廿九日夕の地震にてかくさまになれりといへり
今町より荒川をわたりて黒井宿へ一里此所より春日新へ一里高田へハ
三里有則下越後一の宿場也夫より海辺の往来路潟町柿埼鉢埼まて七
里の惣号ヲ才濱といふ宿驛の間村々おほし黒井ちか
き行の濱にて倒れし家八軒同西ヶ窪ハ戸数八十はか
りありしか倒れたるが弐十斗其他大破傾家となりて
修理をくハへでハ一つも住居かなひかたくかゝれハ
怪我するものも五六人はかりも有しときけりすへて
上件ンの七里の海辺村里の家々大小の破損ハあれと
倒るゝほとなるハきかす又地破烈して砂水を吹出せ
るハ所々にあり内郷も又これにひとしときけり大地
震ふりて後も数日大小の別こそあれ日夜ふりやまさ
れハ人おそれて当時小屋掛の住居し難をのかれんと
するものもおほかりしとそ
矢代より松代ヘ弐里余
町中より岐道ありて左ハ北国道前に出右へわかれて雨の
宮村又半里行て[土口|ドクチ]村此里の上道にさし出たる山あり
是武田上杉合戦の時謙信の本陣西條山なりとそ夫より
岩野村を過一里余清野村城山を右になして其麓を回り
松代に入る皆千曲川の東岸を行道也むかふに尻飾山の
古城跡見ゆ
変事土口村下小川のなかれあり下流千曲川に入犀川
湛水一時に押出せしとき千曲川水行さゝへて此小川
まても水湛て家居の際まて水つける跡あり土口刈屋
原村道南岩山所々崩れて山畠及ひ行路を埋む矢代宿
より此方破裂の地所々見ゆ松代入口並松ある所いに
しへの千曲川跡のよし今ハ往来□となる路中凡弐町
斗の内巾弐三尺斗にして長間の破裂三四所見ゆ
松代より次宿ヘ弐里
此地真田信州侯拾万御城下廣き町なり折々焼亡ありし
ところとて家居ハ揃はす入口ハばくらう町つゝきて紙
屋町紺屋町木町左ヘ折れて伊勢町此町に式内祝神社大
鳥居あり神主内山某天台宗の神宮寺もあり又右の方に
曹洞宗の□所真田山長国寺あり御朱印の地百石を給
ふ領主の菩提所ニて其霊廟甚美麗中町の左に追手口あ
り夫より数町を過て荒野町関や川の橋をわたりて東寺
尾村此里より道三つにわかる左なるハ善光寺道中の道
の下越左へゆけは并木を過て柴村此里の百姓某が伝ひ
もてる画像の柴阿弥陀あり一向宗の徒柴のあみたと唱
ひて異仏といふ其ほとりに真田信幸開基のよしにて真
田山大峯寺といふ寺あり信幸の霊屋もあり又此里に山
本入道道鬼か塚あり古墳ハ川のむかひ陣の瀬といふ所
にありしか星霜ふりて其半土中に埋ミ知る人なかりし
を歎きて元文四年松代の藩(ママ)原鎌原の両士懐古の情を発
して此所ヘ移し石を立て碑文を刻し道鬼の功を不朽に
伝へんとす両士の志感すへし」右の道をゆけは鳥打坂
にのほる此所より北を望めは善光寺一眼下に見ゆ坂を
下りて真木島村すこし隔小坂をこゑて大室村此地埴科
高井の郡界也又鳥打坂の左山下に在牛島村ハ更科郡な
り此辺三郡入交れる処也
変事松代ハ御家中町家とも七分通ハ潰家となり残れ
るも大破して修理を加へてハ住居もなりかねからん
といへり城中も櫓囲塀の類ひ破壊ハさら御候(隠カ)居向も
大破におよへりときけり折から君公も御国におハし
ませは三月廿五日より四月なかはまて桜の馬場とい
ふ地に野陣はりて過させ給ひしとそ此殿の領地□(ムシ)
程なりしことハしらす何月何日まてに其難をとゝけ
出たるを書付おかるゝもの潰し家四千七百三十八軒
大破の家千七百四十七軒死せるもの弐千四百八十人
怪我するもの八百四十四人斃馬百五十疋なりとそこ
は地震の難はかりといへり此他犀川の埋りたる所押
破れて大山の崩るゝ如くひききにつきて押出す水勢
岩をぬき木を倒し當れるところ何かはこらふへき其
水路にたてる家蔵皆押なかさるゝもの幾許といふこ
とハしらねと此時水死の人ハ弐千をもてかそふへし
といふ此時荒地となりし田畠ハ凡七万石なりきとい

川田より次宿ヘ壱里
町の中右の方保科村ヘ出て上野国大笹へ至る道あり此
辺の人草津温泉又江戸ヘ行にも皆此道を往来す此保科
の里に古き一大刹あり阿弥陀山清水寺とて延喜廿二年
京都清水寺をうつして建つる処本尊千手観音脇士正観
音昆沙門天ともに行基作大日堂本尊大日如来ならひに
四天王定慶作何れの仏像も皆八尺以上なりむかしハ七
堂伽藍ありしといふさて川田より東川田村菱川の橋を
渡り土手に上りて堤を行左りの道に行綿打に至る
変事東寺尾村加々井村なと潰家弐三軒にすきす小破
の家ハすくなきとせす大室戸数六七十軒潰れし家ハ
わつかに五六軒此地千曲川へ遠からされはかの犀川
の水押になかれ来らる家所々に止まりてあり川田宿
地震にハ目にたつほとに破損する家ハなけれとも水
押に損ねたるか出来しとそ其押水山すそまて三四尺
はかりハ押掛しといへり
綿打より須坂ヘ壱里半余
綿打ハ須坂領にて宿柄よろしく端郷もありて高三千石
の地なりといふ入口より保科村前に出に出る道あり此地
に綿打某の居れる春山の古城跡あり今ハ曹洞宗富春山
如法寺といふ寺を建りこれよりわかれて中野へ行道あ
り其道ハ綿打より十八町行て福島こゝを過て一里六川
此地に越後国刈羽郡椎谷の出張陣屋あり堀 (ママ)壱万
石を両国にて領せらるに六川より壱里半中野に至此地
ハ多年御代官の陣屋あり当時在勤ハ (ママ)須坂へ行に
ハ本道を右の方山下へ出て井ノ上村を過壱里半余にし
て須坂に至り此里ハ堀 (ママ)御在所なり又北国道ハ綿
打よりよしの町土手へあがりて福島村土手を下り千曲
川舟渡りす此辺千曲犀川合して川巾三四十も(ママ)あらんか
暫河原を過て布野村夫より土堤へあかりて右に入長沼
に至左ハ善光寺道なり前に出
かに町より次宿ヘ
此間六地蔵町内町赤沼村川を渡りて神代にて落合長沼
ハもと佐久間備中守勝豊一万石の城下にてよき町也勝
豊の養子勝親の代に故ありて所領没収せられて城破却
これ貞享五年の事也其後長沼を上町栗田町六地蔵町内
町津野村五村にわかちて今長沼といふ地なし
綿打より次宿ヘ十八丁
福島より次宿ヘ弐り
此里を過て松川の小流有すゑハ千曲川に入又土堤へあ
かりて向の方水内郡布野村へ出る道あり沼水村
六川より次宿ヘ弐里
此里に越後国刈羽郡椎谷領の出張陣屋あり又此地より
善光寺北国往来ヘ出るにハ千曲川をわたりて浅野村に

江邊より次宿ヘ壱里
此間西間村西条村あり又江辺より千曲川をわたりて今
井村に出る道あり
中野より次宿ヘ壱里
此地よき町なり御代官 (ママ)陣屋在此間松川村一本
木村君宮村越村こし川のかちわたりして
赤岩より次宿ヘ壱里
此間柳澤村
田上より次宿ヘ壱里
此間[岩|イハ]井村
安田より次宿ヘ弐十五丁
此間野坂田村酒井村天神堂村安田村此地より飯山城下
に至る千曲川舟渡あり安田より千曲川東岸越後国妻有
庄に出る道ありこも又谷通りといふ安田廿五丁下木
島壱里近し此間樽川小なかれかちわたり有中村小見村犬飼弐拾壱町関澤村小菅村東方
小菅山といふ名所あり針田弐十五丁東方野澤村温泉あり笹澤村重地原拾町坪野村矢たれ
村平林弐十八丁[虫生|ムシフ]弐十六丁寺坂といふ峠あり桑名川村に至千曲川舟渡あり
七ヶ巻廿九丁此間浅神峠といふ難所あり七ヶ巻より千曲川を渡リ藤沢村に至道あり
東大滝壱里八丁此間城坂峠難所有明石村千曲川をわたれは平瀧村に至箕作弐里
五丁此間志久見峠難所をこえ月岡小瀧なといふ端郷を過て志久見此間志久見川といふ小流あり
信越の境なり越後国魚沼郡宮原に至此処より同郡十日町ヘ何
里小千谷ヘ何里此間宮の原より岩澤村千曲川渡場に至
るまて千曲川東にそふて行
飯山道
神代より次宿ヘ壱里
浅野より次宿ヘ壱里
此間蟹澤村大倉神田村二つ石新田村今井村川あり
皆佐より次宿ヘ三里
赤澤村三つ屋新田村境澤新田茂右衛門新田村駒立村家
澤新田村静間村を過てかいさ峠といふ坂有又川有渡り
て飯山也
飯山町より次宿ヘ弐里
本多豊後守殿弐方石御城下なり此地より左へわかれて越
後国頸城郡新井駅高田へ弐り半に出る往来あり南平村富倉な
んと過て越後長沢村ニこゆ是を富倉越又長沢越ともい
ふ右の方の道ハ水沢村大塚村を過て越後国魚沼郡馬石
村に出る道ニて谷通リといふ終路千曲川を右にミて行
道也
変事飯山御城中壱丈(カ)位あり其他小破の家おほし櫓二
所崩藩中大半潰家となる市中荒増潰れて失火焼亡其
あと廣々たる野原にひとし町の中程両側に並たてる
は奇といふへし町端に凡七八十斗の家火災にまぬか
れぬれと皆或ハ潰家又大破の家となれり又町家の地
形壱丈斗も高くなりこともはら土人ハいへれと其虚
実はしらすされとも町端上下とも所々破裂すると城
山のめりこみしとこれかれ思ひあハすれハ地禄の高
くなりしといふハそらことにハあらしと思へりこれ
のミかハ飯山の東千曲川の向ひ安田村渡場辺ハ此方
より地高故洪水のをり此方の町端ハ水にひたりても
安田の民戸と水のありし処とハ其間三四尺ハ隔てあ
りしをかの犀川の塞かりし処破れし時の大水にハ安
田の家居椽板の上水に浸すこと弐三尺飯山の方ハ堤
の上こすほとの溢水にもなかりしといへはいよゝ飯
山の地高くなりしこと論なく思ハる又市中の井戸何
れも深サ四五丈皆埋れて一滴の水なしさるから水を
そに清水を求め川水を汲あけて日用を弁すときけり
飯山町をはしめ領内村々ニて死失人千四百余人あり
といへり
戸狩より次宿ヘ弐里
今井村ぬくゐ村此村より左へわかれ大明神峠をこえて
茶屋か池といふ大池のはたを通り越後国頸城郡関田村
へ出る道あり此通りハ温井村より関田村迄三里十八丁
也右へ行くは谷通りとて越後魚沼郡寺石村出る道也
桑野川より次宿ヘ壱里
くわの川より左へわかれて出立山の岫蛭子峠を通りて
越後国頸城郡牧村ヘ出る道あり此里迄桑野川より三里
十五丁也右ヘ行て藤沢村西大滝村此間松坂峠有白鳥村
此間樽川峠惣して山坂おほし
ひらたきより次宿へ壱里半
南原村横倉村此間山坂おほくこえて千曲川の西岸へ出
るなり
青倉より次宿ヘ三里
森村羽倉村を過て越後国魚沼郡寺石村ヘ至る
寺石越後国魚沼郡
此里より或ハ峠を越又河辺をすきて同郡小千谷町に至
何里十一里廿丁終路千曲河の西にある道なり
(欄外)「寺石弐リ半
か□一リ
外丸 一リ
宮中 一リ
□ 一リ
山谷一リ廿丁 千年三リ半ヨ小千谷」
雑談
吉村にて泥の下ニなりし家々をほり出さむにも手伝ふ人
なくして容易からて日数経にけるに四月十四五日頃なり
しとかひとつの家をほり出しに家の中にてまさしく人の
うめく音きこゆいよ〳〵こゝろをはけましほりおほせて
ミるにはたして弐拾戈はかりの女子存命にてありいそき
たすけ出して面見るに色生ける人とも見えすはか〳〵し
くものもえいはていまにもはかなくなりもやせむと見ゆ
れハいたはりて医師を招き養おきしにおひ〳〵力つきて
日数も経ておほかた尋常の人のことくなれははしめより
のことゝへは家ハたふれたれと幸ひにして重棚様のも
のゝ際にありて押うたるゝこともなくひもしきをりにハ
傍にありし米櫃の米をくらひて飢餓ハおほえすされとも
わつかに五六尺はかりのすきに進退して水にひたり泥に
まミれ幾許の艱苦ハしつれといかにもして命を全ふせむ
と神仏の御名を称ひ夜るひるわかぬ闇き所にけふ迄命な
からへしハ全く神仏の御救にこそと有かたく思ふなれさ
るにても廿日にあまれる日数経しとハ我身なからもおぞ
ましけれとかたりしとなむ誠に九死をのかるゝとハかゝ
る人をやいふならめ
善光寺大門町に医師仙庵といふものゝ方にて三月廿四日
の夜新婦を招き酒宴のなかは逃出る間もあらす家をゆり
たふされよめ♠ハさら舅姑媒借皆其下になりぬおほくの
人のうちにハ死せるも片息かゝれるもあるへきを燈火よ
りや出けん焚火よりや出けん失火して鶴亀と祝せしかひ
もあらて蜉蝣の命よりも短き契をなして皆焼死せるハい
と〳〵あさましく歎かハし
小市村の山奥に松代領念仏寺村に念仏寺といふ寺ありい
かなる土地にやしらす地震ふりて間もなく地陥りて寺を
埋むはしめ見る人屋根はかりあらハれてあれは倒れし家
か陥りし家か其差別をわかす後に其底に人音あるをきゝ
つけ屋根萱をぬきすて底をのそけとくらくしてあやめを
わかす助出さんとすれと術なく又あたふへき食物もなけ
れハ先桶に水を入井の中につるへを下る体になしてあた
へやりて此事いそき領主へ訴へ出れハ四五日経ておほく
の人夫をかけられて助け出されしとそ実にさることもあ
りしにや
我しれるもの三人連立善光寺に詣て倒れたる家の下にな
りて面部に疵付足をものにしかれ失火に鬢髪をやかれな
として各無疵なるハなけれとから〳〵三人共追々に遁れ
出たれもハ互に生と死をしらす其のかれ出し時傍にあり
し衣服をおのかものとしてとりて出るあり裸身にてぬけ
出しもあり夜あけて各東西をさまよひありきてをり〳〵
ゆきあひ連れのものなりやと互に思へる事もあれときの
ふにかハり面さし風俗頓にハこともかハさてありしか後
にたつねあひてそれとしりてよろこひあへりしとそさる
に壱人の女の夫家にありて此変に人おほく死せりときゝ
て我妻の生死をしらて人にても晴雨考なといふものを考
てとしの豊凶をさきに弁するものを衆にたふとまれゐる
仏の身としてかゝる大変をもゆめしらておほくの人をお
のが膝下によせ集め皆ころしになせるふとゝきもの善光
寺野良かづらミたくてもないとさもにくらしくいひ詈し
そ人情さることなからいとをかし
村上の藩中人四人僕壱人をつれて伊勢参宮を志国を出て
善光寺の宿に泊りし夜地震ふりて家倒れ皆物におされて
容易動きもやらす頭立もの三人互に覚悟を定め若遁れ出
らるゝものハ自か因をもかへりミてのかるへしと言語を
かハしまつ端近に居し佐藤定蔵四十一二才ハ物をもえとりあ
へすはたかにて逃出山村岩治四十三四才ハ壁にうたれたりし
かこも又つゞひて遁出さてまへのもの壱人のかれかねて
居し佐藤由兵衛にいふ我々ハやう〳〵危きをのかれ出た
り御身ハいかにと声をかへ由兵衛いふ我ハとてものかる
へき術なし僕等二人組同心某僕壱人ハとく死失たり渠等と供に
枕をならへて黄泉の客となるへし其遁かたきを救はむと
て怪我なせそ各ハとく此処を立去りて難を□け給ひそ何
事もよきにたのむと答するほとに近隣にて失火せるかは
や此家にも燃□付ぬれはなく〳〵暇乞して両人ハ此処を
さりあくるをまちて町役人の方へ立よりことの子細を告
て衣服を乞求め飲食の手充をうけおほかたことの落付を
まちて東西をさまよひありきて宿れる家の火をしめせる
処へゆきて灰をとりのけ見れは弐人の死骨顕然たり三人
死せるを弐人の屍とハいふかしきことゝ思へと是を三ツ
に拾ひわけて壱人の男を傭ひ村上におくりて衣服路費を
持てむかひに来ゆといひやりて飲食の手充を乞ハんと善
光寺近き難のうすき里々をさまよひたりしに先に立て行
壱人の男あり其風体衣類天窓の赤やかなるところまても
佐藤由兵衛に彷彿たり正に亡霊の出るといふためしもあ
れはあやしと思ひと足をはやめてかれにさきたちてミれ
ハ訪ふへきもあらぬ由兵衛なりこハいかにとまつそのや
うをとへははしめふたりにわかれてより火はます〳〵さ
かんになり身のほとちかくもえ来れは今や焼かれんもの
と覚悟を定め唯伊勢の大神の神号をとなふるのミニて他
事なかりしに我を押たる木の端や燃をれけんと覚えしか
押すところ少しゆるミぬれはこはよき幸ひなり遁るゝた
けハと身を動かせは思はす体ぬけ出たりあな嬉しくとい
ちはやく其場を逃てさて各のゆくえをたつぬれとけふま
てめくりあハさりしとものかたり□かひにつゝかなき
をよろこひて両人又いふかゝるさひハひのありしとはゆ
めしらて宿れるいへの焼跡にゆきて死骨をさかせは二人
とさえミえすいふかしミなから正しく三人なるものをと
是を三ツに拾ひわけ村上へおくりこせしなり道遠けれハ
今さらすへきやうなし路費とゝのへむかへの人も来ゆか
しといひおくりぬれハ不日此処に来るへしともからもミ
てさまよひ居らんといひさとせはしかるへからす我ハ家
を出てより路費ハ身をはなさす家の倒れんとする時衣服
を着し一刀を帯し安座せるを押付られたり今思へはかく
帯ひきしめたる上へと押れたれははしめ遁出かねしなる
へしかく路費貯めれハはや〳〵帰路をいそくへしと答す
れはふたりハ何かハ拒むへきやかて心を決めいさとて少
しく旅の用意をなして夜るひるの差別もなく先信濃国を
立はなれ首尾克国にかへり来にけり
氐計按るにはしめ定蔵岩治同伴の由兵衛をすてゝ死
を遁なから裸体にして一銭の畜なし故に恙なき身と
してはやくも家にかへりて父母妻子の心をやすむこ
ともなし□れハはやく遁出し詮なし由兵衛ハ物にお
されて動しかたく失火さへ今や火にやかれんとはし
めより死をきはめたるもおそれをなせし火のために
九死をのがれカヘツテさきに逃出し人を助けてはや
く国にかへれることゝハなりぬされハ人の運不運ハ一
端にハ論しかたしさるにても頭立もの三人まちあハ
せ相伴ひてかへれるがごときハ奇といふへし
この変事を遁れて辛くして逃かへれるか出雲崎通れるに
御代官篠本彦次郎とのより人を出し行先の里数をとハせ
くれ一泊弐百文ツヽにして其泊の数応して銭を与へられ
着服帯笠ノ類恵まれしものともに九十人はかりもあり水
原御代官小笠原信助との出張陣屋川浦付村方にて倒れ家
なとありし里々へ地主共より一村三田米五俵ツゝ手充村
高百石に金弐十両のあたりにて当座の救ひあり水原付(ママ)の
富家市﨑徳次良細山清七佐藤友右衛門和泉屋忠蔵芋川徳
太良佐藤伊右衛門市﨑次郎吉真﨑権兵衛近藤甚介九人の
ものより四百三十五両の金を出す今町湊へ高田侯より家
の倒れしものへ白米壱斗大破家ヘ五升小破の家ヘ三升を
与へらる又同町の片田八右衛門川嶋孫七勝島佐五右衛門
より小破の家又難渋なるものへ米三升宛与ふ御代官高木
清左衛門殿より野尻宿はしの御支配地駅々へ金拾両ツヽ手
充あり善光寺如来仮堂の脇に大勧進より炊出小屋を建て
町方困窮ものへ粥手充ありはしめハ千人斗をまかなふ今
ハ弐百人はかりの手充となりしよし是まての入目凡五拾
石といふ善光寺米価当時百銭につき壱升寺領と本領のも
の心をあわせ松代へなけきて弐割安の御はらいの米を
を出ママさる日々三田米拾五六俵はかり差出しよし飛(カ)騨□
塩崎御陣屋より御知行所川中島水難村々難渋ものへ一食
握飯二つ手充被下米大豆麦価平均壱人ヘ壱斗ツヽ代料を以
御手充あり善光寺の難をのかれ国にかへらむとするもの
松本を通る町端に町役人出てこれにたつね路費なきにハ
一泊弐百文の手あてをはしめ着類笠掌飯を給ハリ町家身
元あるよりも掌飯又路費の足りにせよと百文弐百文と与
へしとそ上田領秋和村に弐棟の小屋を建られ炊出して飢
民を救はるこれハ水難を得しものゝ為ときこゆされと廿
一日頃引払ハれしとそ松代にて川田八幡原田口外壱所に
小屋を建られ壱人一飯掌飯二味噌くひて給ハリ□民を救
ハる当時一日四斗入七百苞はかりの入目とそ又城西沓野
山御林より松杉御伐出し町家のもの又在所家倒れたるも
のヘ小屋掛料として下され縄俵をも買上て下されしとそ
須坂にて綿内村又里方にて一所二所に小屋を建られ水難
うけし困窮ものへ粥を煮て救ハる
江戸方より来れるよしにて三月下旬拾人はかりの男善光
寺の焼あとの始末を請負なす一坪壱両又三両なとゝ引受
料を定めこれを始末して拾四五両の金銀を得しもありし
なといふものもありしとそ
或問
三月廿四日の夜おのれ新発田に旅居して此地震をしるは
しめの大震ハ尋常のに倍して其間煙草五六つきがほとゝ
おほゆされとも物をそこねるほとのことにハあらしされ
と人々おそれおのゝき外に出るものおほかりしハし過て
又小震あり近隣の人々家の倒るゝほとの震やあらむとひ
たすらおそれて寝ることもえせて家四辺に集居暁に及ふ
まて小震すへて三たひ其をり〳〵止を得て大震をおそる
其人々に対していふ大震ハ必はしめにありつゝきたる震
ハ必小なり是古今見聞の例にてさるへき理ありと覚ゆと
いへはひと〳〵其ゆゑをとふ凡地動ハ人体に腫物あると
同しきなるへし震の前暖気たるへきをりに寒気あり寒気
なるへき節に暖気をなす腫物破れされは人体常ならさる
寒熱又疼痛甚しきを覚ゆ一旦やふれて膿汁を出す一時に
膿汁出尽ささるに着服にすりなとして其破口をふさけは
いまた寒熱といたミいまたきりあへすて小患あり全療に
至れハ平常にかハリなし震又一旦大にふりて地裂山崩れ
て土中滞塞の気発すといへとも其さけたる口より水砂を
ふき出して其通路をとゝむ故にいまた発し残れるもの道
を得て発し尽さんとして小震をなすなるへしされは何れ
の地にか大震ありて後の小震にて家あたりふる震ハ腫物
のめくりのいたむくらいなるへしと応答す
或ハ問地震ハ何の故に発るや又信濃路の震僅に五町七町
にして大小交るいといふかしく思へり其理いかに弁ヘ置
けるやきかまほしといふ吾いとわかきよりいとまなくて
学問をせされハいかて詳密にこれを弁せむさなから目の
あたり見聞所もてこゝろみにいはゝ大地草木及ひ人体密
に似て空虚なる所あり西洋人の所謂火道泉脈なといへる
是なり其空なる所へ水火気の三各怠慢なく交通してよく
保つを常とせり若あやまちて其交をとゝむる時ハ大地忿
怒て震♠(ママ)を発しものを損ねること人我気に逆らふ時いか
りを発するにひとしく又人しハし鼻口をふさけは呼吸中
にさしておのつから腹のやハらかなるところ或ハ高く或
ハひきく動揺すると痰瘧ママを患ひて戦慄をなすなと皆同理
にしてものゝ順ならさるに出漢人人体を小天地なりとい
へるまことにしかり凡震の強弱ある堅土ハ♠裂しやすく
弱土ハおほかた沈没せり又震気まさに地上に発せんとす
る其勢剛強なりといへとも大山及ひ盤石ハくつかへすへ
からす山を崩せるハ只端山小山にかきり破裂沈没せるハ
皆平地のミ又震気土中を押す其さまたて板に水をなかす
に同しく高くもひきくもなりて行ものにしあれは其筋の
町間にも強弱相交れるにてさとるへし其證平地を行人大
震にあひてふりたふされ起ることもえせてむかふの山を
ミる暫時出没ありといへるいかて高山の時の間に出没な
すへきや思ふへし其高く押所ハ震強くひきく窪む所ハ震
弱し故に同し池川の窪きも水面の岸よりも高く砂を押出
せるも左なきもあるハ此いはれなることしるしといらへ
す識者のためにハわらハるへし
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 312
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 新発田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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