[未校訂]地元の人が書いた地誌 浜野建雄『伊東誌』
地元和田村(後の玖須美、現在和田一丁目)の濱野建雄
が嘉永年間ころにまとめた伊東の代表的地誌である。温
泉に関係ある項目が各所にちらばっているので、抜粋し
た。
この中に、伊東の湯が「豆州湯ケ原」の名で江戸へ出
荷されていることが書かれている。
伊東誌上巻より温泉に関する記載部分抜粋
(略)
伊東誌下巻より温泉に関する記載部分抜粋
雑部
○和田村温泉
同村出作地。慶長五年中公へ書上には慶長三戊(戌?)
年家建よしあり。慶安三年には御城へ御前湯に差上候証
拠書物等今猶存せり。又貞享三寅年紀伊中将殿御入湯に
被為入、其後は諸家方御入湯の御沙汰無之、元禄十六未
年津浪にて村中湯舎共引取られ、宝永四亥年に到、神尾
備前守殿御入湯有之、其節は和田村御宿仕候、家未無之
に付竹之内村最誓寺御本陣たり、温泉は小屋懸り(ケ)
にて御入湯被成候よし。津波十四・十五年已前迄は本陣
二軒其外座敷等有之、家も多く諸々より湯治人も参り候
よし、延享中地頭へ書上ゲ見えたり。
温泉坪五槽(一槽はキケンボウ、二槽は上湯、二槽は
外湯と唱なり。)
伊豆誌曰、泉殊に多く湧く。槽五つ。能ク温メ体ヲ治メ
婦人□地為疼ヲ、諸痛打瘍痔漏諸瘡ニ功ヲ得。 一槽は泉
濁りてぬるし。専ラ治ス眼疾ヲ。(この一槽キケンボウ
云々)
近年江府に出し豆州湯ケ原と称もの此温泉の事なり。湯
槽五つあるうち内の二槽は上湯と呼て其功験いちじる
し。(因曰此温泉正月二日初湯の時、村長下田氏入湯不済
内は他人入る事不許。已来仕来りなり。又御公儀御役人・
地頭役人和田村止宿の節は、御入湯被成候には留湯の札
を懸てみだりに入る事を不許也。慶安中御城へ御前湯差
上候節の旧記は名主家にありてここに不乗。)