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項目 内容
ID J2900002
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0869/07/09
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0869/07/13
和暦 貞観十一年五月二十六日
綱文 貞観十一年五月二十六日(八六九・七・一三)〔陸奥〕
書名 〔貞観十一年「陸奥国地大振動」と十和田火山についてのノート〕伊藤一允著「国史研究」第百号H9・12・11 弘前大学文学部発行
本文
[未校訂]一、はじめに
 青森県南部地域の火山灰の編年については、東北地方
第四紀研究グループをはじめ大池昭二氏や松山力氏らに
よる業績に負うことが大きい(1)。
 それまでは、十和田湖を形成した火山活動が終息した
のは、約四〇〇〇年前の縄文後期とする学説が支配的だ
った中で、現在、十和田a降下火山灰と呼ばれている火
山灰の多くの噴出源が十和田カルデラによるものである
ことを明らかにされた。そして、その灰白色の粉末状細
粒火山灰の降下年代は、BP一〇〇〇年の頃、すなわち
平安時代後期に当たるとした。
 まことに魅力ある学説だった。それは、「十和田湖伝説」
に関わる八ノ太郎と南祖坊のすさまじす(ママ)格闘は、十和田
湖の噴火活動による伝承が伝えられたものであることを
も指摘されていたわけである。
 このことに関し個人的なことになるが、筆者がこの上
北地域の研究をめざした頃、奥入瀬川流域の修験道研究
者であった苫米地繁雄氏(故人)から、『日本三代実録』
に記されている貞観十一年(869)「陸奥国地大震動」
について、これが十和田火山によるものだということを
聞いたのは、1975年頃であったろうか。氏は、その
微証として、伝法寺の洪水伝説と河川敷から出土した石
造物二個をあげられた(後述)。
 その後、さして確たる物証がつかめないまま、考古学
者や地質学者らから、十和田a火山灰は『日本三代実録』
の貞観十一年の地震の記事ないし、『扶桑略記』の延喜十
五年(915)の記事に関係する可能性が指摘されるよ
うになってきていた(2)。
 しかしまた誤解もあって、十和田カルデラの噴火によ
り、湖水からあふれて米代川に洪水を発生させ、家屋を
埋没させたとする論説もないではなかった(3)。十和田湖を
とりまく外輪山は、秋田や津軽方面で高くなっているの
だから、どんなに湖水があふれてもけっして米代川には
流出するはずがないのである。だから、米代川流域の埋
没家屋が十和田火山灰にかかわるとすれば、それは、雨
季や雪解けの頃の二次災害の発生によるものであろう。
こうした誤解が起こるのは、十和田a降下火山灰につい
ての調査研究が、現地の地形や状況など実地に則してい
ないこともあるし、また、誤った理解がひとり歩きする
ことから派生することにもよる。
 これまでの研究が主として、地質学や考古学から追求
されてきていて、文献史料での論説は、管見の範囲では
まったく見当たらないし、また十和田湖伝説についても、
十和田火山との関わりが指摘されるにとどまっていると
いえる。この小論では、そうした状況をいくらかでも克
服できる手がかりをつかむことを目指した一つの試論を
示すものである。今後の研究の進展の一助となればさい
わいである。
二、貞観十一年「陸奥国地大震動」本文の検討
 まず、『日本三代実録』貞観十一年五月廿六日癸未条の
本文の検討から始めたい。
① 陸奥国地大震動、流光如昼陰影。
② 頃之(久)、人民叫呼、伏不能起、或屋仆圧死、或地裂
埋殪。
③ 馬牛駭奔、或相昇踏。
④ 城郭倉庫、門櫓墻壁、頽落顚覆、不知其数。
⑤ 海口哮吼声、似雷霆、驚濤涌湖、沂洄漲長、忽至
城下。
⑥ 去海数十(千)百里、浩々不弁其涯涘、原野道路、惣為
滄溟。
⑦ 乗船不遑、登山難及、溺死者千許(計)。
⑧ 資産苗稼、殆無遺焉。
[読み下し]
① 陸奥国、地大いに震動す。流光、昼の如く[陰|かげ]を映
す。
② しばらくして、人民[叫呼|きようこ]し、伏して[起|た]つこと[能|あた]わ
ず、
或いは屋[仆|たお]るに圧死し、或いは地裂けるに[埋|うも]
れて[殪|たお]れる。
③ 馬牛[駭|おどろ]きて[奔|はし]り、或いは相昇りて踏みつぶす。
④ 城郭・倉庫・[門櫓|もんろ]・[墻壁|しようへき]、[頽|くず]れ落ち[顚覆|てんぷく]すること、
その数を知らず。
⑤ 海口の[哮吼|こうこう]する声、[雷霆|らいてい]に似たり。[驚濤|きようとう]涌く[湖|みずうみ]、
[沂洄|ぎんかい]し[漲長|ちようちよう]して、[忽|たちま]ち城下に至る。⑥ 海を去る数十百里、[浩々|こうこう]としてその[涯涘|がいし]を[弁|し]らず、
原野・道路、惣べてを滄溟と為す。
⑦ 船に乗る[遑|いとま]あらず、山に登るも及び難く、[溺死|できし]す
る者千[許|ばか]り。
⑧ 資産・[苗稼|びようか]、[殆|あや]ういかな[孑遺|けつい]無きを。
1、定説への疑問
 これまで、この「陸奥国地大震動」については、『理科
年表』が貞観十一年五月二十六日「三陸沿岸M8・6、
城郭・門櫓・垣壁くずれ、倒壊するもの無数。津波多賀
城を襲い、溺死約一〇〇〇人。流光昼の如く陰映すとい
う。津波4」と記し、これがほぼ定説となっている。こ
の通説にかねがね疑問を感じてきたが、それは次の点に
ある。「陸奥国地大震動」の核心になる部分は、『日本三
代実録』の原文と合わせてみると次の三点に整理できる。
① マグニチュート8・6の大地震が発生、「城郭倉
庫・門櫓墻壁」が「頽落顚覆」した。
② 「流光、昼の如く陰を映す」現象が起きている。
③ 津波が起こり、「原野・道路、惣べてを滄溟と為す」
ような洪水となった。
 まず、『理科年表』がいうところの多賀城の倒壊である
が、原文には、たんに陸奥国とあるのみで多賀城とは記
されていない。これが、多賀城と認定されたのは「城郭
倉庫・門櫓墻壁、頽落顚覆」とあることからだろうが、
ではなぜ、この城郭を国府の置かれていた多賀城とした
のであろうか。陸奥国には、城郭が多賀城にしかなかっ
たというのならともかく、869年の時点では、ほかに
も胆沢城や徳丹城が知られている。ともあれ、大変な大
地震が大災害をもたらしていたことは、間違いないだろ
う。
 それよりも、ここでは②の「流光、昼の如く陰を映す」
がキーポイントとなるのではないのか。地震の発生によ
る発光現象はよく知られていて、昨年の「阪神大震災」
でも「夜明け前の空が一面に強く光るのを見た」とか、
あるいは「青白い強い光が四~五回光るのを見た」「西の
空に稲光のようなせん光が走るのを見た」(「朝日新聞」
1・24)と報告されている。だが、ここでいう「流光」
をそのような短い時間現象としてよいだろうか。「閃光」
と「流光」ではずいぶん違いがあり、それは非常に特異
なことがらのような記述である。地震発生時にそうした
流光が常に観測されているのであればともかく、むしろ
この「流光」の原因は、別にあるのではないかと思われ
る。
 津波の発生について、『三代実録』はこれを「驚濤」と
してるだけで、「津波」とは書いていない。むしろ「驚涛
涌湖」となっているのだから、その「驚涛」は「湖」か
ら涌いて流出したものである。
 たしかに、ここの語句はこれまで「驚涛涌潮」として、
引用され流布してきた。だから『理科年表』が「津波」
と誤解したのも無理からぬことがあった。だが新訂増補
国史大系本『日本三代実録』(以下大系本と略称)は、底
本たる宮内省図書寮蔵本には「湖」とあったものを、松
下見林校印本によって改訂したと記している。すると、
松下見林校印本以外は「湖」となるべきだから、ここは
「驚涛涌湖」が正しい原文と考えられる。まさに「驚涛
涌く湖」なのである。この点、改定した「涌潮」によっ
て津波と判断したのであろうが、これでは「去海数千百
里」の情景と矛盾することになってしまう。
 大系本は「去海数千百里」の「千」を訂正して「数十
百里」としている。古代一里を0・65キロとすると百
里は65キロにもなるから、この訂正は妥当だと考えら
れるが、それにしても「数十百里」の意味が今ひとつは
っきりしない。ここでは幅数十里・長さ百里として考察
を加えてみると、数十里は少なく見積もって二十~三十
里としても13キロないし19・5キロとなるだろうか
ら、幅数十里・長さ百里は、幅約13キロから約20キ
ロ、長さ65キロにもわたる広さの土地が、「滄溟」つま
り海となったことになる。
 もし、このような規模の津波が、『理科年表』がいうよ
うに三陸沿岸を襲ったならばどうであろうか。昭和八年
(1933)の三陸地震では、大船渡付近で最高の28・
7メートルの津波が襲来している。この時でも仙台湾に
は4メートルの津波が上がってきている。三陸沿岸は津
波による被害を、もっとも大きく受ける地域であるから、
この城郭が多賀城ならば、海からわずか5キロの地点に
置かれていた多賀城は、まったく津波に翻弄されてひと
かたもなく海の藻くずとなっていたはずである。
 ところで、『三代実録』には、この大震動後に「撿陸奥
国地震使」が派遣(九月七日条)されて、その報告に基
づく詔(十月十三日条)が出されている。そこでは、「如
聞、陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頻
圧而致殃」とある。すると、地震の被害が大きかったの
は「陸奥国境」だったことになるが、この国境がどこで
あるのか問題となるであろう。地震と津波による被害を
想定した場合、その国境は当然、常陸国と陸奥国とに接
したところに考えざるをえまい。
 国境を常陸国と陸奥国の境とするのであれば、当然被
害は陸奥国にとどまらないで、常陸国にもおよんでいた
はずである。文字通りに「海水暴溢而為患」していなけ
ればならないだろう。ところが、常陸国からは、そんな
報告がなされていないのである。
 では、九世紀頃における災害記述はどうなのか、他の
例をみてみる。
a、天長七(830)年正月廿八日「出羽国駅伝奏云、
正月三日、今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城
郭官舎四天王寺丈六仏像、四王堂舎等、皆悉顚倒、
城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損之類一百余人
……」(類史)
b、承和六(839)年四月廿六日「案奏状偁、灾星
屢見、地震是頻、奥県百姓、多以畏逃。又胆沢多賀
両城之間異類延蔓……」(続後紀)
c、嘉祥三(850)年十月十六日「出羽国言上、地
大震裂、山谷易処、圧死者衆」(文実)
d、貞観十三(871)年五月十六日「先是、出羽国
司言。大物忌神社在飽海郡山上、巖石壁立、人跡稀
到…去四月八日山上有火。焼土石又有声如雷、自山
所出之河、泥水泛溢、…」(三実)
e、延喜十五(915)年七月十三日「出羽国言上、
雨灰高二寸、諸郷農桑枯損 由」(略記)
f、承平四(934)年閏一月十五日「陸奥国国分寺
七重塔、為雷火被焼了」(紀略)
 cやeのように全般的にわたると考えられる被害で
は、特定できるような地域名、またはそれに準ずる固有
名が明記されていないものの、他のa「登時城郭官舎四
天王寺丈六仏像、四王堂舎等」・b「胆沢多賀両城之間」・
e「大物忌神社、在飽海郡山上」・f「陸奥国国分寺」で
ははっきりと地域を示しているばかりか、寺院・神社名
や仏像さえ具体的に書かれている場合もあったのであ
る。aの「登時」は城名かどうかはっきりしないが、城
名だとすると地域を推定する手がかりになる。
 こうした事例からわかることは、災害の状況によって
地域や建造物を特定できるような国有名を持っていると
いうことである。しかしこれは、当然のことである。災
害はある特定されて地域に発生したことに意味があるか
らである。災害が、都市部に発生したのか郡部において
なのかによって、被害の大きさの把握し方や、その重要
度に対する認識の違い生まれるからである。もっとも、
地震や火山は広範な地域に災害をあたえるから、ある一
か所だけにこだわって論ずる必要はないともいえる。c
やeの例はそのことを示している。
 だが、である。貞観十一年のこの「陸奥国地大震動」
は、けっして小さな災害ではない。そこでは、「城郭倉庫、
門櫓墻壁、頽落顚覆」したばかりでなく、「溺死者千許」
にもおよんだのである。それは、aの天長七年「登時城
郭官舎四天王寺丈六仏像、四王堂舎等、皆悉顚倒、城内
屋仆、撃死百姓十五人、支体折損之類一百余人」の比で
ないこと、規模のすさまじさがしのばれるものである。
これほどの災害が大発生したにもかかわらず、特定の地
域名や具体的な建造物の名称が記載されていないこと
は、なんとも不可解である。定説のように、大地震が三
陸沿岸に発生して、地震と津波によって国府多賀城に大
打撃を与えた場合、その城郭倉庫とともに、国府の高官
が「溺死者千許」の中にいなかったはずがないではない
か。それはただちに、陸奥国の経営の根幹に関わる重大
事になるはずである。それほどの重要な事項が記録され
ないことは考えられない。また、国府の再建費用や人材
の任用を含む、その後の対応が、『三代実録』にもまった
く現れないことも不審である。
(中略)
(注、このノートには地震学にとって看過できない点もあ
るので全文を掲載したいと考えたが、発行者を引きつい
だ先生方から、内容的に学会で承認されていない点があ
るとのことで掲載を断られた。このため、その本文部分
を省略して、前文とまとめのみを収録した)
五、まとめと今後の課題
 地質学や考古学からのアプローチをうけて、ようやく
ここまでたどり着いた。『日本三代実録』本文の分析を通
じて、それが、十和田火山に由来することを解明してき
たつもりである。
 結論として、十和田a降下火山灰は貞観十一年「陸奥
国地大振動」を妥当すること、毛馬内浮石流凝灰岩は延
喜十五年「出羽国雨灰高二寸」に該当することを述べて
きた。さらには、十和田湖伝説が、十和田火山噴火と大
洪水を語り継ぐうちに、八ノ太郎を主人公とする物語と
して伝承されるようになったこと、奥入瀬流域には伝承
の痕跡や遺跡が集中して残されていることを立証した。
 北東北地域の史的研究にとって、古代中世の記録・文
献史料が極端に不足している。「陸奥国地大振動」や「出
羽国雨灰高二寸」に、正面から取り組んだ論稿な(ママ)いのは、
相互のつながりがないために分析が困難だったからだと
思われる。災害は特定の地域的な現象として記述されて
いるからである。だが、地域史研究にたずさわる者にと
っては、限定された史料の中にでも手がかりを求めて研
究しなければならないという、宿命的なところがある。
筆者は、古代史の専門家では決してない。『日本三代実録』
という古典に精通しているわけでもない。解読に自信が
あるわけでもない。解釈も専門家がみたら一笑にふされ
る点も多いことだろう。それでも、この「陸奥国大振動」
と格闘しながらようやくここにたどりついたという思い
でいっぱいである。批判は甘んじて受ける。
 この論稿はあくまでもノートである。現在までの筆者
の知見に基づいてせいいっぱい論じたつもりである。だ
が、ここには裏付けとしての物証にとぼしいことは明ら
かで、それがノートとする所以でもある。奥入瀬流域は、
ことに考古学的発掘の空白地帯となっている。今後、奥
入瀬流域でも発掘調査は確実にふえていくだろうが、そ
の際、古代の大洪水に関わる遺跡・遺物を見いだすには、
洪水現象を見抜く力量と問題意識を持った発掘がなされ
ない限り不可能である。
 新たな研究方法は多方面にわたるであろうが、その一
つとして、日下雅義氏は、次のようなことを提唱してい
る。
 シュートバーは、粗い砂礫よりなる塊状の堆積地形で
ある。これは異常な洪水時に、流水が屈曲部をうまく曲
がりきれないで、屈曲部の外側にはみ出した際、一瞬に
してつくられる。扇状地面や扇状地の末端のような、地
表面の傾斜が比較的大きい場所に形成される。地層がよ
く締まっていて硬い所では、砂礫層が一面に薄く広がっ
て木の葉状ないし紡錘形、軟らかい所では深くて細長い
流路状の形態を示すのが普通である。(『古代景観の復元』
1991)
 じつは確認こそされていないが、シュートバーらしい
現象が報告されている。「駒ノ沢は三沢市部内だが、昔は
下田町の地内であった。古間木の東北に位する部落で、
ここの中に十坪ばかりの砂土の所があるが、全部落が元
来黒土なのに、ここばかり砂土であるところから、ここ
を八之太郎がわらじをほどいたところだと伝えていた」
(『下田町誌』)というのがそれである。今後の課題とし
て、こうした実証的な研究が進展することを望むもので
ある。多くの方々の協力がなければ難しい課題である。
(1) 東北地方第四紀研究グループ「東北地方における
第四紀海水準変化」(『日本の第四系』専報15)196
9。
大池昭二「十和田カルデラ火山説」(『八戸高等学校論
集』創刊号)1972。
大池昭二「十和田火山東麓における完新世テフラの
編年」(『第四紀研究』第11巻4号)1973。
松山 力「青森県南東部における旧石器時代末葉以
降の火山灰層と黒色土層」(『奥南』創刊号)1980。
(2) 例えば、鈴木克彦『日本の古代遺跡二九・青森』1
986年。
(3) 最近の「火山の大噴火と気候・環境」(町田 洋『火
山噴火と環境・文明』文明と環境Ⅲ・1994)にも、
「たとえば東北地方北部の十和田カルデラから西へ
流れる米代川流域では、九一五年の十和田の噴火で、
軽石の下に集落が埋まっていると考えられます。こ
のときの噴火では、降下テフラは東北地方全域を覆
い、その後に流出した火砕流は、湖の水を巻き込み大
泥流となって米代川を流れ、集落を埋没したのです。
この噴火・災害は文献としては記録されていません
が、八郎太郎伝説として現代まで語り継がれていま
す」と書かれている。
(いとうかずみち・十和田湖町史編纂室)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 3
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
市区町村 弘前【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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