[未校訂] 『東大寺雑集録』では、文徳天皇の斉衡二年(八五五)
五月五日の大地震で大仏の首が落ち、六月になり朝廷は
検使を遣わしたとある。また『文徳実録』にも五月二十
三日に大仏仏頭落下の報告を受けた由の記録があり、「東
大寺乃盧舎那仏、時代久経尓太礼波、自然尓毀損天、去五月廿三
日乎以天、頽落給倍利」、『要録』も五月庚午に落下の由を奏
し六月甲申に検使が寺に派遣されたと記している。そし
て九月には真如親王が大仏司検校に任ぜられ、八幡宮に
修理のことを祈っている。「九月壬子、遣少納言従五位
下利見王、向八幡大菩薩宮、捧持大幣帛、令祈奉造
之由給矣」「嘗東大寺大毗廬遮那仏像、頭断堕地、朝廷
召集工匠、経営鎔鋳、勅令親王検校取其処分、功夫
早畢、親王有レ力焉」(『要録』)。『七大寺巡礼私記』にも
これと同内容の記事が引用されている。仏頭が傾いてい
たにもかかわらず、それに対する策がなされず、地震で
首が落下したのだから、落下の途中で所々に傷がついた
であろうし、切断された折れ口にはかなりの歪みが生じ
たであろう。故にこの首をそのまま引き上げて、すぐ鋳
継ぐわけにはいかないはずである。その間の事情を示す
文献がないので、われわれは単に想像を働かせるにすぎ
ないのだが、その修理はかなり困難なものであったと思
われる。
『要録』によると、大破していて、修理しなければなら
ぬところが多く、ほとんど新しく造るのと同じくらいで
ある。「而今件大仏、已為大破、修理所須殆及新造」
といっているから、相当の破損変形が考えられる。斉衡
二年五月に首が落ち、貞観三年(八六一)三月が完全に
修理されての開眼であるから、約六ヵ年を要したことに
なる(造東大寺大仏長官が任命されたのが天安二年〔八五
八〕四月であるから〔『文徳実録』〕、それから数えると三年
となる)。
『三代実録』によると、貞観三年正月二十一日にはすで
に修理がすんでいるごとくで、「近来奉修理東大寺大毗
廬遮那仏像、功夫既成」といい、「仍来三月十四日、当
設无遮之大会、極荘厳之妙態」といって三月の開眼会
を予定している。あるいは前年の暮には鋳継ぎ作業を終
えていたのかもしれない。この修理に最も技術的な面で
功績のあった斎部宿禰文山を、貞観三年三月十二日に賞
して位を授けている。従八位下の文山に従五位下を与え
ているところからすると、よほどの恩賞であろうし、そ
れはこの修理事業の困難さを裏付けるものであろう。
「(三月)十二日丙戌、授従八位下斎部宿禰文山従五位
下、文山修理東大寺大仏、巧思不恒、功夫早成、仍以
賞焉」(『三代実録』)。これまでに掲げた史料でも知れる
ごとく、仏頭は落下したものを補修して旧位置に鋳継い
だのだが、「頭傾頚断、頓落于地、年来修理、鎔鋳復旧」
(『三代実録』)、そのことには、真如親王の奏文に旧物を
修理することは新造にまさる功徳がある、「修理旧物、
所得功徳、勝於新造」(『要録』)、との思想が実現さ
れているのだろう。
落下の仏頭を引き上げて鋳継ぐ場合に、体内に木組を
して首と胴との結合の強化を計ったか否かは、史料的に
は何もわからない。あの巨大な仏頭を引き上げて胴の上
に据えるには、単なる人力では不可能である。ここに文
山の技術者としての偉大さがあった。『三代実録』の貞観
九年四月四日の条は、文山について次のごとく説明して
いる。
文山が死んだ。彼は右京の人で貧乏の出身であるが、
巧みな技術者として知られていた。東大寺の大仏の頭が
落ちた時に、誰もこの落下の首を継ぐことができなかっ
た。ところが文山は轆轤の術(廻転する車、つまり滑車
利用のクレーンのことか)を知っていて、高い梯子を組
んで、これらで断頭を引き上げて鋳継ぎを行なった。そ
の結果はまるで新しく仏頭を造ったごとく上手であっ
た。「散位従五位下斎部宿禰文山卒、文山者右京人也、出
自寒素、以巧芸見知、斉衡二年、東大寺毗廬遮那仏
像頭堕在地、無巧師之可能造続者、文山究轆轤之
術、構雲梯之機、引上断頭、続大仏頚、宛如新造、
既復本体」。
かくして仏像は旧に復したが、仏後の土山にこの時、
何か手を加えたか否かはわからない。これから一二〇年
を過ぎた寛和二年(九八六)に円融院が東大寺で御受戒
をなさった頃には、なお仏後山で仏体が支えられていた
が、その破損傾斜等の進展の有無についても、土山の目
ざわりについても、記載されていない。「法皇入大仏殿、
遍以礼拝、大仏之為躰也、聚金銅以鋳其像、築山岳
以扶其座、神也妙也」(『円融院御受戒記』)との記述を、
大仏破損に対する円融院の修理の意図を表わしたものと
解すれば、仏後山の目ざわりと不安定を裏付ける材料と
なるが、単に大仏を見た時の立派な状況を表現する言葉
と解すれば、仏後山は何ら邪魔な存在ではなかったこと
になる。後者の意に解すべき文章とみた方が当を得てい
るように思われる。
その後永延元年(九八七)に雷火で大仏光背を焼損し
たのを、寛弘二年(一〇〇五)に修理することがあった
り(『要録』)、治承元年(一一七七)十月二十七日の地震
で螺髪が少々落ちたりした(『玉葉』)が、背面の損傷に
ついては何も記録されてない。この地震は東大寺の大鐘
が落ちたほどに大きかったから、仏後山に隠れた割れ目
をさらに大きくした可能性が考えられるが、明確なこと
はいえない。「大地震、保延以後無如此之地震云々、
東大寺大鐘被振落了、又同大仏螺髪少々落了云々」(『玉
葉』)(『百錬抄』では螺髪二個が落ち、頂上螺髪が抜け上
がったとある)。この地震の翌々年の治承三年十月に造東
大寺使が任命されており(『玉葉』十月二十二日)、その
翌四年の五月には「東大寺修造事」が『玉葉』に記載さ
れているが、大仏修理と関係があるや否や明らかでない。
仏後山とはおそらく無関係であろう。 〔前田泰次〕
(1) 香取秀真氏は、創建時の大仏の手は別鋳のものを
鋳からくりしたとする見解のあることを、第一章の
注11の論文で言及し、また二年後の「東大寺大仏の鋳
造に就て」(『国華』三二九・三三〇号、大正六年)で
は、これをさらに進めて別鋳の可能性を示唆してい
る。