[未校訂](前略)
四、被害の実態について
(一)犠牲者は二十一人
地震による人的な被害は、はじめに述べたように『熊
本市史』が「圧死者二十人」、『熊本市政七十年史』は「死
亡五名、重傷五名、軽傷六名」、『熊本県史(近代編第二)』
が「圧死十九人の中で十五人は飽田郡である」と述べて
いる。いうまでもないことであるが、『熊本市政七十年史』
は、当時の熊本市内における被害者の数である。他の二
つは熊本県下の犠牲者数を示したものであるが、それに
しても県下の圧死者の数は何人だったのであろうか。
そこでまず、これらの数字の根拠になったと考えられ
る資料に当たることにした。その結果、『熊本市政七十年
史』の死傷者数や家屋等の被害数字は、県政資料(二三―
一五)の一八八九年(明治二十二)十一月二十六日の訓
令第二一二号にかかわる義[捐|えん]金分配のもとになった被害
調査の表と同じであることがわかった(表1)。この時、
義捐金は死亡が一人に付き「金壱円六十弐銭」、一等負傷
には一人に付き「金八十壱銭」、二等負傷には同「金四拾
四銭」、倒家は一戸に付き「金壱円貳拾貳銭」、半倒家の
場合は同「金壱円拾壱銭」が配られている。この後、同
資料は「義捐ハ前項既ニ記セシガ如ク其分配ヲ終結セリ
然ルニ其後猶救恤ノ意慈恵ノ情ヲ表シテ送金スルモノ層
一層ノ多キニ及ベリ」と述べ、その後の送金者・団体名
と金額を記すとともに、再び被害調査表を掲載している。
表1とこの表を比べてみると、死亡者数が表1では二十
一人となっているが、この表では二十人となっている。
これは死亡者の一人が無籍者で、義捐金を受け取るべき
遺族がいないことから除外されたためである。『熊本市
表1 被害調査表(義捐金分配に関する)
郡市
熊本
飽田
託麻
宇土
上益城
下益城
玉名
山鹿
山本
計
死亡
一等負傷
二等負傷
倒家
半倒家
合計
五人
八一〇〇
五人
四〇五〇
六人
二六四〇
六戸
七三二〇
四十八戸
五三二八〇
七五三九〇
十六人
二五九二〇
十六人
一二九六〇
二十三人
一〇一二〇
六十一戸
七四四二〇
八十九戸
九八七九〇
二二二二一〇
四人
一七六〇
五戸
六一〇〇
七戸
七
七七〇
一五六三〇
一戸
一二二〇
一二二〇
一人
〇四四〇
八戸
九七六〇
六戸
六
六六〇
一六八六〇
一戸
一二二〇
四戸
四
四四〇
五六六〇
二人
〇八八〇
七戸
八五四〇
六戸
六六六〇
一六〇八〇
一戸
一二二〇
三戸
三三三〇
四五五〇
一人
〇
八一〇
一人
〇四四〇
三戸
三六六〇
四九一〇
二十一人
三四〇二〇
二十二人
一七八二〇
三十七人
一六二八〇
九十三戸
一一三四六〇
百六十三戸
一八〇九三〇
三百三十六
三六二五一〇
(備考)県政資料二三―一五による
史』の「圧死者二十人」という数は、ここからでてきた
ことも考えられる。
ところで、この「震災被害調査表」はこれだけではな
い。これより前、県政資料(二三―一五)のなかには、
恩賜金下賜について次のような資料がある。
陛下ニハ被害ノ景況ヲ被聞召視察トシテハ富小路荻
ノ両侍従ヲ差遣セラレ且ツ両陛下ハ救恤トシテハ金千
三百円下シ賜ル即チ宮内大臣ヨリ電報アリシ外ニ左ノ
如ク達セラレタリ
熊本県
其県下震災実況視察侍従ノ復命被
聞食
聖上ヨリ金千円
皇后宮ヨリ金三百円下賜候條目下救恤ノ
補助ニ充ツヘシ
明治二十二年八月二十四日
宮内省
これをうけ、熊本県は審査委員を定め、審査会を開き
[罹|り]災実査の方法を検討するとともに、福岡・佐賀・大分
など、他県の分配方法なども参考にしている。審査会は
八月二十六日に開催され、被害調査法が検討・議決され
ている。その内容は次のとおりであった。
被害調査法
一 死亡者 毎人平均
一 負傷者
一 重傷ニシテ不具トナリ自用ヲ弁シ能ハサル者
二 重傷ニテ不具トナルモ自用ヲ弁シ得ル者
三 軽傷ニシテ十日以上休業セシ者
調査法
前各項ノ調査ハ県官ヲ実地ニ派シ其地方警察官吏郡市
町村吏員及市ハ参事会員町村ハ町村会議員ヲ立会ハセ
詳細調査シタル後審査委員会ニ付シ之ヲ議定セシム
審査委員ハ書記官警部長収税長并被害地ノ郡市長主務
属官警察官ヲ以テ之ヲ充ツ死亡者ハ遺族ヘ給シ遺族者
ナキハ其町村長ヘ交付スルモノトス(中略)
調査凡例
一 死亡者ハ震災ノ為メ家族其他崖崩壊ニヨリ圧死セ
シモノニ限ル
一 負傷者ハ家族并器物其他崖崩壊ノ為メ又ハ振動ノ
為倒レテ負傷セシモノニ限ル
一 負傷者ノ等級ハ不具トナルモノヲ一等トシ不具ト
ナラサルモ治療四十余日ニ及フモ全癒セスシテ後
来不具トナルノ確証ナキモノヲ二等トシ負傷後治
療中休業十日以上ノモノ及ヒ負傷ノ痕跡ヲ残スモ
ノヲ三等トス
一 倒家ハ住居家ニシテ全ク潰シタルモノニ限ル但借
家并ニ同居ノモノハ之ヲ省ク
一 半倒家ハ住居家ニシテ半ハ潰シタルモノニ限ル但
借家并同居ノモノハ之ヲ省ク其調査ニ加ヘタルモ
ノヲ細別スレハ左ノ如シ
一 柱折レ家ハ傾斜シ壁半ハ落チ添ヘ木ヲ用
ヒサレハ倒レントスルノ異状アリテ再修
ノ目的ナキモノ
一 本家大破シ大撃シ崩落シ店ノ半ヲ潰シタ
ルモノ但大撃ト雖トモ押入レノ如キハ之
ヲ省ク
一 家屋ニ棟ノ間ニアル炊事場(水走リ・竈)
ノ脇ヲ通シ二棟ニ通スル廊下ヲ併セ一部
分全ク潰レ二棟ヲ両断セシモノ
一 炊事場(水走リ・竈)縁側ヲ併セ崩壊セ
シモノ但水走リ并井戸上ノ屋根ノミ崩壊
セシモノノ如キハ之ヲ省ク
一 調査ノ際修繕済ニテ其景状見認難キモノ
ハ近隣ノモノニ就キ当時ノ実況ヲ聞取リ
其家屋ノ幾部分崩落スルカ又ハ本家ノ柱
半ハ取換タル形跡アルモノニ限ル
一 大破ニ及ヒ再修ノ見込ナク解キ除キタル
モノハ近隣ノモノニ就キ聞取相違ナキモ
ノハ総テ半倒トス
一 下家或ハ大撃シト雖本家ノ坪数稍々同シ
キモノ
そして、これに関する被害調査の結果は、表2のとお
りであった。表1よりも前に行われた調査のため、被害
の数は項目によっては少なくなっているが、これからも
わかるように、義捐金分配に関する被害調査表は人的な
被害はともかく、家屋などの物的被害は「借家又ハ同居
ノモノ并住居家ノ外ハ之ヲ除ク」(「罹災者調査心得」)と
あることから、必ずしも被害の実態をあらわすものでは
なかった。『熊本市政七十年史』に記述されている家屋の
被害状況も、実際の被害数よりは少なくなっている。
なお、気になる先の無籍者に対する恩賜金と義捐金の
取り扱いであるが、「初回ノ分配アル中右ノ無籍者ニ対ス
ル恩賜金ト義捐金ト計金十二円八銭七厘ハ之ヲ授クベキ
遺族ナキニヨリ優渥ナル聖恩ト奇特ナル慈恵トヲ無窮ニ
伝ヘ加之地下ノ魂ヲ慰スル為メ金一円五十九銭ヲ仮埋葬
費ニ金五円ヲ建碑費ニ金三円ヲ寺院読経料ニ金貳円四十
九銭七厘ヲ香花料其他ニ充ツベキヲ命ゼリ」(県政資料二
三―一五)と記されてあり、手厚く供養がなされたこと
がわかる。
次に、『熊本県史(近代編第二)』が引用した『熊本明
治震災日記』の「震災被害表」は、県が発表したもので
ある。筆者が確認したところ、本表は県政資料(三二―
一五)の「各地被害の状況」のなかに掲げられたものと
同じである。ここでは、「震災ニ罹リシ各郡ノ潰家、死傷、
裂地、道路、山林、耕宅地、堤防ノ崩壊、橘梁ノ損破、
井水増減濁ハ既ニ熊本県庁ノ精査報告アリ今左ニ市郡別
ノ表ヲ掲ク」として、表3の「震災被害一覧表」を載せ
ている。これは熊本市および各郡の被害表を集計したも
ので、調査の時期は同資料の「第六統計」のところで注
記されているように「八月五日迄ノ調査ニ係」るもので
ある。県政資料(二―三三)に「震災被害表」として掲
げられているのも、これとまったく同じものである。
この時点では、県内の圧死者は十九人で、その内訳は
熊本市三人、飽田郡十五人、玉名郡一人であった。それ
では『熊本市政七十年史』が[拠|よ]り所とした、「震災被害調
査表」の熊本市の「死亡五」という数はどこからでてき
たのであろうか。その経緯をみると、玉名郡の死者一人
は、実は原籍が熊本市新馬借町で、地震の当日、母親と
玉名郡高瀬に出稼ぎ中に辻堂で圧死した十歳の子供であ
る。原籍が熊本市ということで、熊本市の犠牲者のなか
に加えられたものである。もう一人は段山町の住民で、
八月十日の余震で「崖崩落ノ為圧死」(市政資料七一三)
し、これで、熊本市の死者が五人となったわけである。
表2 震災被害調査表(恩賜金分配に関する)
郡市
熊本
飽田
託麻
宇土
上益城
下益城
玉名
山鹿
山本
計
死亡
一等
二等
借家
借家
倒家
半倒家
負傷
負傷
全倒
半倒
人
五
一六
二一
人
五
一六
二二
人
六
二三
三
二
三六
戸
六
六〇
五
八
七
三
一
一
九二
戸
四五
八五
六
一
六
一
四
六
三
一五五
戸
戸
一五
二
一
二三
戸
六
二〇
二
一
一
二
一
一
三一
(備考)県政資料二三―一五による
また、この県の「震災被害表」では飽田郡の死者が十五
人となっている。そこで本表のもととなった「飽田郡被
害表」から圧死者の地域別内訳をみてみると、黒髪村二、
小島町一、川尻町六、高橋町五、池上村一となっていた。
しかし、飽田郡が九月七日付で報告した恩賜金の分配に
かかわる被害調査の報告では、川尻町の死亡者は六人で
はなく七人で、いずれも氏名・族籍・職業・年齢・住所
が明記され、計十六人となっている。結局、前にも述べ
たように、この大地震による犠牲者は熊本市が五人、飽
田郡が十六人、合わせて二十一人にのぼったことになる。
(二)家屋等の被害実態について
人的な被害はともかく、家屋など物的な被害の実態を
資料のうえで把握していくことは難しい。前節でも述べ
たように、恩賜金や義捐金の分配にかかわる資料は残さ
れているが、これが被害のすべてを示す資料ではないか
らである。その点、熊本市や各郡から八月五日までの被
害状況をまとめた被害表をもとに集計した「震災被害一
覧表」(表3参照)が、こうした被害状況を知るうえでは
適当な資料といえよう。
ちなみに筆者が、市政資料七一三の「瀬戸坂災害一件
付震災被害調」のなかにある「潰家一覧表」を検討して
みた。その結果を示したのが表4である。この表は、例
表3 震災被害一覧表
郡市
熊本
飽田
託麻
玉名
山鹿
山本
菊池
合志
上益城
下益城
合計
家屋
人民
全倒
半倒
圧死
女男
負傷
女男
裂地
崩壊
道路
山林
耕
宅地
堤防
橋梁
壊落
破損
井戸
増水
減水
濁
三一
棟
一七
棟
一二人
三二人
三八
所
所
所
所
所
三所
三所
所
所
三所
一四三
一二二
七
八
一九
一五
六四二
九九
九
三二六七
二八
一〇
一七
一五
一
八四
一一
五二
五
一三
四
一
二
二
四
七
一三
二七
一
一
六
一四二
二四
二
二三
三
一四
三六
一一
四
一
一一
六
二
三
八
六
一
二四
三
二
二四
二
三
一
六
一
五
二
二
二
二
一
一四
一三
五
四
四
二
二
一
二
二
二三四
二二九
一〇
九
二七
二六
八九三
一三七
一七
三三三六
四五
二四
四一
一九
一
一三八
合計が不一致で明らかに数値が抜けていると思われる所もあるが、ここでは
資料のままとした (備考)県政資料二三―一五による
えば家屋が壊れ、物置が半壊した場合は、全潰と半潰の
それぞれの部に個々に集計されており、被害の実態が把
握しやすくなっている。これを表3の全倒・半倒の数と
比べてみると、おそらく八月五日以降に追加されたと思
われる分を除けば、「潰家一覧表」にあげられた数との間
に大きな差はない。こうしたことから、「震災被害一覧表」
は八月五日以降の調査などで多少の増加があったり、
市・郡によって被害調査の判断基準にばらつきのあった
りすることも考慮にいれなければならないであろうが、
ほぼ被害実態に近い数があげられているものと解してよ
いであろう。
ところで、表1と表2の義捐金・恩賜金の分配にかか
わる倒家・半倒家の数と、表4の「潰家一覧表」の全潰
と半潰の数が、大きな食い違いを生じているのはどうし
てなのであろうか。これについて、市政資料の「潰家一
覧表」を詳しく検討してみると、ここには全家・炊事場・
物置・土蔵など、潰家の区分と町名・番地、持ち主と現
住者の氏名が記載されている。そして、全潰の部をよく
みると、いくつかの箇所の欄外に「省ク」とか、「半」、
「○×」などの注記がなされているのが目につく。これ
らの注記の意味するところは、恩賜金の分配にあたり、
全潰した建物であっても、前節で述べた調査凡例に従い、
このうちの十二軒は半倒(「半」)の部に変更されていた
り、借家や炊事場、物置などはその対象から除外(「省ク」)
されたりしており、そのことを記したものであることが
わかる。その結果、表1・2では表4より倒家の数が少
なくなり、逆に半倒家の数が増えているのである。ただ、
恩賜金分配の対象となった半倒家のなかには、「潰家一覧
表」に記載されていないものも含まれている。これは被
害調査法に従って、その後変更や新たに調査・追加され
たものであろう。
なお、ここで用いた市政資料の「潰家一覧表」は、市
から県に報告され、県政資料(二―三四)のなかにも収
められている。このなかには、これ以外にも地震発生直
後、熊本市や各郡からの被害報告の資料もある。
最後に、参考までに八月三十一日までの震動表(表5)
表4 潰家一覧表
全潰の部
半潰の部
内訳
棟数
追加
計
内訳
棟数
追加
計
全家
炊事場
物置
土蔵
長屋
職工場
計
一二
八
七
二
一
一
三一
四
四
一六
八
七
二
一
一
三五
全家
物置
下屋
駐車場
計
一四
二
一
一
一八
二
二
一六
二
一
一
二〇
(備考)市政資料七一二(瀬戸坂災害一件付震災被害調)による
を掲げておくが、この震動表(県政資料二三―一五)か
ら十二月三十一日までの推移をみてみると、余震の回数
も九月に入るとかなり少なくなったことがわかる。それ
にしても、地震発生から十二月三十一日までに、劇震が
七月二十八日と八月三日の二回、稍強が七〇回、軽震が
二二八回にものぼっている。
五、結びにかえて
一八八九年(明治二十二)は、「熊本区」が「熊本市」
となって、近代都市への第一歩を踏み出した年である。
しかし、この年は不幸なことに、天候が不順で大きな災
害が相次いだ。富小路敬直、荻昌吉両侍従の震災の実況
視察復命書に、「連霖三十余日ニ渉リ県内芦北天草ノ二郡
ヲ除キ一市十三郡ノ地皆多少ノ水災ヲ被ラサル所ナク熊
本市内瀬戸坂ノ如キ七月廿三日崖地大ヒニ崩壊シ為メニ
家屋潰♠シ圧死アリ同廿七日ニ至リ漸ク晴天ヲ仰クヲ得
タリ」と記されているように、この年の七月二十二日か
ら二十四日にかけての豪雨は県下に大きな被害をもたら
し、大地震を上回る八十人近い犠牲者を出している(注)。熊
本大地震は大雨が一段落し、住民みんなが[安堵|あんど]した直後
の出来事であった。
ところで、熊本大地震の記録をこの小論にまとめよう
としたきっかけは、『新熊本市史』の近代・史料編の史・
表5 震動表
日
劇震
稍強
軽震
鳴動
計
七・二十八
二十九
三十
三十一
八・一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
十一
十二
十三
十四
十五
十六
十七
十八
十九
二十
二十一
二十二
二十三
二十四
二十五
二十六
二十七
二十八
二十九
三十
三十一
後十一時四十九分一
前二時十八分一
二三
五
一
一
一
三
二
一
一
一
二
一
一四
一〇
一二
六
一八
一一
五
五
三
五
一
四
四
四
四
一
四
六
三
一
二
二
三
二
二
一
一
一
一
一
二
三三
一二
二
四
七
一三
九
六
五
六
一
二
二
一
五
五
六
七
三
五
一
六
四
一
四
三
二
二
四
五
二
二
三
一
七〇
二七
一五
一一
八
三五
二二
一
一一
四
一一
二
六
六
五
九
六
一一
一三
六
六
三
八
七
三
六
六
四
三
五
六
四
二
二
(備考)県政資料二三―一五による
資料を調査中、市政資料の「瀬戸坂災害一件付震災被害
調」を検討したことにはじまる。ここには、熊本市内の
地震被害の調査結果や被害届など、貴重な記録が残され
ている。また、昨年はたまたま阪神・淡路大震災もあり、
災害には関心があったことも背景にあったといえよう。
そして、検討をすすめるなかで、熊本大地震の被害の実
態がどうなっているのか、これまでに書かれた文献をみ
ても、一般の人には非常にわかりにくいこともわかった。
いくつかの資料に当たり、比較・検討することでやっと
被害の状況が見えてきたというのが実情であった。そこ
で、地震被害の資料を再検討し、多くの人にわかりやす
いようにまとめてみるのも意義あるものと考えた次第で
ある。
ここで使用した史・資料は、数多くあるなかのほんの
一部に過ぎない。機会をみて、今回活用できなかったも
のを、次は地理学的な視点から検討してみたいとも考え
ている。
(注、熊本県『熊本県史(別巻第一・年表)』(一九六五年)
による。)
〈付記〉
本稿をまとめるに当たり、熊本大学教養部の猪飼隆明
教授からいろいろとご教示いただいた。ここに厚く謝意
を表する次第である。