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項目 内容
ID J2800935
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔大阪春秋〕第二四巻第一号H7・3・31 大阪春秋社
本文
[未校訂](堺・大浜の安政大地震碑とカワラ版)中井正弘
編集部註 本稿は本年一月十七日の阪神大震災発生前
一月五日に出稿されたものです。
(前略)
 その次に大きいのは、一八五四年の安政の地震と大津
波である。この記録が当時の堺の町衆が建てた石碑と町
中に流布されたカワラ版で詳しく残っている。この年は、
ロシア艦が、開国を求めて大阪湾に来航。幕末の政情不
安な時であった。
 旧堺港に接した大浜公園内に建っている記念碑は、高
さ二・七㍍の花崗岩の自然石に大きく「擁護璽」の三文
字のみが表面に刻まれているだけのためだろうか、なか
なか気付かれない。裏面は植栽に隠れている。このため、
ほとんど注目されることがない。しかし、この裏面には、
縦一一二㌢、横五七㌢の和泉砂岩がはめ込まれ、行書体
で、かなり詳しい当時の地震と堺の海岸地帯を襲った津
波の様子を刻んでいる。すでに碑面の下部が風化により
剝離して読めなくなっている。このまま放置すると、将
来、碑文の全部が剝落してしまいそうなので、原文を紹
介しておきたい。
 碑文は、恐ろしかった地震・津波のすさまじさと後世
への教訓、地元の神様への感謝と加護を祈る内容である。
 嘉永七寅のとし六月十四日地震あらあらしく、またも
十一月四日朝、五日夕につよくゆり動き、五日はゆるゆ
る、その沖のかたおとろおとろしくなりふためき、暮な
んころ俄に津波たちて、川すしへけはしく込いり、引も
大地震碑(大浜公園内)
またはけしく、川へりに繫し船ともは、碇綱きれ、棹さ
すちからたらず、矢庭に走入り、そこよここへつきあて
て、橋八つも崩落ち、船はわれ、あるいはつよく損して、
見るおそろしさいはんかたなし、地しん津波に家潰れ、
ぬりこめかたむきたるはさはなれと、里人は神社の広庭
に集りてさけ居たるか、これかために一人も怪我はした
る人のなきこそ、いといとめてたかりける、余所の入江
川筋には、地震をよけるに小舟に乗り、家うち円居し、
したりかほにありけるが、大船いやかうへ、高汐のため
にはせ入に敷かれて、命落せしもの数しれすとや、まさ
に川へ逃除たるゆへなり、ゆめゆめ地震つよく、川すし
へ船に乗りさけることすましきなり、むかし宝永年中に
も、こたびにおなじ地震つよく、津波もあり、船に除け
居て命をとらるるもの多しとや、かかるためしもあきら
かなれは、地しんつよけれは、つな見ありと知るべきな
り、堺の人のつつかもなきありかたさに、産神神明宮・
三村宮・天満宮にそのよろこひの幣を捧け、後の世まて
も患のなきを祈りて賜りしを爰に祭るになん
 嘉永七年は安政元年に改元されるが、碑文の内容から
注目されるのは、十一月五日夕方の前ぶれが、五ヵ月も
前の六月十四日から始まったこと。強震の後、急に津波
が押し寄せた。その津波が川筋を遡り、繫留していた船
も押し流し、八つもの橋を破壊したこと。この地震・津
波により家も潰れた。ところが、堺の人たちは、神社の
境内に避難していたため怪我をした人は一人もいなかっ
た。他所の入江の川筋では、逆に小舟などに乗り、した
り顔で逃れたが、かえって高潮のため死んだ人が多かっ
た。宝永年間にも同じような地震と津波があった時の経
験を、堺の人が生かしたからだ。強い地震があれば津波
が来ることを知っておくべきだ、と警告しているのであ
る。
 この碑文では、幸い人命の被害がなかったように記さ
れているが、当時、発行されたカワラ版では様子がちが
う。『泉州堺津波之絵図』(二四×三六㌢)と題したカワ
ラ版には旧堺港とそこにつながる内川・旭川・竪川・古
川付近一帯の被災地区図とその概要が記されている。
 記事には、「嘉永七寅十一月五日酉の上、沖より大地震
中に津波来テ、市中殊之外驚き、兵庫沖より風吹キ来テ、
一面とろ水ニ成、大船小船ニ至迄、一時ニ川中へ入込、
橋々突落、怪家(我)人死人夥敷、何れも水入白海之如
候、殊ニ前代未聞之騒動、大方ならず、其荒増を知ス」
とあり、「橋落八ツ、死人凡五十七人」と注記がある。五
七人ほどの死者のほかけが人も多数出ている。
 『堺市史』(一九三〇)が、地震による大阪の大損害に
対し、「堺表者同様家潰れ死人等有之様委敷者聢と相分り
不申候」とした旧家所蔵資料の紹介と、津波では「橋梁
を破壊したりしたが、人畜の被害はなかった様である」
と、さきの碑文から推定しているが、カワラ版の記事と
相違がみられる。わざわざカワラ版の発行や大きな記念
碑を建てているところからして、少々の地震と津波でな
く、大規模な被害をもたらしたことは間違いないと思わ
れる。
 この十一月四日・五日両日の大地震は同年六月をはる
かに上回り(推定マグニチュード八・四)、大坂三郷では、
潰れ家八三軒、土蔵七ヵ所、納屋七ヵ所、土塀九ヵ所、
大破損家七ヵ所、道場一ヵ所、潰れ井戸家形二ヵ所、潰
れ絵馬堂一ヵ所、死者女二人であった。
 さらに津波の方の被害が大きかった。「天保山の人家は
惣崩れ、泉尾新田・今木新田・月正島・木津難波新田・
勘介島・寺島・三軒屋などは一面の白波、人家は残らず
流され、死者は数知れず。木津川・安治川口につながれ
ていた千石・二千石あるいは五百石の大船は、逆巻く波
に矢よりも速く川へ押し上げられた。今木・難波島にあ
った北前船も突き上げられ、剣先・上荷・茶船などは押
しつぶされ、あるいは大船の下敷きになった。乗り込み
の溺死者は幾千人とその数を知らず、川の上へ張り出し
て建てられた懸け造りの家はもちろん、蔵納屋に至るま
で大船に打ち砕かれ、水勢が三方に分れる大黒橋のとこ
ろでようやく船は止まった。憐れむべきは、地震中に上
荷・茶船の小船に難を避けようとして内川に舟住居をし
ていた者、また浜側の空地へ逃げた男女老若がこの津波
で一人残らず水死したことである。引き揚げられた死体
は泥だらけで、誰かれの判別もできず、着物を見て連れ
帰り、葬送した。津波による被害は、破損した廻船一一
二一艘、川船七二二艘、溺死者二七三人、落ちた橋一〇
ヵ所、潰れ家三軒、大破損家七六軒、潰れ納屋八ヵ所と
なっている。しかし、水死者や破損した船の実数などは、
これを大きく上回ったと思われる。『鈴木大雑集』は、一
万艘ばかりの船のうち無事だったのは二〇〇〇で、あと
はなんらかの損害を受けたとし、死者の数もおよそ七〇
〇〇人としている。また、他国からの流入者や船頭など
の死者はおよそ六〇〇〇人という数字もある。海にのま
れた者も数知れないほどであったから、死者の総数は一
万人に近いのではなかろうか」と『大阪府史』第七巻(一
九八九)は述べている。(後略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 424
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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