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項目 内容
ID J2800048
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 慶長元年閏七月十三日(一五九六・九・五)〔山城・摂津・和泉〕
書名 〔十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅰ期第二巻1594年~1596年〕松田毅一監訳一九八七・九・二五同朋舎出版発行
本文
[未校訂]一〇 一五九六年(九月十八日付、都発信)
十二月二十八日付、長崎発信、
ルイス・フロイスの年報補遺
(前畧)
 第四の不思議は、他のいかなることよりも恐怖と戦慄
を覚えさせた新たな前代未聞の地震であった。それによ
って非常に多くの、そして大いなる損害と破壊が起こり、
人々の記憶には決して見られたことも聞かれたこともな
いほどのものであった。この悲惨な事件の真相が、その
最初の起こりから理解されるように、我らは大坂と[都|ミヤコ]で
の、幾つかこのことについて記録したものを紹介するこ
とにする。
 まず、大坂に居所を有する我らの司祭は次のように報
告している。
 本年(一五)九六年八月三十日夜八時に、地震が起こ
った。地震はしばらく続いたが何らの被害ももたらさず、
ただ来るべきことを警告しただけであった。九月四日の
真夜中に、突然非常に恐ろしく、震動の激しい地震が起
こったが、人々にとっては屋外に飛び出す余裕もないほ
どであった。
 私はその地震によって生じた破壊を一部分は自ら目撃
したし、また一部分はそこに居住しているキリシタンた
ちの口から知った。最初に、先に述べた地震は、太閤が
永遠の栄光の望みに駆られ莫大な費用と高慢さをもっ
て、この(大坂の)[市|まち]に建築した非常に豪壮華麗なそれ
ぞれの建物を揺り動かし始めた。しかも(地震)は、(太
閤)がシナ使節たちを迎えようと考えていて、その荘重
さと多彩なことで一同の目を集中させていた千畳敷のあ
の広壮ですばらしい宮殿を最初に倒壊してしまった。と
ころで(太閤)は最近、[月見櫓|ツキミノヤグラ](Ecuquinimo Iagua, *taiquimino yagura)、すなわち塔(turris)、または城郭
(propugnaculum)を、すばらしい技巧と優美さをもっ
て建立したが、そこからは月が眺められる。この櫓全体
が、巨大で非常に高い門〔それを通って城郭
(propugnaculum, *fortaleza)への通路が開いてい
た〕、およびそれらの(塔と門の)棟の突出した穂先
(capitellus,* chapiteles)〔その或るものは非常に堅固
な材木によって極度に緊密に作られ、或るものは鉄の締
金によっで外観と誇示のために非常に美しく作られてい
た〕とともに土台から倒壊した。[天守|テンシュ](閤)と呼ばれる
七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭
(propugnaculum)は倒壊しなかったが、非常に揺れた
ために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さ
ぬ限り修復はできない。同様のことは城郭の他のほとん
どすべての諸建築物に及んだが、太閤はそれらの中にい
て、それらの建築物の美麗さと絢爛さと輝かしい装飾を
楽しんでいたのであった。城郭の近くにあったヨーロッ
パの貯蔵庫に似たすべての納屋も倒壊したが、それらの
中には糧食類が貯蔵され、どの大いなる殿たちでさえそ
の中で住めるほどに立派に整然と並べられていた。その
納屋は非常に広く食料に満ちていた。最後に、すべての
中で一番高く、私が言ったように、七層にまで積まれ、
その修復のために最終的な手が加えられ、すべてを金箔
でめぐらした居間〔そこから(太閤)は非常に絢爛たる
装備と隊伍を組んで凱旋行列する十五万の歩兵と騎馬
を、シナ使節たちに見せるために展開させるよう決めて
いた〕を有するあの塔(turris)は、半時してから全部倒
壊した。同じ日の正午に、大坂の[市|まち]では屋根瓦で覆われ
た家々やその他の諸建築物の大部分が、とりわけ川沿い
で倒壊し、噂によると六百人以上が倒壊によって押し潰
されたということである。地震は最初、非常に激しく何
回もあり、そして大きな地鳴りと鳴動を起こし、あたか
も雷鳴の轟きや岸辺に打ち寄せる海の波音をまねている
ように思われ、そして非常な恐怖をもって人々の心を揺
り動かしたので、毛髪はそれらによって逆立つほどであ
った。多くの地方では大地の割れが起こったが亀裂はそ
う深くはなかった。(或る)家の近くに、巨大で優美な形
をした最近建てられた寺院が建っていたが、それはすぐ
に崩壊した。大いなる権威をもった高位の或る身分の高
い仏僧が住んでいた僧院も倒壊して、その崩壊は仏僧を
押し潰した。
 太閤は千畳敷きのある、あの構築された政庁の前に巨
大な諸々の石をもって城壁を構築したが、それらの幾つ
かは千五百人によってやっとその場所へ運搬できたもの
であった。この城壁は、二、三ヵ月前に城壁の土台に流
れ込んだ多量の雨のために倒壊した。そしてこの地震の
二ヵ月前に、(この城壁)は、以前にまさる労力をもって
修復されたものであった。しかし人間のすべての労役は
何の役にも立たず、すべてがこの地震によって、土塊と
同然に過ぎなかった。
 地震前の同日(九月四日)夕方に、私はあまり健康が
すぐれなかったので空気を吸うために散歩に出たが、二
つの寺院が建っていた街道の方へ通って行き、太陽が沈
む頃両方の寺院に入ったところ、私はその中で民衆への
説教が行なわれているのに出くわした。私はその一つの
僧院の中にしばらく立ち止まり、一人の説教者が非常に
多くの譬え話を用いて、人類に対する阿弥陀の慈悲に触
れながら、彼らが救済を得るためには死期に際してその
助けを求めるべきことを説明して、一同を感嘆させ聴衆
たちの心を奪っているのを聞いた。(説教者)はまた彼ら
に、阿弥陀の名を唱えることをやめないように勧めてい
たが、皆は説教が終わると声を高くして阿弥陀の名を唱
えていた。しかし同夜、その寺院は倒壊し、非常に美し
く飾られた偶像と墓地は粉砕され、台無しになってしま
った。仏僧の説教者は傷を負いながら、他の半死半生の
人々といっしょに脱出したが、彼らの中の幾人かはその
後に死亡した。
 最後に、太閤やその他の多数の殿たちの高貴で大きな
諸々の建物、仏僧たちの諸寺院、川沿いにいた市民たち
の(建物)の大部分がまったく崩壊してしまった。この
光景は非常な悲嘆をもって人々をとらえ、落胆した人々
は、あたかも失神したようになっていた。多くの人々は
広場で眠っていたが、他の人々は自分たちの家でも戸口
を開け放ったまま眠っていた。なぜなら(地震)はゆっ
くりでひどい衝撃を伴ってはいなかったが、その振動は
何日間も継続したからである。
 別の司祭(フランチェスコ・ペレス)は、(一五)九六
年九月十八日に次のような報告をしている。
 この[都|ミヤコ]地方では、大きな恐るべき諸々の不思議なこと
が起こった。なぜならこれらの領国では大量の灰が降り、
そして或る地方では非常な量にのぼったため、家々の屋
根や樹木はあたかも雪が降ったように覆われていた。別
な地では赤みがかった細かい砂塵までが降り、ついには
昼半ばになると老婆たちによくあるような白髪の雨が空
から非常に多く降ったので、すべての道路と家々はそれ
らで覆われたほどである。そしてすでに伏見へはシナ使
節一行(歓迎)のために非常に遠方の各領国から大多数
の軍勢が参集していたし、また(使節が)通過すべき道
路は非常に美しく飾られ、また通過することになってい
た順序も皆に通告されていたのに、それ見よ、九月五日
木曜の夜十一時頃に突然、空は静かに晴れ渡っていたの
に、非常に恐ろしく戦慄的な地震が起こった。地震はそ
の後一晩中続いて、地下界において地獄の権力の間に巨
大な抗争が起こったように思われた。そして非常に大き
な雷鳴や爆発音よりも大きな、これまで聞いたことのな
いような轟音があった。そのため(その轟音)は人間だ
けでなく動物たちにも信じ難いほどの恐怖を与えた。
人々は仰天のあまり家々をすて、広場を通って逃げた。
やっと地震を抜け出て来た人々は、妻や子供や親族たち
が倒壊によって押し潰されたのを嘆いていたし、またあ
る人々の瀕死の声が廃墟の中から漏れてくるのを聞い
た。ある人々は地面が彼らに対して亀裂して生きたまま
呑み込んでしまいはせぬかと恐れて、彼らが助かるよう
に涙ながらに阿弥陀の名を唱えていた。
 我らのキリシタンたちは、我ら(司祭たち)の事態が
どんな様子であるのか、もしできるなら援助しようとわ
れらの諸司祭館へただちに駆けつけた。しかし我らの主
なるデウスは、我らの司祭館には何らの災害も起こらぬ
よう望み給うた。しかし我らはただちにその(司祭館)
から中庭へ飛び出して、地震のため[跪|ひざまず]くことはほとんど
できなかったとはいえ跪いて諸聖人の連禱を唱えた。そ
の日の夜に修道士某は船で(都から)大坂下って行った
が、切迫している危険がないわけではなかった。なぜな
ら[水嵩|みずかさ]は、四、五ブラサ高くなっている川岸の高さまで
(水位を)増していたからである。
 この時伏見の町全部が倒壊したという噂が流れたた
め、無数の人々が[都|ミヤコ]から伏見へ馳せつけた。たしかに、
やがて述べられるように、そこにある立派なものが倒壊
した。この都の市内で三百人の人命が失われ、そのほか
に六条という南部の境界地では二百人が死亡したとのこ
とである。我らの諸司祭館付近では、たまたま屋根瓦を
葺いた厨房で一人の婦人が下敷きとなって死亡し、また
彼女の夫が重傷となった以外に損害はなかった。フラン
シスコ会修道院に隣接していた貧困者たちのために設け
られた治療院の半分が倒壊して十名の患者が死亡した。
寺町(Toramadie)と言われる或る場所では、十五ない
し二十の寺院と諸僧房が倒壊して多数の人々が圧死し
た。内裏の宮殿の前にあるQuitanotonfinでは二十畳敷
の巨大な寺院が倒壊したが、そこに宿泊していた八十名
のうち、わずか二名だけが難を免れたが、その二名は二、
三日前にそこを退去していたからであった。大坂の一仏
僧の寺院も付近の多数の屋敷とともに倒壊し、またその
地方の家屋の半数が倒壊した。
 都の市街の入口にある最大の寺院である東寺のすべて
の寺院も同様に倒壊した。この寺院は、[高野|コウヤ]で生きなが
ら埋められた一人の仏僧(空海)によって七百年前に建
立されたのであった。同様に周囲をめぐらしていた(そ
の寺院の)大きな厚い壁も倒壊したが、それは都から見
ることができた、非常に立派な記念物の一つであった。
[本堂|ホンドウ]と呼ばれている非常に高く聳えた塔をもった、すべ
ての中で最大の寺院一つだけが、倒壊から免れた。新し
い[大仏|ダイブツ]のほとんどすべての壁が、途方もなく巨大な石と
ともに倒壊し、四隅にある柱はその礎石といっしょに一
パルモ半以上沈下した。太閤が都の近くに造営させて、
最近完成した大仏(殿)の機構自体〔巨大さいという点
では、日本全国にそれより大きなものは見られず、その
中で[仏|ホトケ]のすべての彫像が黄金で輝いている〕が、身体と
手の部分を粉々にして倒壊し、また非常に精巧に仕上げ
られた壁も大仏(殿)の主要な門といっしょに倒壊した。
鍍金彫像の千二百体の偶像を納めた三十三間(堂)と言
われる巨大な寺院では六百体が倒壊し、互いにぶつかり
合って頭部や腕や脚部が非常な破砕音を発して壊れたの
で、あたかも地獄の魔鬼自身が寺院の中で互いに摑み合
いをしているようであった。この事件は都の市民たちに
非常な悲しみを与えた。なぜならその場所は、その偉観
と都の高貴さの誇示のゆえに、(市民たち)の憩いのため
に特に向けられていたからである。[市|まち]の他の種々の場所
でも、幾つかの大寺院が倒壊した。(織田)信長の甥パウ
ロ(秀則)にとっては厨房一戸だけが倒壊し、三、四人
が死亡した。一般の家屋は無数が倒壊した。或る露路で
は、そこのすべてが倒壊した。多くの(家々)がひどく
震動したため(いっしょに)地上に倒壊せざるをえなか
った。同様に地震は、日本国でもっとも参詣される富裕
な[悪魔|サタン]であり、非常に高いところにある愛宕・太郎坊(*
Atango taronbo)の七寺院を倒壊させた。
 以上のことから推測が許される限りでは、デウスによ
るこの天罰は、太閤が己が最大の巨大な資力を投入して
高慢で華美な諸建築物を造営し、またなお引き続き造営
している伏見に対して主として向けられたことが判る。
なぜならこの[市|まち]では、この地震の猛威は他所よりも激し
く、また破壊はずっと全般的であったからである。この
(市)には非常に高い塔(turris)や宮殿、寝所、殿舎、
柱廊があり、それぞれが黄金や種々の絵画、彫刻で輝い
ていたが、太閤自身の非常に広大な居間までが倒壊し、
噂によれば(地震は)そこの七十名の侍女や高貴さで有
名な幾人かの婦人たちを押し潰したということである。
城郭の中では、太閤が奥方と息子とともに住まっていた、
大坂のそれに似た千畳敷の宮殿しか残らなかった。(太
閤)はそこから急いで逃げ出してどの方面からも安全な
厨房へ逃げてから、飲水を少し欲しがり、逃げおおせた
ことを非常に喜んだ。やがて同じ場所へは浅野弾正(長
政)の後に(前田)玄以法印が駆けつけたので、彼らの
到着は(太閤の)心を静めた。彼らに続いて(徳川)家
康と(前田)筑前(利家)殿が来たので、(太閤)は彼ら
といっしょに夜を明かした。何らかの造作を観賞するた
めに造られた或る城郭(arx)は災禍を免れていたが、(太
閤)はその後それが傾斜しているのを見ると、自分が命
からがら逃げてきたある千畳敷の宮殿といっしょに地面
にただちに引き倒すよう命じた。なぜならその(城郭)
は地震によって一方に傾いたからである。太閤は翌日の
早朝に、先の国主たちといっしょに城郭とは反対側の非
常に枝を広げた松が立っていた山の方へ行き、今までの
すべての工事を中止して、そこに別な城郭を造営するた
めに、その場所を地ならしするよう命じた。人々の言う
ところでは、太閤はこう言ったということである。「[天道|テントウ]、
すなわち[神様|デウス]は、このように華麗豪奢な諸建築物を、当
然のことだが嫌悪なされた。それゆえ今度は当然、より
質素なのを建てることを予は心に決めた」と。太閤は今
回の不幸な事件によってことのほかに狼狽し、驚嘆し、
悲観し、戦慄した。[都|ミヤコ]の所司代(前田)玄以法印と、他
の二名(徳川家康、前田筑前利家殿)を除いては誰もあ
えて彼に話しかけることはなかった。(太閤)は邸では眠
らず、非常に軽い板で覆われた茅葺きの家の中で眠った。
彼は自分のすべての建築物が倒壊してしまい、また彼が
見せようと考えていた楽しい遊興や見世物が、かくも多
くの町々や場所のこれほどの悲惨な荒廃と、かくも多く
の人々の死へと変わったのを目撃した時、外部には示さ
なかったとしても心の奥底の感情においては非常な悲し
みに苦しめられ、また心を引き裂かれたことは疑いある
まい。我らの主なるデウスが、(彼の)死去以前についに
その御意向を彼に分かち与え給うよう願う。
 (徳川)家康の邸宅の大部分がその間に倒壊し、多く
の人々が死んだが、なかでも彼が非常な愛顧を示してい
た政庁の或る重立った殿がその妻とともに死亡したた
め、彼は彼らの死をいたく悲しんだ。(以前)関白殿(秀
次)のものであったが、彼の殺害後に太閤から(前田)
筑前(利家)殿に贈られ、伏見の[市|まち]でもっとも高貴で美
しい建物の中に数えられていた邸宅は、ひどい震動を受
けたため取り壊して新たに基礎から建て直さねばならな
かった。伊達(政宗)の邸宅は、百名の人々と厩舎にい
た非常に立派な二十頭の馬とともにすべてが倒壊した。
(前田)玄以法印の諸屋敷も倒壊した。しかしそれらに
はデウスの特別な摂理が表れた。なぜなら(数々の)寝
所がある中でただ二つの寝所だけが完全なままで建って
いたが、その一方には奥方といっしょの(前田)玄以法
印その他がいたし、またもう一方には彼のキリシタンの
息子たちが同様にキリシタンの幾人かの甥たちといっし
ょにいて、彼らの中の誰も死ななかったからである。そ
れなのに他の(建物の)中では、十ないし十二名の異教
徒たち、すなわち半数以上が死亡した。
 すべての道路が、政庁に自分の座をもっていた他の重
立った人々や高貴な殿たちの邸とともに転倒して、大勢
が同様に死亡した。最近伏見に建築された仏僧たちの伽
藍も倒壊したし、また屋根瓦で覆ったすべての家々も同
様であった。非常に多数の死亡者がでたため、彼らの習
慣に従って屍体を火葬することができず、水葬にしてし
まうか、または市に近い谷間へ投棄せざるをえなかった
が、その谷間は屍体で一杯になり、山のような様相を呈
したほどである。最後に、人の言うところによれば、伏
見では二千人が行方不明になった。
 伏見の田舎で、市の近辺に作られた、貴人たちが慰安
のために一年のうちに何回か訪れていた庭園や別荘のよ
うなものも崩壊して、無残な形になった。
 都に近い丹波の国において、とりわけその辺境の諸地
方においてはもっともひどい倒壊が起こった。これに対
して内陸地では非常に少なかった。そこには太閤から(前
田)玄以法印の長子(前田)左近(秀則)殿に十分な扶
持をつけて与えられた全領国の中で重立った亀山の城郭
があった。しかし全(城郭)は地震によって非常な被害
を受けて山のようになった。そこでもデウスの御摂理が
現れた。なぜなら(前田パウロ)左近(秀則)殿は地震
の二日前に、己が妻に家族全部といっしょに大坂の義父
の阿波守(蜂須賀家政)のもとへ行くよう命じたからで
ある。そして彼自身は、己が兄弟や一族のミゲルととも
に伏見に赴いた。こうして、人の噂によれば、この(亀
山の)城郭の崩壊では、わずか二名の婦人が死亡したに
過ぎなかった。千軒の家々が建っていた付近のすべての
田畑は非常に荒廃し、わずか八軒の家が残り多数の死者
がでた。
 [山崎|ヤマザキ]は[都|ミヤコ]から堺の方へ三[里|レーグア]隔たった、百軒の戸数が
ある大きな村落である。そのすべての中でわずかに九な
いし十軒が残り、百名以上の住民が死亡した。村から遠
く隔たった高台にあった仏僧や隠遁者たちの諸寺院は、
すべてが倒壊し、また仏像も空しく倒壊した。この村の
別の物体はもっと巨大なもので、日本人たちの軍神で、
武家たちのもとで非常な栄誉を受けている[八幡|ハチマン]の礼拝に
すべてが献げられていた。そこはかつては、すべての犯
罪者たちの避難所であった。この村には小山があって、
そこにはすべての領国からの巡礼者たちの頻繁な訪問を
受け入れるための多数の寺院や僧房があった。しかしそ
れらすべてが倒壊し、そして家々の惨事によって二百五
十人以上が下敷きになった。
 (摂)津の国には祭壇に十字架を据えた教会が建てら
れ、それに因んで「聖十字架教会」と名付けられた。こ
の教会も倒壊したが、十字架は以前のように不動のまま
祭壇に残っていた。同じ領国では、山から転げ落ちた巨
大な岩塊が、人間たちの大きな力を台無しにして公共の
道路を塞いでしまったため、多くの廻り道と方向転換を
しなくては道を進むことができぬほどであった。
 堺とは反対の海を隔てて五[里|レーグア]離れた所にある[尼崎|アマガサキ]
の[市|まち]は無視できない。そこには壮大で美麗な仏僧たちの
僧房があったが、人々の噂によればまったく倒壊したと
のことである。この(摂)津の国には、日本国全土でも
っとも有名な諸々の温泉があり、健康に非常によいので
多数の湯治客がある。恐るべき地震は不意にこれらをも
襲い、またそれらの周辺の家々は高楼に作られていたの
で、それらには湯治客が滞在していたが、その倒壊によ
って、人の噂によれば、六百人以上が押し潰されたとの
ことである。
 [下|シモ]から都へ海路で行く途中に、左手に都から十八[里|レーグア]
離れたところに[兵庫|ヒヨウゴ]という市がある。私も三十三年前に
都へ行く途中にこの市の屋根を眺めたことがある。この
市は三つの地域に分かれており、その中の二つは仏僧た
ちの寺院や僧房で占められ、第三番目は商人やその他仏
僧たちの使用人たちが居住しているところである。(織
田)信長の時代に市の大部分を破壊されて、寺院は以前
の状態に戻ることはなかったが、大商人その他の一般民
衆によって市はふたたび人で満ちた。ところが今回の地
震は非常に激しかったためその大部分が倒壊し、人々の
言うところでは間もなくその大部分が火災に遭ったとの
ことである。すなわち崩れ落ちてゆく[竃|かまど]から火の手が上
がり、乾燥した木材に火が燃え移って火は風の勢いで完
全な(姿で)立ち並ぶ家々をも獰猛に焼き尽くしたので
あった。
 淡路(Auangani, *Auangi)の国の第一の城郭は近隣
の地とともにまったく崩壊して荒廃した。大和の国の郡
山の城もまったく崩壊した。(摂)津の国にあって、大坂
から都へ行く途中にある[枚方|ヒラカタ]の小さな城は、押し迫って
いる山の地滑りによって多数の惨死者を出した。
 山口から一日半工程の[長門|ナガト]の国に下関という日本国で
非常に有名な海峡があるが、それは下の諸領国を中国と
いう他の諸領国から分離させている。この(長門の)領
国に広い地方があり、我らの(イエズス)会は迫害が起
こる以前に一司祭館をもっていた。この海峡は深いだけ
でなく波が荒いので、船舶は満潮になると飛び廻ってい
るように見える。この海峡は、かの地震の最初の地鳴り
の時〔事態は下関では何も見られず、また想像もつかな
かった〕、潮が引いてしまい、そして大地がすっかり間に
割り込んできたようであった。このことは人々に非常な
驚嘆を与えずにはおかなかった。
 これらのすべての崩壊と荒廃は九月七日に起こったの
である。当日の夜、地震の最初の振動が起こってから今
日まで十二日を経過している。今なお大地は震動し、夜
にはもっと大きな諸震動があるので、先の震動によって
継ぎ目の緩んだ多くの家々を、それらの震動はついには
崩壊へとひきずって行った。そういうわけで誰も、家屋
の中、とりわけその二階には留まることなく、公の広場
に残っていた。もし或る大地震がふたたび起こったなら、
この都の[市|まち]では夜の何時であろうとも地下に巨大な鳴動
と震動が生じ、船は恐るべき嵐によって動揺するであろ
う。地震がやんでも一同は恐怖の中にあり、新たな災難
の到来がありはせぬかと戦慄している。
 願わくはデウスがその御慈悲によってこの諸々の最悪
の事態を終らせ給い、またその恩恵の光によって、これ
らの異教徒たちの眼を開かせ給い、かくて彼らが(デウ
ス)の恩恵を認めてカトリック教会の懐に入れられるよ
うに。
一五九六年九月十八日、都において。
堺の(地震)について
 有馬(晴信)殿の叔父は(千々石)ジョアン(直員)
という名で古くからのキリシタンであり、また(イエズ
ス)会に対して大いに功績があり、彼は地震の時には堺
の市に住んでいたが、我らの司祭たちに宛てて次のよう
な言葉を書き寄こした。
 九月四日に、この(堺の)市で非常に大きな恐ろしい
地震があり、三時間にわたって震動した。この時には驚
くべき震動と地鳴り、それに家々や壁や屋根や異教徒た
ちの諸寺院の悲しむべき崩壊以外には何も聞かれなかっ
た。そして屋根が他の家屋や樹木に倒れかかっていた時
は、あの夜の時間に世界の全構造が揺らいだように思わ
れた。翌朝光が差した時、人々はすべてのまったく狭い
露路が〔交差している主要な道路を除いて〕、家屋や樹木
や石や壁があらゆる方向に崩壊していたため、通行でき
る余地がないほど閉ざされてしまっているのを見た。昼
夜を分かたず、男たちの叫び声や女たちの悲嘆の声や子
供たちの叫喚を、大地の底や埋没した廃墟の凹みから助
けを叫び求めているのを聞くのは哀れを催すにもっとも
値した。しかし異教徒たちは、己が隣人に対して憐れむ
べき同情も内的な感情も持たなかったので、ただ富裕な
人々や権力ある者たちだけが友人その他の人々の援助に
よって危険を逃れた。しかし他の人々はあらゆる援助を
奪われて、空しく嘆息し涕涙し耐え難い叫び声を発して
打ちのめられてしまっていた。人人は感覚を失い、かく
も恐るべき光景を目にして悲しみに打ちひしがれ、あた
かも放心したかのようにあちこちの道路を歩いていた。
こうして彼らは何をしたらよいのか判らず、助けを願っ
ている自分の妻や子供たちに対しても手を差しのべるこ
とができぬほどであった。すでに危険を逃れたある人々
は、自然的な愛情によって子供たちといっしょに妻を連
れて行くために家に戻って来た。しかし彼ら自身が(妻
子)といっしょに家の残った倒壊によって押し潰され、
こうしてついに誰一人として逃げおおせなかった。
 その時、堺に滞在していた有馬ドン・プロタジオ(晴
信)殿は、早朝にシナ使節を訪問しようと望んだが、通
過すべき路が巨大な壁の倒壊や、材木や屋根瓦の無数に
抛り出された堆積によって阻まれているのを見ると、道
を進み続けることができぬほどであった。我らは遊撃(沈
惟敬)のシナ人の使臣たちの中で(この地震で)二十名
以上が死亡したことを知った。また数日前に届けられた
書簡によって、我らは、堺では六百人以上が死亡したほ
どで、三時間にわたってこの地震の震動で沈んだ諸建築
物を五年間でも復元させることはできまい、ということ
を知った。
 日比屋ディオゴ了珪はこの(堺の)市の最古参の非常
に立派なキリシタンの一人で、賢明で信仰心篤く、(イエ
ズス)会に対して立派な功績があり、堺の奉行ドン・ジ
ョウチン(小西立佐)の義父にあたるが、彼は最近屋根
瓦で葺いた三階建の家を新築した。ところで彼の邸は三
十年このかた我らの司祭たちの集会の場所にあてられ、
またミサ聖祭が行われ、キリシタンたちに秘蹟が授けら
れる教会でもあった。しかしこの破壊的で混乱をもたら
した地震が起こって一同が家々から逃げ出していた時、
彼(日比屋了珪)はデウスへの認識とデウスの諸々のこ
との感覚に頼った老人として、妻や子供たちや己が家で
養っていた幾人かの孤児たちや己が孫たちを手で制し、
その場を動かずに跪坐して家の祭壇の前で両手を天にあ
げて自分たちの身をデウスに委ねるように命じた。デウ
スはその父性的な御摂理によって、デウスを愛しかつ畏
怖しているキリシタンたちを導き給い、両隣の家々はす
べて倒壊したのに、祈りのうちに家族とともに留まった
彼の家だけを無事にし給うた。このことは堺の異教徒た
ちに非常な驚嘆と恐怖を与えた。
 以上が、我らがこれまでそれらの地方から聞いたこと
である。
 長崎では、一度強い地震があったが、その後はずっと
弱いか、または他所のと比較すれば、むしろほとんどな
いに等しいものであった。
 加津佐から千々石への道中では、道は海からあまり遠
くなく、また大部分が山道で凹凸の多い岩からなってい
る。そこで今度の非常に激しい地震では、そこでは多数
の巨岩が裂けて破砕し、一部は海中へ落下し一部は道路
を塞いで通れなくしてしまった。
 [有家|アリエ]の[神学校|セミナリオ]は激しく震動したが、デウスの御加護に
よってすべての危険を免れ、我らの建築物で倒壊したも
のは一つもなかった。地震は夜間であったので、神学校
の同宿たちはすでに寝室へ退いていたが、彼らは寝室の
中央にともしてあった灯火が誰も手を触れていないのに
揺れているのを見ると、その不思議さに驚いて非常に急
いで空地へ飛び出したのであった。
 肥後の国の[矢部|ヤベ]の城市では、[都|ミヤコ]の地方出身の或る古く
からのキリシタンが頭目になっていて、彼が我らの(イ
エズス)会のことについていつもうまく面倒を見てくれ
た。そこでもまた大きな地震があったが、さらに地震に
続いてやがて聞いたこともないほどの嵐が起こり、その
最中に雲の中から六本の恐ろしい閃光が十ないし十二回
ほどの彼の邸の周囲で起こり、わずか八ないし十ブラサ
隔たったところに落雷し、また他の閃光は同じ回数ほど
城下の各地に落ちたが、デウスの御加護によって誰も負
傷したり死亡した者はなく、ただ非常に巨大な幾本かの
樹木が裂けただけであった。
(注、ここに豊後の地震記事(本書三三ページ)が入る)
 私がここまで書いてきた時、[都|ミヤコ]から一人の非常に実直
な男が来たが、地震が起こった夜には伏見にいた者で多
くの驚くべきことを話したが、すべてを記述するのは冗
長になるのでもっとも注目すべきことを少しだけ記すこ
とにしよう。
 彼はこう言った。九月七日夜十一時から十二時の間頃
に、何らの被害も与えなかった中程度の或る地震の後に、
非常に恐ろしく激しい別な地震が起こり、世界全体の構
造が崩壊するように思われた。(地震)は使徒信経を二度
唱えることができるだけの時間位しか続かなかったが、
その時に既述したようなすべての破壊と災害が起こった
のである。またすべてが突然に起こったので、人々は何
ごとも記憶しなかった。その時この男は客人として、或
る人の家の二階にたまたま遊びに来て眠っていたが、騒
音で眼を覚まして逃げ出したものの、階段の第一段目に
足を降ろした際に、階段は家屋全体とともに崩れ落ちて
しまい、どうしてこのように突然倒壊したのか判らなか
った。その後、家の召使いたちといっしょに屋敷へ帰り、
倒壊した家の下敷きになっている主人を無事に救出した
のである。
 太閤は伏見の川のほとりに非常に巨大で固い石ででき
た、造作がすばらしくて非の打ち所のないいとも鑑賞に
値する高く聳えた碑を建てた。(地震の時)この(碑)は、
川の貪欲さによって呑み込まれてしまい、その後には、
同所には何もなかったかのように、いっさい跡形も残ら
なかった。川自体が非常な恐怖を与えたので、それを見
るだけでぞっとさせるほどであった。川の波は天にまで
届くかのようで、また無限の火がそこに潜んでいるかの
ように激しい轟音を立てながら噴出していた。(地震の
時)人々は両脚で踏み留まることができず、地面に倒れ
てしまい、またあちらこちらへと棒のようによろめき歩
いていた。人々は自分の目の前で地面が裂けるのを見て、
生きたまま呑み込まれはせぬかと恐怖と戦慄を募らせて
いた。そしてこの種類の亀裂は[都|ミヤコ]と伏見の間で非常に多
く見られた。
 しかし人類の敵は、魂の救済を妨げるべきあらゆる機
会を少しも軽んぜず、今や太閤の心をいっそうひどく立
腹させるべき絶好の機会、非常な好都合が与えられたと
知ったからである。(太閤)はこの(地震での)事態でほ
とんど自制心を失い、また一部は脅迫と恐怖によって、
また一部は憤怒と狂暴によって、すべての方向へ揺り動
かされていたため、(敵)はいつも国王(太閤)の側近に
いた幾人かの異教徒たちを我らの忌まわしい敵側にし
て、彼らは太閤を大いに喜ばせようとの希望を抱いて、
彼にこう訴えた。(地震による)すべての荒廃と天下〔彼
は日本国の君主である〕のもとでの人々の死亡は、デウ
スなる神仏の掟にまったく背きまた反している(キリシ
タン)宗門が、日本国に容認されたことに由来している
のである、と。彼らは短くではあるが、これらの言葉に
よって、(キリシタンの)デウスの真の掟(の容認)が、
このように大きな災禍の起こりと原因であるので、この
ようなすべての福音の宣教と、その宣教者たちを日本国
全土から追放するようにと示したのである。しかし殿た
ちの心はデウスの掌中にあり、また太閤は本性が賢明で
判断力において鋭敏な人間であり、あらゆる風説によっ
て各種の人々の勧めによって己れを欺瞞に導くことを少
しも許さず、たとえ我らに対しての愛情または同情によ
って決して動かされることはなかったとはいえ、彼は次
のように答えた。「汝らは何を言っているのか、判ってい
ない。なぜならもしこれらのこと(地震の災禍)が我ら
の先祖の時代に決して起こったことのない、日本国前代
未聞のことならば、汝らが主張していることは全き真実
であると予は思うであろう。しかし歴史上の諸々の古記
録によれば、当諸国においては大きな恐るべき地震と震
動は何度も何度も生じたことが明白であり、その時には
かの連中(宣教師たち)はまだ日本へは来ていなかった
し、かの(デウスの)律法については何も考えられてい
なかったのであるから、汝らはこうした理由で今回の事
件(地震)の原因をかれら(キリシタンたち)に帰する
ことができると思うのか」と。このように理屈にかなっ
た回答に対して、かの地獄から来たような[輩|やから]は、小声で
呟くことさえあえてしなかった。このようであったとし
ても、我らはこの(太閤の)回答にはほとんど信頼を置
いていなかった。なぜなら一つには、我らの同僚は教会
のすべての存続と宣教とは、一人デウスの御摂理に依存
していることを知っているからであり、また一つには、
我らの同僚は人間の変わり易さがどのようであり、人間
のもとではいかにたびたび有為転変が起こり、今日天上
の高みまで上げられた人々を明日はこの上ない侮辱をも
って地獄へ圧し沈めていることを知らぬわけではないか
らである。
 太閤からの命令によって、都の[市|まち]の中にある仏僧たち
の全寺院と僧房が壊され、そして仏僧たちは市の周囲の
濠の近くに別のを建てるようにされたことについては昨
年報告した。(太閤)はこのことに関して、自分は二つの
理由に動かされてのことであると言った。
 一つは、仏僧たちが男とであれ女とであれ檀家の人々
と厚い友情と親睦に結ばれ、そのため彼ら(仏僧たち)
が心においてひどく怠慢で疎遠であることが、予の気に
入らぬ。
 もう一つは、仏僧たちは戦争の時は何らの働きもせず、
武士たちの面倒も見てやらず、それどころか快楽と遊楽
に耽っており、[都|ミヤコ]で戦争があった時に、敵たちの怒りが
第一に向けられるのは、彼らと彼らの寺院であるからで
ある、と。
 (太閤)は三百以上ある仏僧たちの寺院や僧房に対す
る総括的な監視と責任を(前田)玄以法印に委ね、彼を
あたかも彼らの目付役に任じた。仏僧たちの管長たちは
太閤の命令に従って、毎月行政長官に対するように仏僧
たちによって犯された過失や罪科を(前田)玄以法印に
報告し、必要であれば譴責や懲罰を加えられることがで
きるようにした。彼らの寺院の多くは屋根瓦で覆ってあ
ったが、今度の地震で多数の仏僧たちの死者を伴って倒
壊した。すなわちデウスの正義はあの[悪魔|サタン]のような諸仏
堂内で行われた数限りない悪行や忌まわしい行為に対し
て懲罰を加えることを望み給うたのである。
 不思議な兆候はここで終わってはいなかった。これま
で我らによって詳しく述べられた六つ以上に第五番目の
津波の不思議な兆候が加わっているが、それらの中で次
のように非常にひどい崩壊を伴ったものがある。
 都から一万二千歩隔たった、近江の国の[比叡山|ヒエノヤマ]の麓に
水の美しい湖(琵琶湖)があるが、その長さは六万六千
歩、幅はある所では三千歩、ある所では六千歩ある。両
岸は多くの町村(terra)で取り囲まれている。(湖)は多
くの船や小舟で渡れるが、激しい強風が起こると船は波
に呑まれてしまう。この湖の下手は多くの場所で水の大
きな力が迸り出ていて、或る場所では非常に狭隘になっ
ているので、(織田)信長は[瀬田橋|セタノハシ]という非常に優美な橋
を架けた。また川はそこで非常に深い淵となっており、
[淀|ヨド](川)という別な川と合流して大坂の海に注ぎ込んで
いる。地震があってから十五日後に、土砂降りの雨の後
にこの湖水は非常に増水して、これまでたびたび長雨が
あって起こったとはいえ、人々の記憶にはかつてなかっ
たほど、その自然の流れに抗する堰をはるかに凌いで溢
れた。(湖水)は非常な速さで膨れ上り、また激しい急流
となって流れ始めたので、あっという間に田畑に侵入し
家屋を倒壊し、稲の耕作地を守るために掘られた非常に
深い潅漑溝をも満水させた。そして水は伏見にまで拡が
り、この[市|まち]では水によって無数の人々が溺死する新たな
災害をひき起こした。(洪水は)非常に広範囲に及んだた
め、都の広場や所有地を通行するのは、あたかも海の中
を航行するようなものであった。このような日に、陸路
で五十四マイル隔たった堺や、またそこから大坂へと出
発する者はいなかった。
 都から[下|シモ]の諸地方へ行く時、谷間に下がった或る小道
が通じており、[明石|アカシ]という(かつて)(高山)ジュスト右
近殿の所領であった所がある。小さな停泊港をもち、も
し風が順風でない時は航行する船はそこに寄港してい
た。しかしあの(地震の)折りには海上に大きな嵐があ
ったので、先の港へは、噂によると、日本国にあるよう
な、あるいは大きくあるいは小さい五十隻の船が停泊し
たが、それらの大部分は海水のこの怒り狂い制圧されぬ
高潮によって、また荒れ狂う波のぶつかり合いによって
盲滅法に衝突して粉砕してしまった。危険を脱しようと
港を離れた船は、その途中に多くの渦巻があったので、
同様に海の深淵に呑み込まれてしまい、一隻も逃避しき
れなかったことは明らかである。この津波は海岸地域、
すなわち海の他の岸辺に非常に近い所をも襲撃して、目
撃者たちの言うところによると、多くの死者を出し、明
石では三百名以上だったとのことである。
 いかに頑固な心さえ圧し潰し、また打ち砕くために、
デウスのこれほど明白で相次ぐ懲罰は十分であるに相違
ないにもかかわらず、大いなる者も小さき者も、一同は
すでに非常な苦しみを受けながら、人間たち、すなわち
子供や両親や友人たちの、それに財産のどのような損失
も受けなかったかのようであった。のみならず太閤はた
だちに壮大な諸宮殿の新たな建設に適当な場所を造成す
るために伏見で非常に高い山と谷の地ならしを始めた。
 (太閤)はこのために十万以上の人夫を集めたが、彼ら
は耐え難い労働と悲惨この上ない奴役によって昼夜を分
かたず諸建設工事に力を使い果たしている。
 本年(一五)九六年十一月十六日付で、大坂の市に駐
在しているが都の地から司祭某が太閤のシナ使節一行謁
見の儀の模様を報告している。
太閤がシナ使節一行を謁見した次第
 (司祭某)はこう言っている。この地震によって伏見
の[市|まち]、とりわけ城郭(propugnaculum)は非常に震動し
て荒廃したので、使節一行のための住居と謁見に適当な
場所が残らなかったほどである。太閤は彼らを大坂で謁
見することに決めたが、そこでは非常な震動があった唯
一の(天守)閣(turris)と、山里と言われた或る屋敷と
[極楽橋|ゴクラクハシ]〔または楽園の橋とも言ってよい〕と言われ一万
五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝くいとも高貴
な橋を除いては、地震のため城郭(propugnaculum)内
には何も残らなかった。そこにはまた幾つかの小さな建
物があったがたいして重要ではなかった。なぜなら他の
諸建造物は千畳敷の政庁とともに倒壊したり、または何
らかの害になるので国王(太閤)の命令によって倒壊さ
せられ、その場所に他のより小さな簡略なものが建築さ
れ始めた。(太閤)は使節一行を謁見するために、倒壊し
た家々の廃墟の上に急ぎの工事で幾つか(の建造物)を
普請するよう命じたが、すばらしく高価な敷物その他の
必要な装飾で周囲を覆わせた。太閤は九月二十九日に政
庁の重立った殿たちとともに大坂に赴いたが、使節一行
に対しては「予は(陰暦)第八(ママ)(九)月朔日(十月二十
一日)に大坂で彼らを謁見に訪れよう」と伝えるよう命
じた。
 使節一行は八(九)月二十日に大坂から九千(小)歩
隔たった堺から平坦な立派な道を通って出発したが、そ
の道には堺の貴婦人たちが、道行く使節一行を見物する
ことができるように幾層かの桟敷を道の両側に幾つか構
えさせた。日本人は新奇なものを見るのに非常に好奇心
が強いからである。
 最初の隊伍にはかのシナの老人遊撃(沈惟敬)がいた
が、彼は先に述べたように、正使の穴埋めに副使として
使節の任を受け継いだのであった。彼の前方には三十八
の大函と二十包みの贈物が運ばれ、後方には[檜|ヒノキ]と言われ
る非常に輝いてすばらしく精巧な細工を施した木製の脚
部のある百二十樽が運ばれていた。そのすぐ後方には、
渋い顔をして、他の人々の従臣と思われるような、平凡
な外衣を着たシナの騎馬隊が続いた。
 次の隊伍では二列の騎馬隊が四十本の旗幟を棒持して
いたが、その或るものは鮮黄色地に漢字で大書してあり、
或るものは鮮黄色の文字で書かれ、或るものは深紅色地
のままで何も文字は書かれていなかった。別の騎兵隊が
これに続いていたが、彼らの各々が非常に大書された額
を掲げており、それらは示威の様相を呈していた。これ
らの後方に丸い棒を持って肩にゆったり担いでいる歩兵
隊が続いたが、その或る者は剣を、或る者は槍を持ち、
それに十ないし十二人の武装兵が続いていた。それから
三本の巨大な日傘、その後方に鶯のような音色を出して
いた管弦の吹奏楽隊、それに戦闘的な小太鼓隊、また兜
の形に似ているがそれより少し大きくて、太鼓のように
棒をもって叩かれていた真鍮製の鐘の隊が続いた。楽隊
に続いて二十四名の貴人たちが美しく着飾り、胸と肩を
フリジア風の袍衣ですばらしくしていたが、幾人かは深
紅色のダマスコ緞子を着用していた。そのすぐ側に遊撃
(沈惟敬)の八ないし十人の官人(Quanni)たちが進ん
だが、彼らは大いなる権威ある人々で、シナ人たちのも
とで顧問官のような役人の徽章をつけ、一同はダマスコ
緞子の衣裳を着ていた。彼らのすぐ後方に尊敬すべき老
人遊撃(沈惟敬)が続いていた。彼は白くて長い髭を伸
ばしており、毅然とした様子で、深紅の衣をまとい、天
蓋の開いた轎に乗り、彼の両側面と後方をシナ人と日本
人の多数の騎乗者たちの群が随伴していたが、(日本人騎
乗者)たちは表敬のため使節一行に随行するために、大
坂から堺に来ていたのであった。それから少しく間をお
いてヨーロッパ風のような或る小さな輿が見られたが、
その中にはダマスコ錦織の緋衣を着て鍍金で輝く唐の冠
をかぶった四名の尊厳なシナ人に護られたシナ国王の冊
書だけが納めてあった。このほかに六名の者が美しい袍
衣をまとい、シナ人たちに用いられていた[鍔|つば]広の帽子を
かぶって随行していた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 39
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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