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項目 内容
ID J2800036
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕
書名 〔静岡県史 別編2 自然災害誌〕H8・3・25静岡県編・発行
本文
[未校訂]仁科(現西伊豆町)の沢田の地に鎮座する佐波神社に慶
長十年(一六〇五)二月吉日付の棟札が残されている。
この棟札の裏書には
戊午年之なミ寺川之おうせきまて、又其後九十(ママ)九年
与申ニ、甲辰年十二月十六日ニかき之内之横なわて
まて入也、末世ニ其心得可有之候、
願栄しるす
とある。この神社は「甲辰年」すなわち前年の慶長九年
の津波によって被害をうけ、翌年再興されたものでその
時棟札が作られたのである。ここに「戊午年」すなわち
一〇六年前の明応の津波はその波頭が寺川の大堰まで達
したことが記されている。この大堰は海岸から約一・五キ
ロメートルに位置し標高は約六メートルで津波の波高は
六メートル程であったことが推測される。仁科平野は現
在東南方の山裾を仁科川が流れているが、当時は平野の
反対側現在の仁科小学校の前を流れていたもので、津波
はこの川をいっきに遡上しこの平野一帯を一飲みにした
ものと考えられる。慶長の津波は「かき之内之横なわて」
まで入ったとあるが、小学校の前方平野の中心部の小字
「東コウチ」に比定され、明らかに明応津波は慶長津波
をはるかに上回る巨大なものであったことがわかる。こ
の佐波神社は式内社で古く、明応当時は海岸辺りにあっ
たがこの津波のために御神体が流され留まった現在地に
遷祀したものであるとの伝承である。なお銘文中に「九
十九年」とあるのは計算の間違いであろう。一世紀以上
も昔の津波被害のことが「戊午年之なミ」と語り伝えら
れていたことが分かる。この銘を記した願栄なる人物は
将来への津波被害の警戒心を誌すことを忘れなかった。
古人の子孫への深慮が察せられよう。
 仁科の北三キロメートルにある田子(西伊豆町)の多
胡神社所蔵の文亀三年(一五〇三)六月二八日付の棟札
によると、多胡郷の住人山本太郎右衛門尉が願を興し仁
科・多胡両郷の助成によって八幡若宮権現を大多胡鎮守
として勧請し再興させたとあり、その中に「津波以後宜
当社成就」と記されている(『資料編中世』三―一二六ページ)。五年前の明応
地震津波によって被害をうけた当社を再興させたもので
あることを窺わせる。多胡神社はもと字竹ノ浦にあった
式内社の多胡神社が数度の遷座を経て明治になって八幡
若宮を合祀し現在地(字相ノ浦)に遷座したものである。
明応当時の八幡若宮社は大田子の海岸から約三百メート
ルの小字山崎(標高六メートル)に鎮座していたもので
そこで津波の被害をうけたものと思われる。
 駿河湾に突き出た大瀬崎の東二キロメートルの地西浦
江梨(沼津市)の臨済宗萬行山航浦院にも伝承記録があ
る。当寺院は在地の領主鈴木氏の開基になる寺であるが、
鈴木氏の子孫が明暦三年(一六五七)に伝承をもとに作
成した『航浦院縁起』(辻真澄「豆州江梨の鈴木氏について」『沼津史談』五号)には次の
記載がある。
(前略)明応七午年八月□五日至未刻津波寄来、
如覆天地、依之男女之庶人海底之滓成者不知
数、此代者繁用之嫡子兵庫允繁宗也、女子壱人引汐
門外之榎二本之間ニ打挟、両眼出露命且助ス、然ハ
萬行山峯之薬師竭丹衷祈禱七日之間平愈、任立
願奉安置当寺、山号萬行山ト云、右者系図之趣并
予平昔依所聞、為後覚記之、備当寺什物者也
重家ヨリ十四代
鈴木三郎左右衛門尉 穂積重義
明暦三丁酉八月四日
 この縁起では津波の襲来時刻を未の刻(十四時頃)と
している。当時の確かな史料に記された辰刻と相違しこ
の点は信憑性を欠くが、この大津波によって多数の死者
が出たことを記している。またこの縁起は続けて、鈴木
家の娘が津波に引かれ二本の榎に挟まり両眼が飛び出た
ため萬行山峰(萬行寺)の薬師如来に七日間真心を込め
て祈りその霊験で平愈したこと、そしてこの薬師如来を
航浦院に安置することになり当寺の山号を萬行山とした
と記している。またこの航浦院に伝わったもので享保十
九年(一七三四)に書写され『江梨鈴木氏由緒書』とも
記された『順礼問答書』によると、この津波で鈴木家の
重宝が悉く流出したことが記されている。『開基鈴木氏歴
世法名録』(航浦院所蔵)にも簡潔に同様の記載がある。
興味あることに『増訂豆州志稿』巻之十仏刹の項による
と、この近郷に鈴木家の娘が納めたとされる薬師如来を
本尊として安置した寺院が二か寺さらに本尊薬師の寺が
二か寺(いずれも円覚寺派)が記載されている。薬師の
霊験譚はともかくとして、この江梨の地に津波が襲来し
多数の死者が出たことは一定の信憑性のある伝承と思わ
れる。当時の鈴木氏の居館はほぼ海蔵寺の境内辺りにあ
ったといわれているが、この地は海岸から約三百メート
ル標高九メートルのなだらかな傾斜地にあたる。居館の
伝承が事実とすると、津波高は九メートルを上回る大き
なものであったと推測される。
 駿河湾の地震津波被害については、村松(清水市)の
日蓮宗海長寺の若き僧侶日海(二十歳)が実体験し見聞
した様子を記した『日海記』がある。日海は甲斐身延山
で修業中に地震に遭遇したが身延山の地震被害も大変な
ものであったらしく、日蓮上人草創の諸堂の地が悉く損
壊して河原のようになり、日朝上人建立の塔が頽れ落ち、
坊中等が悉く流出してしまったことを記している。彼は
一両日その跡片付けに奔走したのであろう、三日後に身
延を発ち翌二十九日申剋(午後四時頃)に村松の海長寺
に到着し、そこで見た被害の惨状を次のように記してい
る。
当寺為躰奉見、為始御堂大坊并寺中惣房等悉破
滅、惣少家一宇無之、伽監散破而分在、仏形損滅而
汗塵、両日之大雨仁経論・聖教・御書等成如餅不
見、当境朽畢、(『資料編中世』三―九一ページ)
 諸堂・大坊・寺中惣房等が悉く倒壊し・仏像が粉々に
損滅し、両日の大雨のために経論・聖教・御書等の形が
くずれて餅のようになっていた、とその壊滅的な状況を
記している。しかし、彼は次の小河における津波被害の
記述とは対照的に村松の海長寺に津波被害があったとは
全く記していない。この海長寺は海岸から約五百メート
ルの地にあり標高は現在は四メートル程であるが、安政
地震の時約一メートルの地盤隆起があったことを考慮す
ると当時は三メートル程であったと推定される。日海の
記述を尊重すればこの海長寺は津波の被害はさほどでは
なかったということであろうか。しかし、さきに見た西
浦江梨や小河など駿河湾沿岸の津波被害や後の宝永津
波、安政津波の被害を考えると海長寺より低位の沿岸に
は何等かの津波被害があったことを想定せざるをえな
い。史料中の「惣少家一字無之」の記述からそのことを
想定できないであろうか。
 『日海記』はまた日円上人入寂の頃で、小河(現焼津市
小川)の末寺における津波被害を次のように記している。
 彼小河之末寺江有作善、日円并衆中請云々、去八
月廿四日当寺出給也、同廿五日辰剋大地震、希代不
思議前代未聞也、非之大浪又競来、海辺之堂舎・仏
閣・人宅・草木・牛馬・六蓄等、悉没水死畢、於彼
時小川末寺御堂坊等、悉被取大浪、只如河原畢、
然者日円聖人・同宿以下悉没浪畢、必大浪ハ大地動
之時有之云云(『資料編中世』三―九〇ページ)
 小河の末寺とは当時海岸沿いの鰯ケ島にあったと伝承
されている法華山上行寺のことであり、同寺は海長寺の
大檀那であった小河住人池田宗家が開基となって明応元
年に建立されて間もない寺院であった。小河は当時東海
道の宿駅で、また遠州の掛塚湊と駿河の江尻湊をつなぐ
重要な中継湊であり、池田宗家はおそらくこの地で商
業・流通に携っていた富裕者であったと考えられる。
 また、この『駿河記』には、鎌倉光明寺の八世観誉上
人が某年の天下の干魃によって雨乞の祈禱のため上京し
ていたが、帰国の途次この地で夥しい数の溺死人に遭遇
し、その屍を取り集めて骨堂を建て供養を修せられたこ
とを記録している。『修訂駿河国新風土記』も教念寺に係
る伝承として同様の話を載せ、「明応七年此浦海立近郷の
里民溺死するもの数千人」とし、地蔵を安置して小院を
建立し骨堂と称したこと、今の教念寺がこれであると記
している(ここにいう骨堂と称されるものは現在東小川
六丁目一番地の公民館の地にあったと伝えられている)。
 また、最も悲惨な被害状況として海岸地域における津
波被害を記している。遠国や近隣の商人さらには芸能民
も集まっていた海辺の市(湊町)が一朝にして津波に襲
われ壊滅的状態になったことを記している。当時この地
域において湊として重要な機能を果たしていた所は天竜
川河口の河勾庄内の掛塚の湊であり、おそらく上述の津
波被害はこの辺りに比定できよう。
 ところで、この河勾庄の被害に関して『鹿苑日録』明
応八年六月二十二日条に次の史料がある。
今日斉時、赴禅昌喫飯、為因侍者一周忌也、季
竜西堂来、因話及遠江如(河)和庄八百人溺水□(事カ)、
(『資料編中世』三―一〇一ページ)
 この『鹿苑日録』は京都相国寺内にあった墳塔鹿苑院
歴代の僧録の日記で、河勾庄は当時相国寺普広院の所領
であった。史料の内容は、因侍者という者の一周忌の法
会に普広院の住持季竜西堂が来て話しが河勾荘で八百人
が溺死した事に及んだというものである。関連史料は全
くなく、この大被害が何時の出来事であるのか即断しが
たい。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 二
ページ 8
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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