[未校訂]故郷の地震で思い出すこと
北村市朗
(前略)
その中の長沼地震は昭和一六年七月一五日午後一一時
四五分発生マグニチュード六・二とあった。この地震発
生の時は丁度学校の期末試験で飯綱山の見える篠ノ井の
自宅の二階で、窓を開けて勉強していた。ぐらぐらと来
て地震とわかり北の方向を見たら発光現象で空一面が眞
白に明るくなったことを記憶している。一階に寝ていた
祖母の「地震だ」との叫び声が今も記憶に残っている。
停電も無く翌日の列車も動いた。局地地震だった。
赤沼の友人の報告では赤沼地区では死者二名、倒壊家
屋五軒、上下動の烈震、県より罹災救助金が交付され、
区民は一週間は余震のため外で生活。又水、砂を噴き上
げる、今で言う液状化現象が起き、一〇年位は砂地の為
作物が出来ず、二五糎程の地割れも出き、水も噴き出し
て半鐘が鳴ったそうだ。瓦屋根は重い為か全壊したが茅
葺きの家は損害が軽微だった。長沼全体では死者五名、
全、半壊家屋三〇三軒と恩師は知らせてくれた(後略)
(〒519 福井県武生市若竹町八―二一)
身近な地震三題
―善光寺・長沼・阪神大震災―
新津武
(前略)
昭和十六年七月十五日眞夜中の午後十一時四十五分に
上下動の直下型地震が私の住む南郷を襲った。長沼地震
と名付けられたその震源地は赤沼の東で千曲川の眞下と
のことであった=「長野」87号災害特集号で筆者は赤沼
地震の思い出と書いたのは当時震源地は赤沼といった。
その直後私は海軍に入団したので長沼地震という正式名
は知らなかった=。
最初は午後一〇時前後二回ほど予震があったが住民の
大半が眠りに入った十一時四十五分大音響とともに電灯
は消えて眞暗になり足元には神棚から時計など又佛檀か
らタンス類まで倒れて歩行も困難、家中の叫び声である
やつとのおもいで外にとびだしたが丁度雨が降り出した
のでとりあえず庭の柿の木の下に蚕棚を手探りで探して
こもをかけて家族全員無事を確かめてもぐりこんだ。
夜が明けるほどに地震の被害が大きいので驚いた。三
軒裏に当る峯村庄輔さんの家は柱のみが不気味にも茅ぶ
き屋根からつきぬけて建っている。近所みんなで家族六
人を救助したが、古い農家の半分だけ間借りをしていた
ので大きな佛檀と長持ちの間に寝ており、天井はその佛
檀と長持ちの上に落下したために全員助ったのである。
家族も救助に行った人達も皆屋根のすゝで前夜からの雨
で眞黒になり白い歯と眼だけが極だっていた。
夜明けとともに一軒おいた小高い丘の観音堂の庫裡が
一大音響で倒壊した。昨夜から不気味な音をたてゝいた
ので時間がたつと全壊してしまったが本堂だけは倒壊を
まぬかれた夜灯やら六地蔵も倒れ石段の下に建立されて
いる安永六年に建てた、奉安置坂東三拾三番の石塔も地
中から出て倒れかゝっていた。
南郷では全壊家屋四戸、半壊家屋七十五戸で後日使用
不能の家も相当数があった。一週間位外で寝泊りしてい
た人達も、信毎の伝えで来られた地震研究所の本田博士
が公会堂で今後九十年ぐらいはこのような大地震はない
と思いますとの講演で半壊しかかった家で泊れるように
なった。今から五十四年前の地震である。(後略)
(上水内郡豊野町南郷)