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項目 内容
ID J2700884
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1941/07/15
和暦 昭和十六年七月十五日
綱文 昭和十六年七月十五日(一九四一・七・一五)〔長野県長沼付近〕
書名 〔長野 第一八二号〕H7・7・1長野郷土史研究会発行
本文
[未校訂]故郷の地震で思い出すこと
北村市朗
(前略)
 その中の長沼地震は昭和一六年七月一五日午後一一時
四五分発生マグニチュード六・二とあった。この地震発
生の時は丁度学校の期末試験で飯綱山の見える篠ノ井の
自宅の二階で、窓を開けて勉強していた。ぐらぐらと来
て地震とわかり北の方向を見たら発光現象で空一面が眞
白に明るくなったことを記憶している。一階に寝ていた
祖母の「地震だ」との叫び声が今も記憶に残っている。
停電も無く翌日の列車も動いた。局地地震だった。
 赤沼の友人の報告では赤沼地区では死者二名、倒壊家
屋五軒、上下動の烈震、県より罹災救助金が交付され、
区民は一週間は余震のため外で生活。又水、砂を噴き上
げる、今で言う液状化現象が起き、一〇年位は砂地の為
作物が出来ず、二五糎程の地割れも出き、水も噴き出し
て半鐘が鳴ったそうだ。瓦屋根は重い為か全壊したが茅
葺きの家は損害が軽微だった。長沼全体では死者五名、
全、半壊家屋三〇三軒と恩師は知らせてくれた(後略)
(〒519 福井県武生市若竹町八―二一)
身近な地震三題
―善光寺・長沼・阪神大震災―
新津武
(前略)
 昭和十六年七月十五日眞夜中の午後十一時四十五分に
上下動の直下型地震が私の住む南郷を襲った。長沼地震
と名付けられたその震源地は赤沼の東で千曲川の眞下と
のことであった=「長野」87号災害特集号で筆者は赤沼
地震の思い出と書いたのは当時震源地は赤沼といった。
その直後私は海軍に入団したので長沼地震という正式名
は知らなかった=。
 最初は午後一〇時前後二回ほど予震があったが住民の
大半が眠りに入った十一時四十五分大音響とともに電灯
は消えて眞暗になり足元には神棚から時計など又佛檀か
らタンス類まで倒れて歩行も困難、家中の叫び声である
やつとのおもいで外にとびだしたが丁度雨が降り出した
のでとりあえず庭の柿の木の下に蚕棚を手探りで探して
こもをかけて家族全員無事を確かめてもぐりこんだ。
 夜が明けるほどに地震の被害が大きいので驚いた。三
軒裏に当る峯村庄輔さんの家は柱のみが不気味にも茅ぶ
き屋根からつきぬけて建っている。近所みんなで家族六
人を救助したが、古い農家の半分だけ間借りをしていた
ので大きな佛檀と長持ちの間に寝ており、天井はその佛
檀と長持ちの上に落下したために全員助ったのである。
家族も救助に行った人達も皆屋根のすゝで前夜からの雨
で眞黒になり白い歯と眼だけが極だっていた。
 夜明けとともに一軒おいた小高い丘の観音堂の庫裡が
一大音響で倒壊した。昨夜から不気味な音をたてゝいた
ので時間がたつと全壊してしまったが本堂だけは倒壊を
まぬかれた夜灯やら六地蔵も倒れ石段の下に建立されて
いる安永六年に建てた、奉安置坂東三拾三番の石塔も地
中から出て倒れかゝっていた。
 南郷では全壊家屋四戸、半壊家屋七十五戸で後日使用
不能の家も相当数があった。一週間位外で寝泊りしてい
た人達も、信毎の伝えで来られた地震研究所の本田博士
が公会堂で今後九十年ぐらいはこのような大地震はない
と思いますとの講演で半壊しかかった家で泊れるように
なった。今から五十四年前の地震である。(後略)
(上水内郡豊野町南郷)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 1037
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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